いつか書きたい三国志

2024年春休みのメモ

文脈破壊の三国志の人物評価

陳寿を読み、歴史学を読めば魏が上がり、
『三国演義』を読めば蜀漢が上がる。
でも「呉を持ち上げて下さい」と言われると、専用の材料がないので、呉の扱いが軽い陳寿や『三国演義』を切り抜いて褒めるしかない。切れっ端のつまみ食いか、材料度外視の偏愛で語るしかなくなる。苦しみ。

陳寿は呉をこうやって位置づけてます、
『三国演義』は呉をこうやって処理しました、
という「解説」をすると、
それは呉を「下げる」ことと区別が付きにくい。「下げる」つもりはなくても、資料や作品に基づいて話すと、下げ気味になる。悩み。

もとの書物の意図や文脈を切り離し、人物の評価をする問題。
・張飛が厳顔の縛めを解く→張飛伝、度量を示す
・張飛が劉巴に無視された→『零陵先賢伝』
これを混ぜて「劉巴と付き合おうとした張飛は度量が大きい」みたいな説が清代に書かれてて、文脈破壊の人物評価の歴史は長い。

『趙雲別伝』を使って、趙雲は英雄だったという人物イメージを構築することは、書物の意図・文脈に沿っているので、ここでは非といたしません。『趙雲別伝』に依ることで、実際に趙雲がどうであったか?という問いに十分に答えられるとは限りませんが。


陳寿は魏と蜀を重んじ、『三国演義』は蜀と魏を重んじた。「呉の人物をほめる」となると、文脈破壊の人物評価になりかねない。
考え方を変えてみるか。
人物のキャラ化、カード化・データベース化で個別に味を出すのが現代っぽいのかな。文脈破壊アレルギーを治せば、世界観が広がるかも?
学問をやるものとして、「資料に沿って考える」は基本ですけど、それだけでは頭が固すぎて、世間の求めに対応できていないおそれがある。240312

まやや&充実 @mayaya_jujitsu さん
呉(特に孫休孫皓期)で活躍した豪族一族はその後の東晋南朝でも活躍しているので、六朝期と絡めて呉の話を膨らませるのはどうでしょうか?虞翻の一族の子孫が虞世南だったり、江東で活躍した左慈の流れを汲んだ葛洪が道教の大成者になったりとか。

渡辺精一 三國志人物事典

朱治

あざなは君理。丹楊故鄣のひと。孫堅の代からの部下。袁術のもとで不遇をかこつ孫策に、江東を攻めよと勧めて自らも参加。呉郡の賊討伐にも従って、呉郡太守に任命された(15)。曹操軍との三江口の戦いの前、大都督周瑜の命で、呂範子衡と四方巡警使をつとめる(44)。

朱然

呂蒙に従って荊州を攻める(75)。逃げ場を失った関羽・関平を待ち伏せ、潘璋らと協力して生け捕った(77)。
劉備が荊州を攻めると、朱然は孫桓に従い、右都督として出陣。水軍2万5千をあずかって布陣すると、蜀の兵士が投降して夜襲を告げるが、じつは蜀の呉班の計略であった。朱然の出した使者は、孫桓に夜襲を通報する前に、関興に捕らわれて殺された。朱然の部将の崔禹は、投降した兵士の言葉をあやすんで、朱然に「残って水軍を守っていてください」と進言。朱然はこれに従い、兵1万を与えて崔禹を陸路から孫桓の加勢にいかせた。崔禹は待ち伏せにあい、打ち首にされた。朱然は全滅を避けるため、水軍を下流に5、6里下げた(82)。
連敗を続けた孫権は、陸遜を起用。朱然は陸遜の命令で、猇亭ふきんの揚子江上にカヤを積んだ船を集め、その夜、合図とともに火をかけた。蜀軍はその火攻めで大敗し、朱然は逃げる劉備の前に岸辺から飛び出す。しかし趙雲が出現したので、陸遜の命令で退こうとする。途中、朱然は趙雲とまともに出会って、ひと突きで突き落とされた(84)。

関平

河北に住む関定の次男。関羽が宿泊したとき、劉備の仲立ちで養子に(28)。
荊州に夏侯惇が攻めてくると、劉備の養子の劉封とともに、孔明の作戦どおり動いて勝利(39)。
周瑜が劉備を抹殺しようとすると、関平・劉封が待ち受けて阻止(57)。
益州攻めに参加した後、荊州にいる孔明を呼ぶために、荊州に移って留まる。関羽の「馬超と腕比べがしたい」という手紙を益州に届け、孔明の返書をもらって荊州にもどる(65)。
諸葛瑾が荊州返還を求めると、関羽が剣に手を掛けるが、関平がとりなす。魯粛と関羽の単刀会では、合図によって船をこぎ寄せる(66)。

関羽が黒い豚に足を噛まれる夢をみると、豚は龍の象徴だから吉兆だという。襄陽で曹仁と戦い、翟仁を殺し、襄陽を取る。船を用意して、樊城に進攻する(73)。関羽にかわって龐徳と戦うが、勝負がつかない。龐徳の矢を受けた関羽をかばって帰陣し、傷の回復を喜ぶ(74)。
関羽が毒矢を受けると、すぐ治療をさせる。徐晃が到着し、背後を呉に攻められ逃げる。傅士仁・麋芳も呉に下る。

麦城に立てこもり、上庸の劉封・孟達に救援を求める廖化を援護し、丁奉と戦う。投降を薦めた諸葛瑾を斬ろうとするが、関羽に止められる(76)。
劉封・孟達は、救援を断る。蜀に帰ろうとするが、呉の伏兵にあって殺された(77)。

渡邉義浩 三国志事典

朱治

君理。156-224年。
州の従事から、孫堅の司馬となった。陽人の戦いの後、督軍校尉となり、徐州の陶謙のもとに援軍として派遣された。
孫堅の死後、孫策を補佐し、ともに袁術に身を寄せた。寿春に抑留された太傅の馬日磾に招かれ、呉郡都尉となり、太守の許貢を破って呉郡太守を代行した。15歳の孫権を孝廉にあげた。
孫権が後をつぐと、呉郡太守・扶義将軍となり、山越を討伐した。荊州を曹操が支配すると、豫章太守の孫賁は人質を差し出して帰順しようとしたが、これを説得して思い止まらせた。

孫権が呉王になっても、朱治が目通りにくると直々に出迎え、宴会でも特別待遇を与え、配下の役人にも個人的な目通りを許した。それでも朱治は驕らず、富貴な地位を占めても、車馬や服飾は必要なものしか使わなかった。「呉の四姓」など有力豪族の子弟が多数出仕して、呉郡の役人は数千人にもなり、朱治が孫権に使者を派遣するときは、数百人にものぼった。
呉郡太守の地位にあること31年、黄武三(224)年に69歳で死去した。

朱然

義封。182-249年(孫権は182-252年)。
もとの姓は、施氏。孫策のなかだちで、母の弟である朱治の養子となった。孫権と学友で、孫権が後を継ぐと、余姚県長となり、山陰県令・折衝校尉を経て、臨川太守となり、山越を平定した。
曹操が濡須口に侵攻すると、大塢と三関屯を防備し、偏将軍となった。潘璋とともに関羽を生け捕り、呂蒙から後継者に推薦され、江陵を守備した。夷陵の戦いでは、魏の危険を説いて追撃を中止させ、曹丕の攻撃から江陵を死守した。
孫権が即位すると、車騎将軍・右護軍となり、長らく最前線で戦った。陸遜の死後は、功臣で唯一の生き残りとなり、孫権に厚遇されたが、病死した。

呂布

『後漢書』呂布伝
術 韓胤を遣はして僭號の事を以て布に告げ、因りて婦を迎へんことを求め、布 女を遣りて之に隨はしむ。沛相の陳珪 術 布に姻を成すを報ずれば、則ち徐・楊 合從し、為難未已を恐る。是に於て往きて布に說きて曰く、「曹公 天子を奉迎し、國政を輔贊す。將軍 宜しく與に策謀を協同し、共に大計を存すべし。今 袁術と姻を結ばば、必ず不義の名を受け、將に累卵の危有らん」と。布も亦た素より術を怨めば、女 已に塗に在るも、乃ち追ひて還して婚を絕ち、胤を執らへて許に送り、曹操 之を殺す。

『三国志』呂布伝
『後漢書』と同じく、呂布は陳珪に説得されて、娘を道の途中で引き返させた。
始め布は登に因りて徐州牧を求む。登 還るや、布 怒り、戟を拔きて机を斫りて曰く、「卿の父は吾に勧めて曹公に協同し、婚を公路に絶たしむ。今吾の求むる所は一も獲らるること無く、而して卿ら父子並びに顯重なるは、卿の賣る所と爲るのみ。……
と文句を言ったが、陳珪に言いくるめられた。

袁術が軍を派遣してきたが、韓暹・楊奉を裏切らせた、袁術軍を破った。
建安三年、呂布が曹操に包囲されると、『英雄記』によれば、許汜と王楷は袁術を説得した。
『英雄記』:布 術の女至らざるが為に、故に兵を遣はし救はざるを恐れ、緜を以て女の身を纏み、縛りて馬上に著け、夜に自ら女を送り出でて術に与へんとす。太祖の守兵と相 触れ、格射せられ過るを得ず、復た城に還る。
→未遂事件なので『英雄記』の創作??

その他

持節右軍師左大司馬当陽侯朱然再拝
安徽省馬鞍山市
虎帳談兵按六韜,安排香餌釣鯨鰲。三分自是多英俊,又顯江南陸遜高。
虎帳兵を談じ 六韜を按じ
香餌を安排して 鯨鰲(げいごう)を釣る
三分自ずから是 英俊多きが
また顕す江南 陸遜の高さを

『説文解字』:鯨は、海の大魚なり。
『左伝』宣公十二年にみえ、疏によると、鯨はオスクジラで、魚児はメスクジラ。
鯨鯢大魚名以喻不義之人吞食小國。
不義のひとが小国を飲み込むことをたとえる。
わなをしかけて、不義の人を捉えたうた。

鰲は、集韻によると、魚の名。

典論は、書名。曹丕の著。『隋書』巻三十四 経籍志三に、「典論五巻、魏文帝撰」とある。今日に伝わるのは、『三国志』文帝紀注に引用される自叙と、『文選』巻五十二が載せる「論文」の二篇が中心である。黄以周『儆季雑箸子叙』によると、『典論』の篇数は不明であるが、篇名が明らかなものとして姦讒・内誡・酒誨・論文・太子・終制の七篇があり、ほか『群書治要』と『意林』の載録する逸文より禅譲・学術・漢帝得失・政治・剣・養生・自叙学術などの篇があったことが推測される。『芸文類聚』巻十六 所引「魏卞蘭賛述太子表」に、「窃見所作典論」とあるため、曹丕の太子時代に成立したと考えられる。のちに明帝期の太和四(二三〇)年、『典論』を石碑に刻んで廟門の前に立てたという(『三国志』巻三 明帝紀)。「蓋し文章は経国の大業にして、不朽の盛事なり」という語で有名な文学論がある。

上(曹操)は世が動乱にあたるため、余に射術を学ばせ、六歳にして射術を会得した。また余に馬術を学ばせ、八歳にして騎射を会得した。ときに多難な時代で、外征するたび、余はつねに従軍した。建安の初め、上が荊州に南征し、宛城に至ると、張繍は降伏した。
かつて平虜将軍の劉勲・奮威将軍の鄧展らとともに酒を飲んだ。かねがね聞くには、鄧展は腕に覚えがあって、五兵(矛・戟・弓・剣・戈)を知り尽くし、また武器を持たずに白刃のなかに入れると称したという。……(鄧展は)余と対決することを求めた。ときに酒宴はたけなわで(酔いが回って)耳は熱く……サトウキビを……三たびかれの臂に当てたので、一同は大笑いした。
そもそも物事とは己が優れていると自分から言ってはならない。