いつか書きたい三国志

2023年秋読書メモ

歴史学と言語論的転回

長谷川貴彦:
言語論的転回について、少し整理する必要がありますね。言語論的転回には、いくつかの系譜があると思います。
①歴史家の叙述とか語りというものを対象とする場合は、物語論的な転回というふうにいわれます。……構築主義という形で批判される場合は、おそらくこの流れです。ヘイドン・ホワイト『メタヒストリー』(原著1973年、作品社2017年)もこちらの系譜。歴史家の語りの問題ですね。
それに対して、リン・ハント『グローバル時代の歴史学』のように、文化や言語が社会的実態に対して相対的に自律性をもっている点を強調する研究に顕著ですが、語り手ではなく、分析対象のほうに言語論的転回の分析手法を持ち込むというような潮流もあります。思想史でたとえば、ステッドマン・ジョーンズの研究に見られるような「階級」という言語とイギリスの当時の階級の実態が齟齬をきたす、その軋轢なり緊張関係なりを描くようなアプローチがありますが、そういう対象の分析に用いる場合の言語論的転回というものがある。
日本では、言語論的転回の紹介のされ方に問題があって、近年の慰安婦問題が典型的ですが、自由に好き勝手に物語を構築できるという意味で受容され、歴史修正主義的な「国民の物語」を創出するために利用されてきました。……
しかし、そのような言語論的転回は、19世紀末からランケの実証主義批判のために出てきたベネデット・クローチェやR・G・コリングウッドのような歴史哲学へのゆがめられた回帰だと思うんですよね。
こうした実証主義と歴史哲学の対立は、20世紀半ばにマルク・ブロックとかE・H・カーなどが、過去と現在との対話という形で、それを止揚したわけです。おそらく、現在の歴史学の成り立ちに関しては、カーやブロックが述べた構図から逃れることはできなくて、言語論的転回もその枠組みのなかで再解釈されるべきではないかと思います。
『〈世界史〉をいかに語るか_グローバル時代の歴史像』(岩波書店、2020年)

多賀秋五郎『中国宗譜の研究』より

宗譜は、族譜ともいわれ、もともと宗族の系譜が主であったが、しだいに宗族の統制や教化、族産や賑恤、祭祀や墓(ぼ)塋(えい)などに関する記録が収載されるようになり、その栄誉や歴史から著作や詩文にいたるまで、ひろく宗族に関する記事を収録するものがあらわれた。
北宋になると宗譜は収族的機能をもち、宗譜を石に刻んで拝(はい)奠(てん)する儀式がおこなわれた。南宋には修譜が北宋の五倍以上に達し、宗族の結合教化のために叙譜堂・祀堂の設立、義田・義荘の設置、族食・族燕の挙行、義学・義(ぎ)冡(ぼう)の設営、家訓・規矩の作定など、宗族結合の教化活動が促進されるが、その中心的活動として修譜が重要視された。元代には文集にあらわれている譜名が南宋時代の四倍にのぼる。宗族の人口が膨張し、六百~七百人に達するものもあり、宗族の房派・文支による組織化が進んだ。印刷した宗譜もあらわれ、合譜も行われるようになった。

十六・十七世紀の宗譜は、印刷文化の普及によって刻本が多く作られたが、書く宗族の族人数の膨張や経済面の豊潤化による結果でもあろう。印刷された宗譜には、通譜運動によってできた統宗譜会通譜が多い。異宗との識別はきびしく、会通を提唱してきたり、統宗への加入を申し出たりする宗族があっても、同宗でなければ容易に承認しなかった。それには、魅力のある宗族ほど地方的望族としての自負が強く、同姓というだけで、これに加入しようとする異宗を拒否した。

当時の地方的名族をしるしたものとして、名族志(大族志)がある。形式的には古譜(唐代以前の国家の統制下に置かれた家譜類)の望族譜(氏族志)の流れをくむものであるが、かつてのように国家によってつくられ、全国的に宗族の系譜を統制する機能はなく、民間人の手になり、局地的な名族の序列を記したものに過ぎなかった。しかしながら、名族に客観的評価をあたえるものとして、その地域の望族に対してかなりの影響力をもち、ことに、望族の序列決定は、宗族にとって社会的な拘束力をもつものとされていた。もっとも、名族志はその名のとおり「譜」でなく「志」であって、譜的性格がしだいに稀薄となり、地方志のなかへ解消して行くのである。

名族志解消の背景には、明末・清初にかけての通譜の盛行があげられる。これまで異宗をきびしく識別していて、通譜を安易に認めなかった宗族が、しだいに不安定となる社会情勢のなかで、宗族がより大きく結合するためには、名目上は血縁の純潔性を強調しながらも、現実的には利害が共通すれば、始祖をくりあげて共通にするなど妥協の方法を見出して、通譜するものがしだいに多くなり、顧炎武をして、近ごろ同姓通譜がもっとも濫襍していると慨歎させている。

こうした運動は、宗譜の内容をしだいに一般化し、宗約の内容をしだいに類型化するようになった。宗約(族約)とは、宗族内の規約であるが、それには、家訓にみられるような族人としての規範や、郷約にみられるような不履行者に対する制裁などもみられる。したがって、それは、議約の手続きを踏んで設定するのが普通であった。こうして成立した宗約では、始祖の慈愛と子孫の敬愛を枢軸とする倫理性にもとづいて、族人生活の具体的な在り方を規定している。
それで、宗族内に生まれた人は、宿命的に、国法と宗約の規制を受け、自由な個人ではありえず、つねに宗族の向上に協力・奉仕し、始祖の心を安んずるための行動をしなければならなかった。もっとも、これは他宗族より嫁してきた婦人にももとめられたし、あらたに統合された結果、新族人となった人たちにも求められた。こうした宗族の規程は、当然宗譜の内容にも影響し、宗譜の性格をいっそう決定的にした。

それによると、宗譜は、
(一)血縁の関係を明らかにして、族人意識を自覚させるための世系・世表・淵源記・支派記など、
(二)宗族の栄誉を知らせて、族人の奮起を促すための誥勅・像賛・登第記・仕官記・墓志記・文苑など、
(三)祭祀の記録をしめして、始祖への帰一を促すための墳(ふん)塋(えい)記・祠堂記・祭文・祭産記・祠規などを内容とし、さらに、
(四)宗族の規範を明らかにして、族人生活を統制するための家訓・宗約などが収載されるようになった。
こうして、宗譜の様式は、明末にいちおう完成されるに至ったとみることができる。

宗譜は、順治・康熙・雍正としだいに多くなり、それが乾隆・嘉慶・雍正といっそう多くなる。橘樸氏が、概念的に、宗譜は明代にもっとも盛行したとか、宗譜は乾隆以降退化したとかいわれた説は、否定されねばならない。乾隆年間には、むしろ、江西や広東では、宗族の影響があまりにも強いので、総督や巡撫は、その統制の必要性を強調しているほどである。宗族が大きな打撃を受けたのは、太平天国軍が、攻撃・占拠した地域の宗族である。

多(た)賀(が)秋(あき)五(ご)郎(ろう)『中国宗譜の研究』下巻(日本学術振興会、一九八二年)、四五二~四五七頁、「結語」より。230925