いつか書きたい三国志

坂出祥伸『康有為 ユートピアの開花』より

読書メモ

坂出祥伸『中国の人と思想⑪ 康有為 ユートピアの開花』(集英社、一九八五年)

康有為
公羊学派、光緒帝を動かし1898年に百日維新。戊戌の政変で国外に亡命。
革命派(孫文ら)を善玉とし、復辟(清朝皇帝復活)や孔子崇拝を解いた改良派(康有為)らを悪玉とする図式で片付けられるようになった。

清朝終わりに、阮元が両広総督(広東・広西)として赴任し、1817-1826に人材育成した。越秀山に学海堂をつくり、『皇清経解』は清代学者の経書解釈学のほとんどを集めた叢書をつくった。
1884-1889に両広総督になった張之洞が同地の学問振興をはかり、朱一新は、漢学と宋学を折衷した実学の風をおこすことにつとめた。朱一新は、康有為『新学偽経考』を批判した。

ふつう、康有為には春秋公羊学者・今文派というレッテルがつけられるが(p38)、後年の思想の柱となるが、青年期までは家学の朱子学をした。変法の形成には、掌故(制度・法令・慣例などの実際的知識)と、歴史(『明史』『三国志』)への関心が作用した。p27

康有為の師の朱九江(朱次琦)の学問は、節行は鄭玄、義理(思想)思想は朱子にもとめるが、上限も朱子も棄てて、あらゆることはみな孔子に帰すべきとした。顧炎武に似ている。いわゆる「漢宋兼採」(鄭玄の注釈学と、朱子の理学を兼ねあわせる)。

朱子学の流れをくむ顧炎武は、「今日の清談はむかしよりひどい。むかし清談は老荘を語ったが、いま清談は孔子・孟子を語りながら、末梢ばかりを求め、六経を学ばず、書物を調べず、当今の政治を考えず……、心を明らかにし性を見るといった空論で、己れを修め人を修めるという実学に代えている。そのため社稷は荒れ果てた」(『日知録』巻七)
経世致用の実学を目指した。
陽明学の流れをくむ黄宗羲も同じ。朱子学・陽明学ともに排斥して、「習行」(実践)を尊んだ顔元の学問も、「実学」と呼ぶに相応しい。

清朝が懐柔と弾圧をしたので、学者は政治や社会のできごとに目をつむり、ひたすら純粋な学問、それも訓詁考証のように政治は関わることのない学問に没頭。顧炎武らが唱えたような経世済民は忘れられた。

顧炎武が朱子学を批判したように、この考証学の説明はだれか(清末のひと)の目線が含まれているのではないか。

訓詁考証をきわめるひとは、鄭玄・許慎の経書解釈学を至上のものとして尊んだので、「漢学」とよばれた。漢学が、今日(20世紀)でもなお優れた価値を失わない研究成果を数々あげたことは否定できない。

清末の訓詁学批判を容認した上で、近代の別角度から訓詁学を評価しなおすことは、訓詁学の実際を言い当てることにはならない。

イギリスのアヘン貿易を受けて、訓詁考証に没頭して社会がどのようになろうとも、われ関せずという「漢学」の徒への批判がおこる。p42

漢学への批判は、二方面から。
一つは、朱子学。二つは、春秋公羊学を奉ずる学者から。
朱子学は、桐城派の方東樹。漢学者は「実事求是」を標榜しながらも、「身心・性命・国計・民生・学術の大にかかわることなし」と。非政治性、非実践性。
二つは、春秋公羊学派。何休は、鄭玄や許慎の学問と異なり、経書を学ぶのはそれを政治や社会に応用するためのものだという立場。
清代なかごろ、公羊学を復活再生させようとしたのは、龔自珍(1792-1841)とか、魏源(1794-1857)がいる。漢学者が煩瑣な訓詁考証の泥沼におちこんでしまい、現実の王朝体制崩壊の危機に対応できない状況を指弾。龔自珍『乙丙之際箸議』『古史鉤沈論』『明良論』など、魏源『古微堂集』がある。
どちらも、儒学が本来的にもっている「経世済民」という実践的機能を回復すべきという点で一致している。公羊学は大きな力を持つに至らず、宋学は科挙試験が朱子の解釈に基づいて出題されるため、大官僚(曾国藩ら)のあいだに隠然たる指示があった。

漢学への批判は、1800年代に入ってから。


朱次琦は漢宋兼採というが、漢学よりも宋学を尊敬する。漢学に対しては、「紀昀は漢学の前茅であり、阮元は漢学の後勁である。百年このかた、聡明魁偉の士は、たいていかれらに錮(つな)がれている。これこそ天下に人材が乏しい所以だ」と漢学の弊害をいう。
広州で尊敬された阮元さえ、批判している。阮元がアヘン公認論をとっていたためか。朱次琦によると、阮元の『皇清経解』は、漢学者の経解だけをとり、方東樹ら宋学者の経書解釈を収録していないとして批難する。
朱次琦は「いにしえの実学」を重んじるが、これは考証学のことではない。経学と史学を中心に、掌故の学、性理の学、辞章の学の五つ。

朱次琦(朱九江)に習う康有為は、19歳。銭大昕の全集、趙翼『廿二史箚記』、顧炎武『日知録』、王応麟『困学紀聞』などを読み、古文献の問題点がはっきりしてきた。
朱九江から、『五代史』(新旧2つある)についての史裁論(四書としての体裁に関する議論)を出諾されたので、『史通』の体裁にもとづいて書き、20ページあまり書いたのを、ほめられた。
朱九江のもとで、漢学・宋学の区別をこえて、直接に孔子に接するべきという考えは、『新学偽経考』『孔子改制考』『大同書』の基調をなす。p49

自著『康子内外篇』に、拠乱世、升平世、太平世という「張三世」とよばれる春秋公羊家の歴史観がみえる。漢代に行われたというが、長く忘れられ、儒家にも一般的なものではない。廖平という公羊学者から剽窃したものとも。
性説では、『孟子』のなかの告子を支持する。p78

p143入門した梁啓超・陳千秋が最初に教えられたのは、劉歆偽経の説と、孔子が中国文明の開祖であるという説。訓詁考証の学問にふけって、経書を神聖なものと信じてきた二人にとっては想像を超えた新説。
大地界には三世(三段階で発展する世)があり、それよりのちの大同の世にも、また三統(一世をさらに三分した世)がある……と教わったと梁啓超が回想している。
梁啓勲の回想では、まっさきに読むのは『公羊伝』であり、同時に『春秋繁露』を読む。
梁啓超『清代学術概論』には、『公羊伝』のほうかに『資治通鑑』『宋元学案』『朱子語類』などを点読(句読点を打ちながら読むこと)をした。古代の礼の実習は、梁啓超も陳千秋も嫌いだった。

p161孔子教再生への道――まず劉歆を撃て
重箱の隅をつつく考証学は無用。経世済民の「仁」をめざす。漢学を舎(お)き宋学を釈(す)て、孔子に本づけ、経世済民を帰着点とする。漢学・宋学から離れたので、依拠するものはなにもない。独自の学問体系・思想体系を創造するしかなく、朱九江先生の教っである「孔子に本づける」こと。
康有為が北京の沈子培の家で読んだ廖平『今古学考』によると、経学はすでに先秦時代に孔子を主とするものと、周公を主とするものの二派に別れていた。前者(孔子)を「今学」といい、魯でおこなわれ、斉に広まり、漢代に引き継がれた。後者(周公)は、孔子が壮年のころ、周公を祖述していたときの学で「古学」という。古学は、前漢ではわずかに河間献王らによって維持され、劉歆が世に認めさせた。
康有為は「(廖平が)己れを知るものだ」と喜んだ。孔子は周公の学説を祖述しただけで、新しく諸制度・文化を制作したのではない、という伝統的な孔子観をひっくり返すことができると考えた。孔子もまた、晩年に制作者となったのだ。その学問は、劉歆のせいで湮滅させられた。
このような着想は、孔子の真の道を発揮させるべきだと考えている康有為にとって、まことに好都合であった。

康有為が広州の広雅書局で聞かされた廖平の学説、『知聖篇』にも説かれている劉歆偽作説。『左伝』は劉歆の偽作だと主張する廖平に、康有為は同調した。孔子の真の道が発揮されるのを永いあいだ妨げてきたのは、劉歆の偽経工作にほかならない。『左伝』を偽作しただけではなく、すべての経書を偽造するか混乱させるかし、そのうえに、偽造混乱の跡を隠すための細工を『史記』『漢書』その他の歴史史料にほどこした、と拡大していけば、康有為の孔子改制説にとって、ますます有利になる。p164
康有為は23歳のとき『公羊伝』の何休注を学び、それが誤っていることを論じた『何氏糾謬』を著した。29歳のときの『教学通義』は、古文経『周礼』を解説したもの。しかし、廖平の著作を見てから、いずれも廃棄してしまったといわれる。
ところがいま、廖平からの示唆を受けて、ふたたび公羊学と今文経学にまいもどり、公羊家が説いた三段階発展説(張三世説)によって、かつて夢に描いた太平斉同の世に到達する過程が整理できるようになった。

『新学偽経考』は、『史記』『漢書』『後漢書』などの史料んどから、劉歆偽経説に役立つ資料を集めて主題別に排列し、それを考証する清代学者の経説(経書解釈)、なかでも劉逢禄『左氏春秋考証』、魏源『詩古微』などによって補強しつつ、その按語(添え書き)のなかで、劉歆がいかにして『春秋左氏伝』『周礼』などの古文経書を偽作したか、また、その偽作の跡を覆い隠そうとして、『史記』のなかには自分の文を書き足したとか、『漢書』については、その事実上の撰者は班固ではなくて劉歆であって、そこには古文経書こそ孔子の真書だとする(劉歆による)捏造記事が散りばめられている、と康有為が論証した。

康有為『長興学記』に、孔子改制説と劉歆偽作説の基礎が述べられている。
六経はみな孔子の作であり、そのうち、『詩』『書』『礼』『楽』は、孔子が先王の書を刪定(さんてい)したものであるが、『易』『春秋』は、まったく孔子の筆になるもの。孔子が万世の師であるのは、六経を制作したことにある。孔子の改制の意図は、『春秋』に明らかにされているのだが、それはなぜか。孔子は晩年になって、わが道が行われないので、のちの王者に告げようとし、そこで改制のことを考えた。だから、『春秋』が、改制のために著されたものであることを知ってこそ、他の諸経に通ずることができるのであり、ことに『易』は、義理の根本、変化の極を述べたもので、孔子の天人の楽(霊魂界のことを説く学問)は、この『易』に載せられている。
ところが劉歆が古文を偽造し、諸経を乱してしまってからは、『毛詩』『周礼』『左氏春秋』といった偽経を増やし、杜林・衛宏(後漢はじめの学者)は、これを鄭司農・鄭玄につたえ、馬融が宣伝した。鄭玄が今文と古文をまじえて採用したので、今文家の家法(経書解釈の伝承)をすっかり乱した。劉歆の土俵ですもうをとるようになって、家門が栄えたと。
このようにして、三国以降、宋学も漢学もともに「新学」に覆われた。「新学」とは、王莽の新に協力した劉歆の学問という意味。

梁啓超によると、主観的で自信過剰、きわめて強引。客観的事実に対しても、あるときは無視をしたり、あるときは強引に自分の意見に合わせたりした。
たとえば、『西京雑記』に基づいて『漢書』は大部分が(班固でなく)劉歆の撰だと(康有為が)主張しているが、『西京雑記』は葛洪の名に託された偽書であって、その記述を信用しがたいことは康有為も分かっていたはずではないか。『漢書』のなかの古文経書に関する記述は証拠とすることができないと(梁啓超は)いう。

康有為を歓迎するものもいた。長く続いた訓詁考証と八股文(科挙受験用の形式的文章)の勉強ばかりの学問に飽き足らず、多少とも思想的内容のある書物を求めていた時代風潮にアピールした。
董仲舒の『春秋繁露』に基づいて自説を展開した『春秋董氏学』に着手した。

孔子は万世の教主だ。p174
欧米のキリスト教、日本の神道のように、国民の紐帯として「孔子教」を構想した。諸子百家は、上古の聖王をかってに創造し、仮託して信頼を得ようとしてきた。老子は黄帝に仮託し、墨子は夏の禹王、許行(勤労主義を唱えた学者)は神農に仮託した。孔子の諸子百家の一人であり、孔子自身が創造した尭・舜・禹・文王・部王が実施した政治・礼楽の諸制度と称するものを持ち出し、しかも六経をみずから著作して、それを「託古改制」(古代に実施されていたものだとして諸制度を変革したり創設したりする)のよりどころとし、みずから制法(諸制度を定めた)の王をもって任じた。
がんらい、祖述者であって創始者ではない孔子を、康有為は、制作者・創始者であるとした(『孔子改制考』巻九)。中国の義理・制度は、すべて孔子によって立てられた、という破天荒な主張をした。p177
(キリストのポジションに置くための改変)

かつて章学誠は『文史通義』のなかで、「六経はみな周公の政典である」と主張したが、そういう説は誤謬もはなはだしいと、康有為はいう。なにがなんでも孔子は神明なる聖王であり、改制の教主でなければならない。欠け損なわれた書物をたいせつにして、解釈するだけの経学者の地位に降ろされてしまったから、異教(仏教など)があえて中国に入り込んで争うことになったのだ。
康有為はこれを論証するために、董仲舒『春秋繁露』や、前漢末に孔子を神秘化した緯書をもちいた。

孔子はなぜ社会全体を救済せねばならないのか。孔子は乱世に生まれた。歴史は、拠乱世、升平性、太平世へと進化する。孔子が生まれた周末は、文明が開かれていない乱世。やがて未開から文明に至る過渡期としての升平世がおとずれ、最後に文明が開化して太平世となる。これが三世説。p179
康有為『春秋董氏学』によると、孔子は三世説を、『春秋』に仮託して明らかにした。孔子が伝聞している世(隠公から僖公まで)は、拠乱世。聞くところの世(文公から襄公まで)は升平世に仮託されている。見るところの世(昭公から哀公)は、太平世に仮託されている。
康有為によれば、孔子は目の当たりにしている世(昭公から哀公)の現実を賛美しているのではなく、じつは未来への歴史過程に仮託している。歴史の序列を、おのれの願望によって逆転させている。伝統的な儒教的理念では、尭舜禹の三代は理想的社会とされるが、康有為はこれを逆転させて、下降史観から上昇史観とする。これに、みずからの変法のイメージをダブらせている。
公羊学の「微言大義」を、三世説・改制説・時宜(にかなった改革)の内容としていた。この「微言大義」は、『公羊伝』のなかに詳らかだと康有為はした。『左氏伝』は劉歆の偽作であり、『穀梁伝』は孔子改制の思想が盛り込まれていないので、『公羊伝』より軽んじられる(消去法かよ)。しかし、『公羊伝』にも脱簡を生じたため、董仲舒『春秋繁露』で欠を補うことができるという。230812