いつか書きたい三国志

四庫全書 史部の總敍・三国志・晋書

史部總敍

全國漢籍データベース 四庫提要
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史部總敍
史之為道、撰述は其の簡なるを欲し・考証は則ち其の詳なるを欲す。《春秋》より簡なるは莫く・《左傳》より詳なるは莫し。
《魯史》錄する所は、具さに一事の始末を載す。聖人は其の始末を觀て、其の是非を得る。而して後は能く一字の褒貶を以て定む。此れ作史の考証に資するなり。丘明 錄して以て傳と為し、後人 其の始末を觀て、其の是非を得る。而して後は能く一字の褒貶する所以を知る。此れ讀史の考証に資するなり。苟し事跡無くんば、聖人と雖も《春秋》を作る能はず。苟し其の事跡を知らざれば、聖人《春秋》を讀むを以てすと雖も、褒貶する所以を知らず。儒者 大言を為すを好み、動すれば傳を舍て以て經に求むと曰ふ。此れ其の說 必ず通ぜず。其れ或いは通ずる者は、則ち必ず私に諸傳を求め、詐稱して傳を舍つと爾(し)か云ふ。
司馬光の《通鑒》、世に絕作と稱せられ、其の先に《長編》を為り、後に《考異》を為るを知らず。高似孫の《緯略》、其に《與宋敏求書》を載せ、洛に到りて八年、始めて晉・宋・齊・梁・陳・隋六代を了ふと稱す。唐の文字 尤も多く年月に依りて編次して草卷と為し、四丈を以て一卷と為し、計ふれば六七百卷を減ぜず。又 光の作れる《通鑒》を稱し、一事に三四たび出處を用ひて纂成し、雜史諸書凡二百二十二家を用ふ。李燾《巽巖集》も、亦た張新甫 見洛陽に《資治通鑒》の草稿 兩屋盈す有りと稱す。(按ずるに燾集 今 已に佚じ、此れ據馬端臨《文獻通考》述其父廷鸞之言。)今 其の書を觀るに、如淖方成禍水之語則採及《飛燕外傳》、張彖冰山の語は則ち採るに《開元天寶遺事》に及び、並びに小說 亦た之を遺さず。然らば則ち古來の著錄は、正史の外に於て兼せ收めて博く採り、目を列べ編を分くるは、其れ必ず故有るなり。今 群書を總括し、十五類に分く。首は《正史》と曰ひ、大綱なり。次に《編年》と曰ひ、《別史》と曰ひ、《雜史》と曰ひ、《詔令奏議》と曰ひ、《傳記》と曰ひ、《史鈔》と曰ひ、《載記》と曰ひ、皆 紀傳を參考する者なり。《時令》と曰ひ、《地理》と曰ひ、《職官》と曰ひ、《政書》と曰ひ、《目錄》と曰ふは、皆 諸志を參考する者なり。《史評》と曰ふは、論贊を參考する者なり。
舊に一門を《譜牒》する有り、然れども唐より以後、譜學 殆ど絕ゆ。玉牒 既に外に於て頒せず、家乘も亦た官に上らず、徒だ虛目のみ存し、故に從りて焉を刪る。私家の記載を考ふるに、惟だ宋・明の二代のみ多と為す。蓋し宋・明の人 皆 議論を好み、議論 異なれば則ち門戶 分け、門戶 分くれば則ち朋黨 立ち、朋黨 立てば則ち怨結を恩ぶ。恩怨 既に結ばれば、志を得れば則ち朝廷に排擠す、志を得ざれば則ち筆墨を以て相 報複す。其の中に是非 顛倒し、頗る亦た熒聽あり。然らば疑獄有ると雖も、眾証を合して之を質さば、必ず其の情を得ん。虛詞有ると雖も、眾說を參じて之を核さば、亦た必ず其の情を得ん。張師棣《南遷錄》の妄は、鄰國の事 質す無きなり。趙與峕《賓退錄》は金國の官制を以て証して之を知る。《碧雲騢》の一書 文彥博・范仲淹諸人を誣謗し、晁公武は以為真出梅堯臣、王銍は以為へらく魏泰に出自し、邵博も又た其の真に堯臣に出づるを証す、聚訟〈互いに是非を争って定まらない〉と謂ふべし。李燾 卒に參互して之を辨定し、今に至るまで遂に異說無し。此れ亦た考証の之を詳らかにせんと欲するの一驗なり。然れば則ち史部の諸書、自ら鄙倍冗雜にして、灼然として無可採錄外、其れ裨 正史に於て有る者は、固より均しく宜しく擇びて之を存すべし。230704

史之爲道。撰述欲其簡。考證則欲其詳。莫簡於春秋。莫詳於左傳。魯史所錄。具載一事之始末。聖人觀其始末。得其是非。而後能定以一字之褎貶。此作史之資考證也。丘明錄以爲傳。後人觀其始末。得其是非。而後能知一字之所以襃貶。此讀史之資考證也。苟無事蹟。雖聖人不能作春秋。苟不知其事蹟。雖以聖人讀春秋。不知所以襃貶。儒者好爲大言。動曰舍傳以求經。此其說必不通。其或通者。則必私求諸傳。詐稱舍傳云爾。司馬光通鑑。世稱絕作。不知其先爲長編後爲考異。高似孫緯略載其與宋敏求書。稱到洛八年。始了晉宋齊梁陳隋六代。唐文字尤多依年月編次爲草。卷以四丈爲一卷。計不減六七百卷。又稱光作通鑑。一事用三四出處纂成。用雜史諸書凡二百二十二家。李燾巽巖集亦稱張新甫見洛陽有資治通鑑草稾盈兩屋。(案燾集今已佚。此據馬端臨文獻通考述其父廷鸞之言。)今觀其書。如淖方成禍水之語。則採及飛燕外傳。張彖冰山之語。則採及開元天寶遺事。竝小說亦不遺之。然則古來著錄。於正史之外。兼收博採。列目分編。其必有故矣。今總括羣書。分十五類。首曰正史。大綱也。次曰編年。曰別史。曰雜史。曰詔令奏議。曰傳記。曰史鈔。曰載記。皆參考紀傳者也。曰時令。曰地理。曰職官。曰政書。曰目錄。皆參考諸志者也。曰史評。參考論贊者也。舊有譜牒一門。然自唐以後。譜學殆絕。玉牒旣不頒於外。家乘亦不上於官。徒存虛目。故從删焉。考私家記載。惟宋明二代爲多。蓋宋明人皆好議論。議論異則門戶分。門戶分則朋黨立。朋黨立則恩怨結。恩怨旣結。得志則排擠於朝廷。不得志則以筆墨相報復。其中是非顚倒。頗亦熒聽。然雖有疑獄。合衆證而質之。必得其情。雖有虛詞。參衆說而核之。亦必得其情。張師棣南遷錄之妄。鄰國之事無質也。趙與峕賓退錄證以金國官制而知之。碧雲騢一書。誣謗文彥博范仲淹諸人。晁公武以爲眞出梅堯臣。王銍以爲出自魏泰。邵博又證其眞出堯臣。可謂聚訟。李燾卒參互而辨定之。至今遂無異說。此亦考證欲詳之一驗。然則史部諸書。自鄙倍宂雜。灼然無可採錄外。其有裨於正史者。固均宜擇而存之矣。

史部一 正史類

史部一
正史類
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《正史》の名は、《隋志》に見る。宋に至りて十有七を定著す。明刊監版に、宋、遼、金、元四《史》を合はせて二十有一と為す。皇上〈乾隆帝が〉《明史》を欽定し、又 詔して《舊唐書》を增して二十有三と為す。

なぜ『旧唐書』をプラスしたのか?


近く四庫を蒐羅し、薛居正《舊五代史》、裒集し編と成すを得たり。欽みて睿裁を稟け、歐陽修書と與に並列し、共に二十有四と為す。今 並びに官本に從ひて校錄す。凡そ未だ宸斷〈清朝皇帝の裁可〉を經(へ)ざる者は、則ち悉く濫りに登さず。蓋し正史は體 尊く、義は經と與に配し、諸々の令典に懸くるに非ず、敢て私に增す莫し。由る所は稗官野記と異なり。
其の他に訓釋音義なる者は、《史記索隱》の類が如し。遺闕を掇拾する者は、《補後漢書年表》の類ひが如し。異同を辨正する者は、《新唐書糾謬》の類が如し。字句を校正する者は、《兩漢刊誤補遺》の類ひが如し。若し別に編次を為らば、尋檢して繁と為れば、即ち各々本書に附し、用て參証に資せしむ。宋、遼、金、元四《史》譯語に至りては、舊は皆 舛謬たれば、今 悉く改正し、以て其の真を存せしむ。其の《子部》、《集部》も亦た均しく此に視ゆ。考校厘訂を以て《正史》より始まり、謹みて其の凡 此より發す。230704

史部一 正史類
正史之名。見於隋志。至宋而定著十有七。明刊監版。合宋遼金元四史爲二十有一。皇上欽定明史。又詔增舊唐書爲二十有三。近蒐羅四庫。薛居正舊五代史。得裒集成編。欽禀睿裁。與歐陽修書並列。共爲二十有四。今並從官本校錄。凡未經宸斷者。則悉不濫登。蓋正史體尊。義與經配。非懸諸令典。莫敢私增。所由與稗官野記異也。其他訓釋音義者。如史記索隱之類。掇拾遺闕者。如補後漢書年表之類。辨正異同者。如新唐書糾繆之類。校正字句者。如兩漢刊誤補遺之類。若別爲編次。尋檢爲繁。卽各附本書。用資參證。至宋遼金元四史譯語。舊皆舛謬。今悉改正。以存其眞。其子部集部。亦均視此。以考校釐訂自正史始。謹發其凡於此。

三國志 六十五卷

三國志 六十五卷
內府刊本
晉の陳壽撰。宋の裴松之注。壽の事蹟は晉書の本傳に具はる。松之の事蹟は、宋書の本傳に具はる。凡そ魏志三十卷。蜀志十五卷。吳志二十卷なり。其の書 魏を以て正統と爲す。習鑿齒の漢晉春秋を作るに至り、始めて異議を立つ。朱子より以來、鑿齒を是とし壽を非とせざる無し。然れども、を以て論ずらく、壽の謬 萬萬として辭すること無し〈譲らない、譲歩しない〉。を以て論ずらく、則ち鑿齒 漢を帝とするは順にして易なり。壽 漢を帝として逆せんと欲せども難し。
→朱子学の前提では、蜀が正統であると紀昀は言っている。

蓋し鑿齒 時に晉 已に南渡し、其の事 蜀に類有り。偏安爲(た)る者 正統を爭ひ。此れ當代の論に孚たる者なり。壽 則ち身ら晉武の臣爲り。而して晉武 魏の統を承ぐ。魏を僞とするは是れ晉を僞とするなり。其れ當代に行ふこと能ふや。此れ猶ほ宋の太祖が篡立 魏に近し。而して北漢・南唐の蹟 蜀に近し。

史家のおかれた状況により、正統の所在をどのように描くかが規定されるという認識がすでにある。かつ、史を論じるひとの状況により、論が左右されるという認識がある。歴史が、真理ではなく、書き手・読み手によって規定されるという理解に達している。それが四庫全書の史部をつくるときの前提。


故に北宋の諸儒、皆 避くる所有り。而れども魏を僞とせざるは、高宗より以後、江左に偏安すればなり。蜀に近し。而して中原の魏地は全く金に入る。故に南宋の諸儒は、乃ち紛紛として起ちて蜀を帝とす。此れ皆 當に其の世を論ずべきにして、未だ一格の繩を以てす可からざるなり。

正統論は時代状況に左右されるので、ひとからげに論じられない。というわけで、四庫全書としては、魏とすべきか、蜀とすべきかは論じない。


惟だ其の沿史を誤るは、周秦の本紀を記すの例なり。始めを魏文に託せず、而して曹操に託す。實に魏書 敍紀の體を得るに及ばず。是れ則ち誠に已みて已まざる可きのみ。

本紀を初代皇帝から始めるべき、という紀昀の規範意識はあるけれど、実態の歴史に引っ張られて曹操から書き起こすのは、周本紀、秦本紀が王朝の始祖から始まるのと同じだ。


宋の元嘉中に、裴松之 詔を受けて注を爲る。注する所は、雜じえて諸書を引く。亦た時に己の意を下す。其の大致を綜ぶるに、約そ六端有り。一に曰く、諸家の論を引きて以て是非を辨ず。一に曰く、諸書の說を參じて以て譌異を核(しら)ぶ。一に曰く、傳 有る所の事は其の委曲を詳らかにす。一に曰く、傳 無き所の事は其の闕佚を補ふ。一に曰く、傳 有る所の人は其の生平を詳らかにす。一に曰く、傳 無き所の人は附するに同類を以てす。

裴松之注の6つの特徴。


其の中 往往にして奇を嗜み博を愛す。頗る蕪雜を傷ふ。袁紹傳中の胡母班を知るに、本は因りて董卓の爲に紹に使ひして見ゆ。乃ち注に曰く、班は嘗て太山府君及び河伯に見ゆと。事は『搜神記』に在り。語 多ければ載せず。斯れ已に贅なり。鍾繇傳中に、乃ち『陸氏異林』一條を引く。繇 鬼婦と狎昵なる事を載す。蔣濟傳中に、『列異傳』一條を引き、濟の子 死して泰山伍伯と爲り、孫阿を迎へて泰山令事と爲るを載す。此の類 空を鑿ち怪を語るなり。凡そ十餘の處、悉く本事と關はることなし。而れども史法に於て礙(さまたげ)有ること深く、殊に瑕纇と爲る。

神秘的な話を裴松之が引いたことを、紀昀は史書を傷つけた「空」「怪」とする。何焯は神秘性への攻撃はなかったですね。


又 其の初意は、亦た應劭の漢書に注するが如くあらんと欲するが似くあらず。訓詁を考究し、故實を引證す。故に魏志の武帝紀に於て沮授の字に、則ち沮に「音は菹なり」と注す。獷平の字に、則ち『續漢書』郡國志注より「獷平は、縣名なり。漁陽に屬ず」と引く。甬道の字に、則ち『漢書』高祖二年より「楚と戰ひて甬道を築く」と引く。贅旒の字に、則ち『公羊傳』を引く。先正の字に、則ち「文侯の命」を引く。釋位の字に、則ち『左傳』を引く。致屆の字に、則ち『詩』を引く。綏爰の字、率俾の字に、昬作字。則ち皆 書を引くは、糾虔天刑の字。則ち國語を引く。蜀志 郤正傳に至り、釋誨一篇あり。句句に古事を引きて注を爲る。連ぬれば數簡に至らん。又 彭羕傳の〓の如くは不訓老。華佗傳の旉 本は專が似し。秦宓傳の棘は革の異文なり。少帝紀の叟は更の異字なり。

裴松之は当初、事物の訓詁とか、文字の説明を他の書物を引いてやっていた。


亦た閒に辨證する所有り。其の他 傳の文句は、則ち然るを盡くさず。然して蜀志 廖立傳首の如し。忽に其の姓に注して補救の切と曰ふ。魏志の涼茂傳の中に、忽ち博物記を引きて注一繦字之類。亦た閒に之有り。蓋し之を爲さんと欲せども未だ竟はらず。又 已に成る所を惜みて、删棄を欲せず。故に或いは詳らかにして或いは略にし、或いは有りて或いは無し。亦た頗る例と爲し不純なり。然れども網羅にして繁富なり。

裴松之の注釈が、不徹底だったが、できたところまで載せたんだろうなと。


凡そ六朝の舊籍 今 傳はらざる所の者は。尚ほ一一に其の厓略に見ゆ。又 多く首尾にして完具たり。酈道元の水經注・李善の文選注が似くあらず。皆 剪裁し割裂するの文なり。故に考證の家、取材して竭きず。轉た相 引據する者は、反りて陳壽の本書より多し。230704

六朝の文が切り刻まれて断片的にしか残っていないから、考証家が裴松之のおかげで材料を提供されている。裴松之が引用したものは、陳寿の本文より多い。

三國志 六十五卷
內府刊本
晉陳壽撰。宋裴松之注。壽事蹟具晉書本傳。松之事蹟。具宋書本傳。凡魏志三十卷。蜀志十五卷。吳志二十卷。其書以魏爲正統。至習鑿齒作漢晉春秋。始立異議。自朱子以來。無不是鑿齒而非壽。然以理而論。壽之謬萬萬無辭。以勢而論。則鑿齒帝漢順而易。壽欲帝漢逆而難。蓋鑿齒時晉已南渡。其事有類乎蜀。爲偏安者爭正統。此孚於當代之論者也。壽則身爲晉武之臣。而晉武承魏之統。僞魏是僞晉矣。其能行於當代哉。此猶宋太祖篡立近於魏。而北漢南唐蹟近於蜀。故北宋諸儒。皆有所避。而不僞魏。高宗以後。偏安江左。近於蜀。而中原魏地全入於金。故南宋諸儒。乃紛紛起而帝蜀。此皆當論其世。未可以一格繩也。惟其誤沿史記周秦本紀之例。不託始於魏文。而託始曹操。實不及魏書敍紀之得體。是則誠可已不已耳。宋元嘉中。裴松之受詔爲注。所注雜引諸書。亦時下己意。綜其大致。約有六端。一日引諸家之論以辨是非。一曰參諸書之說以核譌異。一曰傳所有之事詳其委曲。一曰傳所無之事補其闕佚。一曰傳所有之人詳其生平。一曰傳所無之人附以同類。其中往往嗜奇愛博。頗傷蕪雜。知袁紹傳中之胡母班。本因爲董卓使紹而見。乃注曰班嘗見太山府君及河伯。事在搜神記。語多不載。斯已贅矣。鍾繇傳中。乃引陸氏異林一條。載繇與鬼婦狎昵事。蔣濟傳中。引列異傳一條。載濟子死爲泰山伍伯。迎孫阿爲泰山令事。此類鑿空語怪。凡十餘處。悉與本事無關。而深於史法有礙。殊爲瑕纇。又其初意。似亦欲如應劭之注漢書。考究訓詁。引證故實。故於魏志武帝紀沮授字。則注沮音菹。獷平字。則引續漢書郡國志注獷平縣名屬漁陽。甬道字。則引漢書高祖二年與楚戰築甬道。贅旒字。則引公羊傳。先正字。則引文侯之命。釋位字。則引左傳。致屆字。則引詩。綏爰字。率俾字。昬作字。則皆引書。糾虔天刑字。則引國語。至蜀志郤正傳釋誨一篇。句句引古事爲注。至連數簡。又如彭羕傳之〓不訓老。華佗傳之旉本似專。秦宓傳之棘革異文。少帝紀之叟更異字。亦閒有所辨證。其他傳文句。則不盡然。然如蜀志廖立傳首。忽注其姓曰補救切。魏志涼茂傳中。忽引博物記注一繦字之類。亦閒有之。蓋欲爲之而未竟。又惜所已成。不欲删棄。故或詳或略。或有或無。亦頗爲例不純。然網羅繁富。凡六朝舊籍今所不傳者。尚一一見其厓略。又多首尾完具。不似酈道元水經注。李善文選注。皆剪裁割裂之文。故考證之家。取材不竭。轉相引據者。反多於陳壽本書焉。

三國志辨誤 三卷

三國志辨誤 三卷。
兩淮鹽政採進本
撰人の名氏を著さず。亦た時代を詳らかにする莫し。
『蘇州府志』に、陳景雲 字は少章を載す。吳江縣の學生にして、長洲の人なり。少くして何焯に從ひて遊ぶ。博く經史に通ず。羣籍に淹貫し、考訂に長ず。凡そ譌謬ある處、能く毫芒すら剖析す。著す所の書は凡そ九種なり。其の四は『三國志校誤』爲り。卽ち此の書が似し。

『蘇州府志』に載せる陳景雲の四つめの著作がこれではないかと。


然れども義門讀書記を考ふるに、中に何焯 校する所の『三國志』三卷有り。其の『魏志』楊阜傳に、阜 嘗て明帝に見え、著帽披縹稜半褏袖の一條あり。褏袖と稱するは古今の字なり。少章は下一字 衍なるを疑ふ。宋書五行志を檢ずるに、果たして然り云云と。

楊阜伝に「褏袖」とあるが、「褏は袖のこと」の意味であり、今の字をぶら下げて書いただけではないか。これを陳景雲が『宋書』を根拠に指摘している。


此の書 此の條を載せず。則れば又 景雲の作に非ざるが似し。明らかにする能はざるを疑ふ。闕く所 知らざるは可なり。

陳景雲ならば、楊阜伝の指摘をしていなければおかしいのに、『三国志辨誤』にはそれがないから、陳景雲の著作ではない、のではないか。

『三國志』は簡質にして法有り、古に良史と稱す。而れども牴牾〈食い違い〉も亦た免れざる所なり。孫權の合肥を攻むるが如きは、魏・呉二志 先後 同じからず。當時 已に孫盛の議する所と爲る。明より以來 南北監本あり。傳寫し刊刻す。脫誤 尤も多し。是の書は陳書〈陳寿〉及び裴注の誤を辨ずる所なり。凡そ魏志は二十八條あり、蜀志は八條あり、吳志は二十一條あり。其の閒に字の譌異に於いては、三少帝紀の「定陵侯繁」が如きなり。「繁」は當に「毓」に作るべし。少府褒は、褒は當に袤に作るべきの類なり。文の倒置に於ては、正元二年八月戊辰が如し。當に辛未の後に在るべからざるの類なり。正文と注との淆亂に於ては、王肅傳の評末に劉寔の語を附するが如きなり。本は裴注 引く所の類なり。原本の闕佚に於ては、徐詳 當に胡綜傳に附するべからざるの類の如きなり。並びに異同を參校するに、各々根據有り。辨ずる所 僅か數十條なりと雖も、何焯の書の校正の詳らかなるが如くある能はず。而れども焯の泛(うは)ついて史評を作すが似くにあらず。又 大抵に前後の文を以て互相に考證し、後漢書・晉書を以て參ずのみ。杭世駿の書の徴據の博きが如くある能はず。而れども亦た世駿の蔓(みだ)れて雜說を引くが似きにあらず。其の抉摘し精審するの處は、要(かなら)ず三劉の西漢書に於ける、吳縝の五代史に於けるに減ぜず。

(陳景雲は)何焯のような詳らかさはないが、何焯のようにフワフワしたことは言わないのがよい。杭世駿のように広い本と比較し参照することはないが、雑説を引くことはない。

三國志辨誤 三卷
兩淮鹽政採進本
不著撰人名氏。亦莫詳時代。蘇州府志。載陳景雲字少章。吳江縣學生。長洲人。少從何焯遊。博通經史。淹貫羣籍。長於考訂。凡譌謬處。能剖析毫芒。所著書凡九種。其四爲三國志校誤。似卽此書。然考義門讀書記。中有何焯所校三國志三卷。其魏志楊阜傳。阜嘗見明帝。著帽披縹稜半褏袖一條。稱褏袖古今字。少章疑下一字衍。檢宋書五行志果然云云。此書不載此條。則又似非景雲作。疑不能明。闕所不知可也。三國志簡質有法。古稱良史。而牴牾亦所不免。如孫權之攻合肥。魏吳二志先後不同。當時已爲孫盛所議。明以來南北監本。傳寫刊刻。脫誤尤多。是書所辨陳書及裴注之誤。凡魏志二十八條。蜀志八條。吳志二十一條。其閒於字之譌異者。如三少帝紀定陵侯繁。繁當作毓。少府褒。褒當作袤之類。於文之倒置者。如正元二年八月戊辰。不當在辛未後之類。於正文與注淆亂者。如王肅傳評末附劉寔語。本裴注所引之類。於原本之闕佚者。如徐詳不當附胡綜傳之類。並參校異同。各有根據。雖所辨僅數十條。不能如何焯書校正之詳。而不似焯之泛作史評。又大抵以前後文互相考證。參以後漢書晉書。不能如杭世駿書徵據之博。而亦不似世駿之蔓引雜說。其抉摘精審之處。要不減三劉之於西漢書。吳縝之於五代史也。

三國志補注 六卷 坿諸史然疑 一卷

紀昀(1724-1805年)のとき、四庫全書に含めるべきまとまった考証学の成果は、陳景雲と杭世駿だけだった。

杭世駿は、1698~1773。何焯より1つ下の世代。
乾隆年間に博学鴻詞科に合格。晩年には揚州書院などで教育にあたった。武英殿で『十三経』『二十四史』の校勘をし,『三礼義疏』を纂修した。著書『三国志補注』『続方言』『道古堂詩文集』などがある。

三國志補注 六卷 坿諸史然疑 一卷
浙江巡撫 採進本
國朝〈清〉の杭世駿の撰。世駿に『續方言』有り、已に著錄す。是の書は、裴松之三國志注の遺を補ふなり。凡そ魏志は四卷。蜀志・吳志は各々一卷なり。松之の注 捃摭は繁富、考訂は精詳なり。世に異議無し。世駿 復た殘賸を掇拾す。博く洽して之に勝らんと欲す。故に細大も捐てず。瑕瑜 互に見ゆ。

→裴松之注を乗り越えるべく細かいものを集めたから、細かいものも集まっている。陳景雲が、権威ある文献のなかで整合性を取ったのに対し、杭世駿はその外部をめざす。


某人の宅 某鄕に在り、某人の墓 某里に在りといふが如し。其の體は全にして圖經に類す。虞茘の『鼎錄』、陶宏景の『刀劍錄』、皆 年を按じて編入す。而して鍾繇らの傳に、書評・書品あり。動やもすれば輒ち篇を連ぬ。其の例 又 雜記が如し。神怪・妖異に至りては、嵇康 鬼を見て、諸葛亮 風を祭るの類ひが如し。稗官・小說。牘を累ねて休まず。尤も誕く謾にして據と爲すに足らず。

→怪異に対しては、くだらない話として紀昀に退けられる。


他に魏文帝 角巾もて彈棊すといふが如し。裴注 已に博物志を引き、而も又 世說も引く。曹操の發邱し摸金せしは、裴注 已に陳琳の檄に載す。而も又 宋書廢帝紀を引き、書名 異なる有るも、而れども事迹 殊ならず。亦た何ぞ屋上の屋を取るや。

→おもしろ話を別の本から補ったかと思いきや、すでに裴松之が引用していたり、よりもとの情報に近いところがあるのに、孫引き・迂回はアホだよねと。


崔琬 捉刀に至りては、劉孝標『世說』注中に、已に裴啓『語林』の誤りを辨ず。乃ち棄置劉語す。而れども別に『史通』の文を引く。張飛 豹月烏本出葉廷珪海錄碎事。乃ち明の『標葉書』なり。又 冠するに『彙苑』の目を以てす。大抵に博きを愛し奇を嗜む。故に蔓りに卮詞を引き、多いに體要を妨ぐ。又 『異苑』は王粲 礜石の事を識す。其の荊州劉表の數言を佚す。諸葛亮の梁甫吟は、載するに『藝文類聚』より出でず。輾轉して稗販にして、疎漏 亦た多し。

→必然性のない注釈や、不要な迂回をした情報の参照がみえる。


然れども魏文帝紀の王凌 謝亭侯の一條、明帝紀の孔晏乂の一條、陳泰の年三十六の一條、臧洪傅の徐衆の一條、崔琬傳の陳煒の一條、華歆傳の東海郡の人の一條。嚴包交通の一條、蔣濟傳の弊勉の一條、張遼傳の大呼是名の一條、楚王彪傳の徙封白馬の一條、蜀志先主傳の譙周 從事と爲るの一條、後主傳の史官を置かざるの一條。諸葛亮傳の躬ら南陽を耕すの一條、鄧芝傳の廖化 襄陽の人の一條、吳志の孫休傳の二子の名一條、太史慈傳の神亭の一條、黃蓋傳の黃子廉の一條、賀齊傳の徐盛 矛を失ふの一條が如きは、皆 異同を參校し、頗る精核爲り。

→杭世駿のやったなかで評価できる比較検討


餘は黃初五經課試の法、王昶 考課五事の目、司馬芝の錢を復するの議、王肅 祕書監の表、王象 繆襲の皇覽を撰し、正義を引きて鄭元の解稽古同天の譌を辨じ、後漢書注を引きて宗賊の義を證し、風俗通を引きて周生の複姓爲るを證し、困學紀聞を引きて況長寧 爲蜀人を證するが如きは、亦た皆 以て考證に資するに足る。

→杭世駿が他の書物に言及したり、他の書物を使って論証したことも評価できる。


故に書 蕪雜なると雖も、而れども亦 未だ竟に廢する可からず。

末に『諸史然疑』一卷を附す。亦た世駿 撰する所なり。皆 史文の疎漏を糾す。凡そ後漢書の十四條。三國志の六條。晉書の三條。宋書の三條。魏書の八條。北史の六條。陳書の三條なり。

蓋し後人 其の遺稾を鈔すなり。之を錄して帙と成す。其の中に『史通』一條を引く。云はく習鑿齒は劉を以て國を僞はる者と爲すは、蓋し邪正の途を定め、順逆の理を明らかにするなりと。而れども檀道鸞〈南朝〉其の桓氏の執政に當たるを稱し、故に此の書を撰す。以て彼の瞻烏を絕ち、茲の逐鹿を防がんと欲し、言ふ所が若きを審らかにす。則ち鑿齒 未だ嘗て蜀を尊ばざる者なるが似し。案ずらく此の條は『史通』探賾篇に見ゆ。其の上下の文義を核すに、蓋し『史通』を傳寫する者は、誤りて於劉の二字の上を以て一の不の字を脫す。其の篇中に稱謂すらく、自注 有曰習氏『漢晉春秋』。蜀を以て正統と爲し、其の敍事 皆 蜀の先主を謂ひて昭烈帝と爲す。本書の內に、證佐 甚だ明らかなり。近時 浦起龍『史通』を刻するに、此の句文の義を以て違背す。劉を改めて魏と爲し、猶ほ大害無し。世駿 竟に誤本に據り、遽かに創論を發し、殊に之を失ひて考せず。

→杭世駿は『史通』の正しくない本を見て習鑿歯を論じたが、もとの本が正しくない。わざわざ四庫全書で批判してもらえるなんて、恵まれている。


牛繼馬後の一條、晉書 當に舊史を襲ふべからざるを責め、全て『史通』の說に因るなり。亦た勦襲を免れず。三老五更の一條に至りては。楊賜の伏恭周澤三傳に據り、杜佑の通典の闕を補ひ、則ち蔓りに本書の外に延ぶ。後漢書に於て絕えて相 關せず。亦た自ら其の例を亂すを爲す。然るに大いに訂訛考異するに致り、得る所と多と爲す。史學に於て補ふ無きと爲さず。篇頁を以て多きこと無し。三國志補注の後に附載す。今 亦た併せて錄して之に存す。以て參訂に資せんとしか云ふ。230705

杭世駿の言っていることは、他人の踏襲に過ぎなかったり、本題から逸れていたりするけれども、役には立つから、同じ杭世駿の『三国志補注』のあとに載せる。

三國志補注 六卷 坿諸史然疑 一卷
浙江巡撫採進本
國朝杭世駿撰。世駿有續方言。已著錄。是書補裴松之三國志注之遺。凡魏志四卷。蜀志吳志各一卷。松之注捃摭繁富。考訂精詳。世無異議。世駿復掇拾殘賸。欲以博洽勝之。故細大不捐。瑕瑜互見。如某人宅在某鄕。某人墓在某里。其體全類圖經。虞茘之鼎錄。陶宏景之刀劍錄。皆按年編入。而鍾繇等傳。書評書品。動輒連篇。其例又如雜記。至於神怪妖異。如嵇康見鬼諸葛亮祭風之類。稗官小說。累牘不休。尤誕謾不足爲據。他如魏文帝角巾彈棊。裴注已引博物志。而又引世說。曹操之發邱摸金。裴注已載陳琳檄。而又引宋書廢帝紀。書名有異。而事迹不殊。亦何取乎屋上之屋。至於崔琬捉刀。劉孝標世說注中已辨裴啓語林之誤。乃棄置劉語。而別引史通之文。張飛豹月烏本出葉廷珪海錄碎事。乃明標葉書。又冠以彙苑之目。大抵愛博嗜奇。故蔓引卮詞。多妨體要。又異苑王粲識礜石事。佚其荊州劉表數言。諸葛亮梁甫吟。不載出藝文類聚。輾轉稗販。疎漏亦多。然如魏文帝紀之王凌謝亭侯一條。明帝紀之孔晏乂一條。陳泰年三十六一條。臧洪傅之徐衆一條。崔琬傳之陳煒一條。華歆傳之東海郡人一條。嚴包交通一條。蔣濟傳之弊勉一條。張遼傳之大呼是名一條。楚王彪傳之徙封白馬一條。蜀志先主傳之譙周爲從事一條。後主傳之不置史官一條。諸葛亮傳之躬耕南陽一條。鄧芝傳之廖化襄陽人一條。吳志孫休傳二子之名一條。太史慈傳之神亭一條。黃蓋傳之黃子廉一條。賀齊傳之徐盛失矛一條。皆參校異同。頗爲精核。餘如黃初五經課試之法。王昶考課五事之目。司馬芝復錢之議。王肅祕書監之表。王象繆襲之撰皇覽。引正義辨鄭元解稽古同天之譌。引後漢書注證宗賊之義。引風俗通證周生爲複姓。引困學紀聞證況長寧爲蜀人。亦皆足以資考證。故書雖蕪雜。而亦未可竟廢焉。末附諸史然疑一卷。亦世駿所撰。皆糾史文之疎漏。凡後漢書十四條。三國志六條。晉書三條。宋書三條。魏書八條。北史六條。陳書三條。蓋後人鈔其遺稾。錄之成帙。其中引史通一條。云習鑿齒以劉爲僞國者。蓋定邪正之途。明順逆之理爾。而檀道鸞稱其當桓氏執政。故撰此書。欲以絕彼瞻烏。防茲逐鹿。審若所言。則鑿齒似未嘗尊蜀者。案此條見史通探賾篇。核其上下文義。蓋傳寫史通者。誤於以劉二字之上脫一不字。其稱謂篇中。自注有曰習氏漢晉春秋。以蜀爲正統。其敍事皆謂蜀先主爲昭烈帝。本書之內。證佐甚明。近時浦起龍刻史通。以此句文義違背。改劉爲魏。猶無大害。世駿竟據誤本。遽發創論。殊失之不考。牛繼馬後一條。責晉書不當襲舊史。全因史通之說。亦不免勦襲。至於三老五更一條。據楊賜伏恭周澤三傳。補杜佑通典之闕。則蔓延於本書之外。於後漢書絕不相關。亦爲自亂其例。然大致訂訛考異。所得爲多。於史學不爲無補。以篇頁無多。附載三國志補注之後。今亦併錄存之。以資參訂云。

晉書 一百三十卷

晉書 一百三十卷
內府刊本
唐の房喬ら敕を奉じて撰す。劉知幾『史通』外篇に、謂ふらく貞觀中の詔に、前後に晉史十八家あり、未だ能く善を盡さず、史官に敕して更めて纂撰を加へよと。是より晉史と言ふ者は、皆 其の舊本を棄て、競ひて新撰に從ふ。
然れども唐人 李善注『文選』・徐堅編『初學記』・白居易編『六帖』が如きに〈佚文が残ってゆき〉、王隱・虞預・朱鳳・何法盛・謝靈運・臧榮緒・沈約の書に於て。夫徐廣・干寶・鄧粲・王韶・曹嘉之・劉謙之の紀と與に、孫盛の『晉陽秋』・習鑿齒の『漢晉陽秋』・檀道鸞の『續晉陽秋』、竝びに徵引せらる。是の舊本 實に未だ嘗て棄てず。

→劉知幾の言うように、旧本は捨てられなかった。なぜなら、唐修『晋書』が決定版にならなかったからだ。


毋乃ち書 成なるの日に、卽ち有不愜於衆論者乎。書中を考ふるに、惟だ陸機・王羲之の兩傳は、其の論 皆 制と稱して曰く、蓋し太宗の御撰に出づ。夫れ典午の一朝 政事の得失。人材の良楛、凡そ幾なるを知らず、而して九重に掞藻なり。宣王 言ひて以て特筆を彰する者は、僅かに一工文の士衡〈陸機〉。一善書の逸少〈王羲之〉なるのみ。則ち全書宗旨。大概に知る可し。其の襃貶する所、實行を略して浮華を獎む。其の採擇する所、正典を忽せにして小說を取り、波 返せざる靡くして、自來有り。

→『晋書』が「正典」に拠らないことは、劉知幾『史通』を踏襲して、紀昀も批判している。


卽ち文選注 馬汧督の誄が如きに、臧榮緒・王隱の書を引き、稱馬汧立功孤城。死於非罪。後加贈祭。而れども晉書 不爲に傳を立てず。亦た周處孟觀らの傳に附見せず。

→唐修『晋書』が立てるべき列伝を立てていないことの批判。


又『太平御覽』王隱の書を引きて云はく、武帝 郭琦を以て佐著作郞と爲さんと欲し、尚書の郭彰に問ふ。彰 琦 己に附せざるを憎み。答ふるに不識を以てす。上曰く、「若し卿の言が如くんば、烏丸の家兒 能く卿に事ふるか。卽ち郞に堪ふるなり」と。

→唐修『晋書』は「郭琦」伝を立てるべきだったが、立てていないことへの批判。


趙王倫 篡位するに及び、又 琦を用ひんと欲す。琦曰く、「我 已に武帝の吏と爲る。復た今世の吏と爲る能はず」と。家に終はる。琦 蓋し始終の亮節の士なり。而れども『晉書』亦た削りて載せず。其の載する所の者は、大抵 宏獎にして風流にして、以て談柄に資するものなり。

→政治的な忠節よりも、文化的な浮華のひとばかり、唐修『晋書』が選びがち。


劉義慶『世說新語』。與劉孝標の注する所を取りて、一一に互勘するに。幾ど全部を收入す。是れ直だ稗官の體なり。安ぞ目して史傳と曰ふを得るや。

→『世説新語』やその注が好むような、下らないやりとりを吸収しているのが、唐修『晋書』の特徴であると。


黃朝英『緗素雜記』に。詆其の『世說』の和嶠を引きて峨峨たること千丈松礧砢多節目と如き。旣に載せて和嶠傳中に入れ、又 嶠の字を以て相 同ず。竝びに温嶠傳中に載入し、顛倒し舛迕す。竟に檢ぶるに及ばず。猶ほ其の枝葉の病にして、其の根本の病に非ずなり。

正史の中に、惟だ此書及び宋史は、後人 紛紛として改撰す。其れ亦た由有るなり。特に十八家の書を以て竝びに亡びたれば、晉事を考ふる者は、此を舍きて由(よし)無し。故に歷代 之を存して廢せざるのみ。音義の三卷は、唐の何超 撰なり。超 字は令升。自ら東京人と稱す。楊齊宣 之が序を爲る。其れ音辨の字を審らかにす。頗る發明有る。舊本 載する所、今 仍ち末に附見す。230705

晉書 一百三十卷
內府刊本
唐房喬等奉敕撰。劉知幾史通外篇。謂貞觀中詔。前後晉史十八家。未能盡善。敕史官更加纂撰。自是言晉史者。皆棄其舊本。競從新撰。然唐人如李善注文選。徐堅編初學記。白居易編六帖。於王隱虞預朱鳳何法盛謝靈運臧榮緒沈約之書。與夫徐廣干寶鄧粲王韶曹嘉之劉謙之之紀。孫盛之晉陽秋。習鑿齒之漢晉陽秋。檀道鸞之續晉陽秋。竝見徵引。是舊本實未嘗棄。毋乃書成之日。卽有不愜於衆論者乎。考書中惟陸機王羲之兩傳。其論皆稱制曰。蓋出於太宗之御撰。夫典午一朝政事之得失。人材之良楛。不知凡幾。而九重掞藻。宣王言以彰特筆者。僅一工文之士衡。一善書之逸少。則全書宗旨。大概可知。其所襃貶。略實行而獎浮華。其所採擇。忽正典而取小說。波靡不返。有自來矣。卽如文選注馬汧督誄。引臧榮緒王隱書。稱馬汧立功孤城。死於非罪。後加贈祭。而晉書不爲立傳。亦不附見於周處孟觀等傳。又太平御覽引王隱書云。武帝欲以郭琦爲佐著作郞。問尚書郭彰。彰憎琦不附己。答以不識。上曰。若如卿言。烏丸家兒能事卿。卽堪郞也。及趙王倫篡位。又欲用琦。琦曰。我已爲武帝吏。不能復爲今世吏。終於家。琦蓋始終亮節之士也。而晉書亦削而不載。其所載者。大抵宏獎風流。以資談柄。取劉義慶世說新語。與劉孝標所注。一一互勘。幾於全部收入。是直稗官之體。安得目曰史傳乎。黃朝英緗素雜記。詆其引世說和嶠峨峨如千丈松礧砢多節目。旣載入和嶠傳中。又以嶠字相同。竝載入温嶠傳中。顛倒舛迕。竟不及檢。猶其枝葉之病。非其根本之病也。正史之中。惟此書及宋史。後人紛紛改撰。其亦有由矣。特以十八家之書竝亡。考晉事者。舍此無由。故歷代存之不廢耳。音義三卷。唐何超撰。超字令升。自稱東京人。楊齊宣爲之序。其審音辨字。頗有發明。舊本所載。今仍附見於末焉。