いつか書きたい三国志

何焯『義門読書記』の『三国志』の指摘

巻二十六 三国志 魏志

武帝紀

武帝紀、養子嵩嗣
注採、呉人作『曹瞞傳』及び郭頒『世語』並びに云ふ、「嵩は、夏侯氏の子なり」と。按ずらく、夏侯惇の子の楙は、清河公主を尚す。淵の子の衡も亦た曹氏を娶る。則ち、嵩を夏侯氏の子と謂ふ者は、敵國の傳聞なり。蓋し、信ずるに足らず。

大將軍の何進、與袁紹謀誅宦官太后不聽。進乃召董卓欲以脅太后
注『魏書』曰く、太祖 聞きて之を笑ひて曰く、「閹豎之官は、古今宜有。但だ世主 不當假之權寵。使至於此」と。按ずらく、此の注は乃ち、事後の虛詞にして、美を掠むなり。厥の祖 何なる人にして、閹豎を斥言するや。

曹操の祖父は、皇帝に高い権限を与えられた宦官である。曹操が「宦官に権限を与えなければよい」という台詞を、曹操が言うはずがないという洞察。


初平元年、使袁將軍率南陽之軍より以順誅逆可立定也に至るまで。
此れ項羽河北に戰ひ、高祖 西して関に入るの勢なり。卓の兵 方に盛なりて、未だ外に挫けず。故に堅壁して戰ふ勿れ。內釁 作るを待ちて、而して後に之に乘ず。

190年時点の戦局を、前漢はじめに準えている。


袁紹 韓馥と與に謀立幽州牧劉虞為帝、太祖拒之。
君を弑したるを以て卓を討つ。故無くして又 改めて君を立つれば、是れ二卓(ふたりめの董卓)なり。

注、「諸君北面、我自西向」
虞(劉虞)は幽州に在り。故に北面と曰ふ。長安は行在所と為り、故に西向と曰ふ。

ただの言葉の背後に隠れている意味の説明。


紹、又嘗得一玉印於太祖、座中舉向其肘。
注『魏書』曰く、紹 復た人をして太祖に說かしめて曰く、「今袁公勢盛兵強、二子已長。天下群英、孰踰于此」と。按ずらく、紹は此の時 僅かに一郡の守為り。并びに未だ韓馥をして州を讓らしむるを得ず。未だ應に意 盛なること此の若くなるべからず。

『魏書』が見てきたような説得者の台詞を書くけれども、状況に照らせば、このような台詞が出てくるはずがない。発言者の意図を、当時の状況に即して説明しようとしたとき、それに失敗したことによって、台詞が適切に書かれていないことが分かるのだ。


三年、毒等攻東武陽。太祖乃引兵、西入山攻毒等本屯。毒聞之、棄武陽還。
烏巢の役に、袁氏の謀畧、(曹操が于毒に施したものと)同じけれども、而れども成敗は異なれり。故に用兵は彼己を知るを貴ぶなり。

『孫子』の習熟度にいって、袁紹と曹操の戦争の勝敗の分岐点としている。袁紹は、彼我のことを分かっていなかったから、(見せかけ上、于毒と戦った曹操と同じように)攻める矛先の向け方によって敵軍を混乱させようとしたが、成功しなかった。


青州黃巾、衆百萬、入兗州より果為所殺に至るまで。
光武 銅馬を鄡に擊つ。賊 數々挑戰するも、光武 堅營して自守す。出でて鹵掠する者有らば、輒ち擊ちて之を取り、其の糧道を絶つこと積月餘日にして、賊の食 盡き、夜に遁去す。追ひて館陶に至り、大いに之を破る。此れ成敗の參質す可き者なり。明季に流賊と相 持する者は、皆 此の謀を知らず。督促して出戰し、遂に皆 劉岱の續と為る。

曹操の戦いを、いちど後漢はじめの光武帝の銅馬との戦いにまで遡って巧妙さを言ってから、何焯にとってギリ同時代の明末と対比させ、明末の諸将(李自成らと戦ったもの)は、曹操ならぬ劉岱と同じだったと評する。


四年、太祖擊詳、術救之至、又追之至九江。
(曹操が袁術を駆逐したのは)外に紹の用(袁紹の使いっ走り)と為るも、實に兗州を保據する所以なり。

上の銅馬の件も含め、曹操の戦いの意図をしっかり読み解いていて、すごく勉強になる。


興平元年春、太祖 徐州より還りより所過多所殘戮に至るまで。
報讐を以て師を興すも、實の志は并兼に在り(本来の出兵の意図は徐州併合にあった)。過ぐる所に殺戮するは、徐を定むる能はざる所以なり(殺戮しちゃったせいで徐州の併合に失敗した)。

布 出兵戰。先以騎犯青州兵、青州兵奔。
收むる所の黃巾は精銳なるも、尚ほ未だ習練せず。猝(には)かに勍騎に遇はば、則ち偏敗し衆擕す。先に犯す者は、宮・邈(陳宮・張邈)に由りて素より虛實を知るなり。

二年、時太祖兵少設伏、縱竒兵擊、大破之。
注『魏書』云云。按、布 蓋し人をして蹋伏せしむ。兵無きを見るや、乃ち復た來たる。操 豫め其の然るを料る。伏を設けて以て待つ。布の兵 見乘隄者、猝(には)かに起つ。不意に出でて、氣を奪ひ、遂に為所敗也。

状況を見てきたように解説するのは、なんなんだ。


建安元年冬十月、公征奉(楊奉)。
自ら大將軍と為り、後に始めて公を稱す。蓋し天子三公 公と稱すなり。

武帝紀の「公」という表記を説明する。


是の歲、棗祗・韓浩らを用て議始興屯田。
注『魏書』云云。按ずらく、議は、祗・浩(棗祗・韓浩)に始まり、之を成す者は、峻・淵(任峻・国淵)なり。運饋を憂はざれば、則ち賊と持久し、變を伺ひ巧を施す可し。勝算 常に我に在り。

兵法のようなものを語るのはなぜだろう。


三年、初め、公 兖州と為り、東平の畢諶を以て為別駕より以為魯相に至るまで。
孟徳 畢諶を待すること、尚ほ爾り。況んや昭烈の元直(徐庶)に于てをや。

唐突に蜀漢の話をする。


四年、初、公 种(魏种)を孝廉に舉げてより釋其縛而用之に至るまで。
畢諶・魏种を釋きて、而して之を用ふ。皆 假するに四方の士を懐くるを以てす。時に于て宿儒・世胄 大抵は河北・漢南に在るなり。評 謂ふ所の情を矯めて算に任す。舊惡を念はざるは、此の類を指す。

袁紹(河北)と劉表(漢南)というのはおもしろい。曹操の政策を分析しているように見える。「四方の士を懐」けるため。


臧霸らをして青州に入らしむ。
青州に入るるは、紹(袁紹)の左を擾がしめて、以て其の兵を分く。

政策の意図をこのようになぞるのはなぜ。


十二月、公 官渡に軍す。
裴松之『北征記』に曰く、中牟臺下に汴水を臨み、是れ官渡為り。袁紹・曹操の壘 尚ほ焉に存すと。今の鄭州中牟縣の北に在り。

清朝前期の土地との対応関係。『一統志』と比べるといかに。


五年、公曰夫劉備人傑也。今不擊、必為後患。
備 雄才有りて、加之 宗室なり。如し紹と兵を連ぬれば、備 必ず許を襲ひて、以て天子を迎へ、衆心 歸仰し、事 去らん。故に之を急破せざるを得ざるなり。

時に公の兵は萬に滿たず、傷つく者は十に二三なり。
上に固より云ふ、「營を分けて與に相 當る」と。則ち此れ但だ自將の親兵(曹操直属)のみを指すなり。然も亦た、必ず一二萬人有らん。不滿萬と云ふは、則ち其の實に非ざるなり。

大いに瓊らを破り、皆 之を斬る。
注採『曹瞞傳』曰く、公の意 殺さざらんと欲す。按ずらく、靈帝の時、瓊(淳于瓊)左軍校尉と為り、魏武と與に皆 西園八校尉の一なり。故に(旧友、もと同僚だから)之を活かさんと欲すなり。

六年九月、公 許に還る。
紹(袁紹)は地は廣く衆は盛なり。謀議の士 附する者 尚ほ多し。其の兵 破ると雖も、未だ取る可からざるなり(官渡の敗戦後も、腐っても袁紹軍)。故に許に歸りて、以て威を養ひ釁を俟つなり。且つ其の間剪を以て、劉備 復起の勢あり。全力を以て徐ろに河北を收むるを得て、能く牽制する莫きのみ。

八年、其れ諸將をして出征せしめ、敗軍の者は罪に抵て、利を失ふ者は官爵を免ず。
始めは猶ほ烏合がごとし。故に寛假を多くす。此に至り、乃ち罰を議し、立國經久の計と為す。

九年、武安長の尹楷 毛城に屯すより尚(袁尚)將の沮鵠 邯鄲を守りて又擊㧞之に至るまで。
楷(尹楷)を破れば、則ち高幹が并州の援 北のかた断ず。邯鄲を抜かば、則ち袁熙が幽州の援 東のかた絶す。

あたかも地図を書いて軍事を語る。地勢(地理による兵勢)を説明するのは、どこに立脚してどこを目指しているのか。

楷を擊つに自將者、運道 通ぜざれば、則ち城を堅くするも大衆 自潰の勢有り。係る所 尤も大なり。

紹曰く、吾 南據河北、阻燕代、兼戎狄之衆、南向以爭天下、庶可以濟乎。
河北を資として光武以て海內を定むるを見る。故に之に據らんと圖る。

十二年、是に於て大封の功臣二十餘人、皆為列侯、其餘各以次受封。
功臣を封じて、乃ち徐ろに自ら尊くする(自尊)を議す。

まず曹操は、配下をランクアップさせてから、自分をランクアップさせる(魏王になる)算段を練ったのだ。いやらしい段取りだ。


十三年秋七月、公 南征劉表。
注採の皇甫謐『逸士傳』に、天下 將亂、亂魁と為る者は、必ず此の二人なりと。按ずらく、歴世に權を持し、賓客 翕習す。其の人は又 小しく才有りて、亂を為さざる者鮮(すくな)し。二袁 即ち前漢の王氏なり。益州牧の劉璋は始めて徵役を受け、兵を遣はして軍を給ふ。時に操 駸駸として(急速に)蜀を取るの機有り。

情勢分析、歴史的な評価をしたがるよね。どこ目線?


十四年、揚州の郡縣長吏を置き、芍陂屯田を開く。
此れ由り淮南 重鎭と為る。

十五年春、下令。
注採『魏武故事』に載する公十二月己亥令に、遂に天下を平らぐと。
按ずらく、孫・劉 方に睦まじく、而れども遂平天下と云ふ。蓋し其の之を器限するなり。史家 操の攻伐を評すらく、紹に克ちて止むる自り、此を過つを譏る。即ち鼎足虎爭し、復た能く戡定する所に非ず。

だれの言葉だろうか。


注以及子植兄弟。
此の子植なり。植の字(じ)は、乃ち子桓の傳寫の訛なり。臣下に對ひて、不以稱子之字、嫌と為す。陳思王傳注中を觀るに、載する所の諸令 屢々子建と稱するも、則ち此れ子桓の决と為すなり。

十六年、先に輕兵を以て之に挑みて戰ふこと良に久しく、乃縱虎騎夾擊、大破之。
弱者 戰に出でて、強者 之に繼ぐ。其れ戰に挑む者は、乃ち遊軍なり。

兵を運用したときの呼び名。「遊軍」ないしは「游軍」の説明を、どこからもってきた?


十八年五月丙申、天子使御史大夫郗慮、持節策命公為魏公。
関中 定まりて、而して後に魏公・九錫の事 成れり。
魏公の命 及び丕の禪受の際に、但だ冊書を錄して、而れども其の僞讓を著さず。承祚の微詞 他史と殊なる所以の者なり。勗(荀勗)の辭、以て削畧す可し。注に復た勸進牋を載するは、亦た贅ならざるや。

陳寿の簡潔な史書づくりをほめている。出典あるのかな。


初めて尚書侍中六卿を置く。
注採『魏氏春秋』云云。按ずらく、此れ魏國の官なり。

知ってた。


十九年、夫れ有行の士は、未必能進取より士有偏短庸可廢乎に至るまで。
此の如くんば、則ち得る所者は亂に從ひて歸するが如きの徒に過ぎざるか。濟を一時に取ると雖も、東漢二百年の善俗、俄焉に盡く。此に由り、簒亂 相循し、神州 左袵す。豈に中國の禮教・信義、操の斲喪する所と為りて、而して然るに非ざるや。

二十年、賊 見大軍退其守備解散より巴漢 皆 降るに至るまで。
操 誠に兵に善し。諸傳を以て之を考ふるに、獨り此の役のみ、幸に成る。實錄(実録)に非ず。

二十一年三月壬寅、公 親ら籍田を耕す。
注『魏書』云云。春祠令、講武奏。儼然と(おごそかに気高く)天子の議禮を以て自ら處するなり。

二十四年夏五月、引軍還長安。
朱溫 末路に、大いに李存朂に敗れ、後嗣の彌 以て振はず。乃ち知る、操の軍を斂めて、退しくは善く盈を持すと為すなり。

朱温と違って、引き際が潔かったから、曹操の死後、子孫たちがすぐに衰退せずに済んだのだ。


冬十月、王 摩陂に軍す。
陸機「弔魏武帝文」に云ふ、建安の三八に當たり、實に大命の艱ある所なり。雖光昭於曩載、將稅駕乎此年。西夏に憤りて以て鞠旅し、秦川を泝りて而して舉旗す。鎬京を踰えて不豫なり。渭濵に臨みて而して疑有り。冀翌日之云瘳、彌々四旬にして災と成る。歸塗に詠して以て斾を反す。崤澠に登りて而して朅來す。洛汭に次して而して大いに漸づ。六軍を指して曰念哉。
此を觀れば、則ち操 實に西行して志を得ざるを以て、而して發病す。襄樊の圍 急なるに及び、狼狽して還り救ふ。偃息するに遑あらず、登頓して而して死す。史 盡く書かざるのみ。當に武侯の正議を以て參證すべし。

陸機の書いた文のほうが、実をことごとく書いていて。武帝紀のほうが、その経緯を省きまくっているという。「武侯の正議」って何だっけ?宿題。


二十五年遺令曰天下尚未安定至無藏金玉珍寳。
陸機弔文に載する遺令に云ふ有り、吾 軍中に在りて持法すは是なり。忿怒を小さくし過失を大とするに至る?。當に效ふべからず。注中も亦た宜しく補見すべし。

「過失を大とす」の意味がよく分かってないです。


評、評に溢美無し。紹 四州を收むるの後、復た能く為す有らず。此の志 得ざる所以なり。三國に並列せざるなり。

袁紹は「四国志」になれなかった理由。


文帝紀

文帝紀、建安二十二年、立為魏太子。
注採『魏書』云云。此れ朱建平の事と相 類す。或いは傳ふる所 異なるか。

庚午、大將軍夏侯惇薨。
注、孫盛曰く、「在禮、天子哭同姓於宗廟門之外。哭於城門、失其所也」と。按ずらく、魏は未だ嘗て夏侯を以て同姓と為さず。故に之と婚姻す。孫盛 議する所は、非なり。

裴松之と孫盛の問題。曹氏と夏侯氏の問題。凝縮してる。


庚午、遂南征。
注採『魏畧』云云。其(霍性さん)の言、凡そ近けれども、採る可き無し。累卵より危ふしは、之を言ふは、又 過ぎたり。先王 為德と稱ざれば、其の忌む所を犯す。性(霍性)の死は、不幸に非ざるなり。其の禍を得るは尤も酷なる者なり。丕 將に禪代の事を行はんとして、而して治兵して、以て非常に備へ、又 其の跡を飾らんと欲して、之を南征に托す。性は喻らずして而して贅言もて衆を沮む。丕 遂に能く容忍する莫きのみ。

曹丕の南征の意図を推測する。霍性の洞察の浅さ、的外れと、曹丕との行き違いを指摘する。


使兼御史大夫の張音、持節奉璽綬禪位
注採、太史丞許芝 條すらく、魏代漢見䜟緯于魏王。又曰ふ、初六履霜隂始凝也。
按ずらく、此れ「堅冰」といふ二字無きの證と為す可し。

禅代衆事のなかで、議論の中身に踏み込んで、字をどう作るかを議論している。これは使えそう。


黃初二年、後有天地之𤯝、勿復劾三公。
此より遂に水旱もて三公を劾するの事無し。然して燮理の意 微なり。

ほのめかし過ぎで、意味がよく分からん。燮理(しょうり)は、宰相のこと。


三年春正月丙寅朔、日有蝕之。
日食、正朝。應に昭烈 伐呉喪敗に在り。

これは『宋書』天文志にある解釈なのか?


若限年然後取士より到皆試用に至るまで。
左雄の限年の法、此に至りて復た變ず。以て銳進の士を誘進せんと欲し、壹志事已也。

豈有七百里營より此兵忌也に至る。
兵勢 分くるを惡む。敵 其の間に乘ずれば、則ち救禦 難し。

曹丕が劉備の夷陵での布陣を評したもの。何焯が、たびたび兵法に即してコメントするのは、なぜ。『三国志』を兵法の事例集として見てる?


四年三月癸夘、月犯心中央大星。
四月癸巳、漢昭烈皇帝崩。

『魏志』の天文記事のなかに、劉備との感応の関わりを書くのはなぜ。つぎに『宋書』が見えるから、『宋書』を手元に置いて読んでいるのは確実。


是月、大雨伊洛溢流殺人民壊廬宅。
『宋書』五行傳に云ふ、宗廟を簡とし、祭祀を廢せば、則ち水 潤下せず。帝(文帝曹丕)は初めて即位し、鄴より洛に遷り、宫室を營造するも、而れども宗廟を起てず、太祖の神主 猶ほ鄴に在り。常に建始殿に於て饗祭すること、家人の禮が如し。黃初を終ふるまで、復た鄴に還らず、而れども員丘(円丘)方澤、南北郊・社稷ら、神位 未だ定まる所有らず。此れ其の罰なりと。
按ずらく、此れ見る可し、魏氏の禮制の缺、獨り一事のみならざるの徵を。之に附著す。

『宋書』を読みながら、曹魏の礼制が不十分なことを、何焯がここに付け加えましたよと。「附著」したのは、主語は何焯でよいでしょう。本来、『宋書』を長々と引く必要はないのだが。


評は、漢武の贊に仿ふ。

『漢書』武帝紀の賛を踏まえている、というのは、言われないと気づかなかった。恥ずかしい。


文帝、天資文藻、下筆成章、博聞彊識、才藝兼該。
注採『典論』帝の自敘に、云云。
按ずらく、其の自敘を觀るに、所謂 之を望むに人君が似くあらず、已に張子布 見況に堪へず。(『典論』を刻んだ)石を太學に立つるは、甚しきか。魏人の恥を知らざるなり。

なにこれ、めちゃくちゃ厳しいじゃん。


明帝紀

明帝紀、太和三年、追尊高祖大長秋曰高皇帝、夫人呉氏為高皇后。
其の曹騰に追尊し、自ら實に其れ贅閹の乞養と為す(宦官の子孫であることを公認した)とは、丕の禮を殺すに如かず(曹丕が礼制を削ったことのほうがひどい)。此れ自ら叡 子を生む能はざると為し(そのせいで子孫にまぐまれず?)、而も以て隆(高堂隆)に所後之親を加ふ。後人の勸(勧戒)と為す。下の七月の詔書と與に、類を連ねて觀ゆ。以て其の情を得可し。

青龍二年三月庚寅、山陽公薨。
山陽公 薨ずるに、日(日付)を書す。山陽 三月を以て薨じて、秋に及びて丞相亮(諸葛亮)適に亦た渭濵に卒す。天の漢數に于て、是に訖る。

献帝と諸葛亮が同じ年に死んだことは、感じることがあるよね。それよりも、死の日付を記すということは、史書のなかでの扱いが……というほうが重要な議論。


三年、是時大治洛陽宫、昭陽・太極殿を起て、總章觀を築く。百姓 農時を失ふ。
諸葛既 卒し、邊鄙 聳ならずして、而して叡 遂に滛荒を恣にす。『孟子』の中人を論ずるは、亦た信ならざるや。

『孟子』の「中人」を調べる。賢愚の中間、なみのひと。


秋七月、洛陽の崇華殿 災ゆ。
注採『魏氏春秋』云云。按ずらく、馬 七有り。其れ、宣景文武惠懐愍の祥なるや。

平凡な災異の解釈。


四年、崇文觀を置き、善屬文者を徵して以て充之。
王肅 祭酒と為る。

このとき王粛が、属文のうまいひととして徴された。


景初元年、改太和歴曰景初歴。
景初歴は、尚書郎の楊偉 造る所なり。事は『宋書』歴志に詳らかなり。曹爽に参軍の楊偉有り。疑ふらくは即ち斯の人なるか。『宋書』又 載す、黄初中に、太史丞の韓翊 嘗て黃初歴を造りて、時に陳群 尚書令為り。奏以為是非・得失。當に一年を以て决定すと。今の注家 群傳(陳羣伝)に于て之を遺す。楊偉の歴 施用するは、晉宋に暨ぶ。而れども名字 翳然たり(荒れ果ててよく分からない)。亦た採掇の闕畧なり。

重要な実績のある人物なのだから、きちんと載せておくべきだろうと。


十二月壬子冬至、始めて祀る。
注『漢晉春秋』云云。按ずらく、金狄 泣くは、叡 死して魏 亡ぶの妖なり。
でしょうね。 二年春正月、詔太尉司馬宣王、帥衆討遼東。
注『魏名臣奏』載する、散騎常侍の何曾が表に云云。
按ずらく、孔明 殁して軍 幾ど亂る。頴考(何曾)が副を置くの義は、蓋し老謀なり(熟練したよい考えだ)。

有彗星見張宿。
其の占ひは王莽の地皇三年 有星孛于張と同じ。天 將に曹氏を除かんとす。

三年癸丑、高平陵に葬る。
注『魏書』曰く、自在東宮、不交朝臣、不問政事、唯潛思書籍而已。
按ずらく、朝臣と交はらず、政事を問はざるは、此れ獨り文徳(甄氏)の䜛を免るるのみ。亦た萬古 毓徳なるものは、潛かに正法を邸すなり。潛かに書籍を思ふは、事 其れ逺きこと大なる者にして、而も徒らに資を文藻に用ひず。則ち才識 開益にして、人に接して事に臨むを待たず。胸中 自ら權衡有るなり。

曹叡に対するポジティブそうな評価は、ぜんぶ該当しない。曹叡は大した人物ではなかった、と陳寿による評価を覆している。


三少帝 斉王紀

三少帝紀、齊王、正始五年冬十一月癸卯、詔祀故尚書令荀攸于太祖廟庭。
注、臣松之云云。按ずらく、郭嘉を遺すは亦た以て魏臣に非ざればなり。

景元三年、復た嘉(郭嘉)を祀る。蓋し司馬氏 以て其の黨を厲すなり。獨り典韋を祀るは、之に死事を加ふればなり。

八年、尚書何晏奏曰、善為國者必先治其身より為萬世法に至るまで。
史家は平叔らを既に曹爽傳中に于て附見す。之が為に平反(くり返し調べて罪を明らかにし正しくする、調べ返して罪を軽くする)する能はず。特に此の奏を紀に錄して、百世の下をして其の言に因りて而して其の人に知らしむ。盡く其の實を異同の口に沒せしむるを欲さざるのみ。

くり返しの掲載を、否定しなかったのは珍しい。


嘉平元年、太傅司馬宣王、奏免、大將軍曹爽より語在爽傳に至るまで。
莽の賢を殺し(王莽が董賢を殺し)、懿の爽を族すは、皆、稔(つまび)らかに其の中外 殫微(尽きて弱ること)を知る。猝かに起ちて之に乘ず。

魏の滅亡などを、『漢書』の載せる前漢に準える視点がおもしろい。


六年秋九月、太后令曰より以避皇位に至るまで。
芳(曹芳)臨御すること數載なるのみ。昌邑 始徵が若くに非ず。果たして君徳 闕有らば、惡を衆に播す。師 何ぞ執るに以為辭を難しとするや。今 太后の令と稱し、牀第の私を發して、以て其の誣為るを知る有り。

高貴郷公紀

高貴鄉公、甘露元年春
注採『魏氏春秋』、遂に帝王 優劣の差を言ふ。帝 夏少康を慕ふと。
按ずらく、言論の間に、少康を慨慕するは、則ち澆・イツ(討伐するべき敵対者)在る有り。其れ亦た機事 不密の端なるか。

討伐すべき不服従の勢力がいる君主に、自分を準えてしまった。司馬氏を敵視しているのが、透けて見えてしまう。


丙辰、帝幸太學。
陳氏 詳らかに幸學問難を紀に于て書す。蓋し亦た深く嗟惜の意を致す。

二年、詔、呉使持節都督・夏口諸軍事・鎭軍將軍・沙羡侯の孫壹より事從豐厚に至るまで。
注、臣松之云云。按ずらく、時に淮南 呉を引きて援と為す。壹(孫壱)適に來奔す。故に司馬氏 濫りに爵を以て之を寵す。冀ふ以招誘來者。

政策の意図を書いている。


五年五月己丑、高貴郷公卒、年二十。
『公羊傳』曰く、公 薨ずるに、何を以て地あらざるか、言を忍ばざればなり。高貴郷公卒と書くは、其れ猶ほ良史之風有るか。抽戈犯蹕、之を直書するが若し。則ち反りて以て獄を成濟に歸するを得。今 公卒の下に、詳らかに詔表を載するは、則ち其の實 自ら著はれて、司馬氏の罪、益々逃る可きこと無し。所謂 微而顯、順而辨なり。『史通』之を論ずるも、蓋し未だ變例の深旨を識らず。

沈・業 即ち馳せて大將軍に語れば、先に嚴警するを得たり。
此の二語を觀るに、沈・業 方に司馬が為にし、借るに自ら解于天下を以てす。成濟と與に同に戮するに幾し。

王沈・王業は、高貴郷公を殺したも同然。


使使持節行中護軍中壘將軍の司馬炎、北迎常道郷公璜、嗣明帝後。
親疎の論を以てするに、是の時 丕の後(曹丕の子孫)尚ほ人有り。璜 宇の子為れば、則ち操の後なり。時に當たりて惟れ昭(司馬昭)の指なり。昭穆・遠近、敢て議するもの莫し。

司馬昭が禅譲を受けるために、曹丕の子孫でもない操り人形をつれてきた。司馬昭の意思を洞察するもの。


陳留王紀

陳留王、景元元年、故漢獻帝夫人節薨。
高貴郷公 弑崩の事、獻穆 猶ほ親ら之を見る。常道郷公 晉の太安元年に薨ずれば、則ち又 晉室の大亂・趙王倫の盜簒・反正の後なり。噫(ああ)。

臣ら平議、以為燕王章表、可聽如舊式。
章表、稱臣す。心に于て有所不安。不臣可也。當に更めて北魏の清河王の事を取りて、之を參ずべし。不至如周世宗の野差順耳。

何と比較しているのか分からないので、要調査。


咸熙元年春正月、行幸長安。
郭太后、殯に在り。蓋し墨縗にして出づるなり。

司空の王祥を以て太尉と為す。
注採『漢晉春秋』云云。按ずらく、祥 拜の不可なるを知るなり。然れども其れ自ら處る。何を以て并はせて(後漢末の)楊彪の下に在るや。厥の後、(五代十国の)馮道は郭威の拜を受く。復た折りて周に事ふ。是を以て唯だ大節、奪ふ可からざるは難為り。

王朝が交替するとき、古い王朝の高位の臣が、移籍するか。


屯田の官を罷めて以て政役を均しくす。
法 久しくして漸く敝す。時に當たりて之を罷む。必ず以(ゆゑ)有るなり。當に司馬芝伝 之を參觀するに合す。

評、仰遵前式より比之山陽、班寵有加焉に至るまで。
君 此れを以て始め、必ず此れを以て終はる。評の語 絞にして婉と謂ふ可し。

后妃伝

后妃傳、武宣卞皇后。尊后曰皇太后、稱永壽宮。
注採『魏書』云云。按ずらく、卞も亦た權數有り。若し顯にして植(曹植)を救はば、則ち外廷に必ず(春秋時代の鄭の)武姜・叔段(共叔段)の議有らん。言を為すを以てせずとも、而れども動かすに意を以てし、或いは為たる可きのみ。

卞氏がほのめかすか、、曹操の後継者に口出ししていれば、春秋鄭と同じことがおきていた。


文徳郭皇后、遂勅諸家曰、今世婦女少當配將士、不得因緣取以為妾也。
此の時 當に別に科禁有るべし。今 考ふ可からず。青龍中に、諸々の士女 士に嫁する者に非ざれば、一切 奪ひて以て戰士に配す。亦た當に此に緣りて辭を為すべきのみ。

現在(康熙期)と違うルールがあったんだろうけど、分からないから、どういう文脈が十全に読み取れないよねと。


后、崩于許昌、以終制營陵。
注採『魏畧』云云。按ずらく、郭太后 歿するも、其の宗親の恩禮 改むる無し。故に陳氏 取らず。然れども毛后 死を賜はり、曽て猶ほ遷官す。曹氏の酷虐・變詐は、常理を以て推し難きなり。

『魏略』の趣旨を拾わないといけないが。曹氏にきびしい。


董卓伝

董卓傳、公卿見卓謁拜車下。
注採の張璠『漢紀』云云。按ずらく、注前に採る所の『山陽公載記』の語、尤も實に近し。義眞(皇甫嵩)此より後に其の氣 已に衰ふを觀るに、未だ必ずしも能く是の言を為さず。僅かに以て兇人の鋒を避くるに足るのみ。

袁紹伝

袁紹傳、高祖父の安 漢司徒と為り、自安以下四世、居三公位、由是勢傾天下。
注採『魏書』云云。按ずらく、游俠の歸するは、必ず亂首と為らん。諸袁 是れなる已(の)み。曹操 語る所の王儁なる者は、上の人 當に之を未形に圖るべきなり。儁の事 武紀の荊州 平らぐの下に在り。

武帝紀注に、「皇甫謐逸士傳曰:汝南王儁,字子文,少為范滂、許章所識,與南陽岑晊善。」とある。


乃ち召董卓、欲以脅太后。
紹 進に董卓を召さんことを勸め、謀を為すも臧さず。漢室 破壊して、而して袁宗 先に其の殃を受く。天下の罪魁なり。

董卓を呼び込んだ袁紹が悪いんだと。


時に、紹 進に便可于此決之を勸む。
進の意 既に同じ。紹 司𨽻と為り、讓・忠(張譲・趙忠)の出づるに乘じ、爪牙・武吏を選びて、渠魁を執取し、之を獄に盡す。掌を反して、可以集事。徒(いたづ)らに王甫 既に誅せらるるを見て、陽球 旋して亦た禍を受く。其の身を萬全の地に措かんと欲す。惟れ進(何進)の早断せんことを望みて、敢て自ら决せざるのみ。

紹、自ら車騎將軍を號し、盟を主り、與冀州牧韓馥、立幽州牧劉虞為帝。
紹の此の舉 更に誤れり(何進に決断を預けた+さらに間違えた)。方に兵を起して卓を討ちて、少帝を廢弑するを以て(挙兵の名目として)辭と為し、乃ち疎宗(親しくない劉虞)を尊立せんと欲す。其の覆轍を蹈みて、其の後、終に獻帝の君臣の好 固からざるを以て(献帝の側近たちを警戒し)、狐疑して、未だ即ち奉迎せず。曹操 之に先んず。號令せしめて他人の假る所と為る。戰はずして、而して成敗 勢を異にす。

圖(郭図)還りて紹に說くらく、天子を迎へて鄴に都せよと。紹 從はず。
注採『獻帝傳』に、若し天子を迎へて、以て自ら近づくれば、動やもすれば輒ち表聞す。之に從はば、則ち權は輕し。違之、則拒命。計の善き者に非ざるなり。
按ずらく、後の權衡、審らかならず。為へらく此の二語 誤る所の者多し。

『献帝伝』の言い分がいまいちだ、と言っている。


瓚を易京に擊破し、其の衆を并す。
注採『九州春秋』曰く、紹 北海の鄭元を延徵して、而れども禮せず。(袁紹は鄭玄を礼遇しなかった)
按ずらく、許靖すら猶ほ當に禮を加ふべし。況んや鄭康成(鄭玄)をや。

長子の譚を出だして、青州と為す。沮授 紹を諫むらく、必ず禍の始と為らん。紹 聽かず。
天子を迎ふるの謀に從はざるは、先に敗るる所以なり。出長子の諫を聽かざるは、速亡する所以なり。史家之を撮舉し、乃ち一傳の綱なり。

撮舉(撮擧、撮挙)は、よく出てくることば。


太祖、自ら備を東征す。田豐 紹に太祖の後を襲へと說く。紹 辭するに子の疾を以てし、許さず。
若し田豐の言を用ふれば、即使、許をして抜く可からず?、而して紹 大河に據臨して、以て其の北を爭ふ。徐州 出兵して、其の東南を擾がしめば、彭越の梁地に在るに過ぐ。操 奔命して暇あらず。

注『魏氏春秋』載する紹の州郡を檄する文に、故復援旗擐甲、席捲赴征、金鼓響震、布の衆 破沮すと。
李善『文選』注に云ふ、紹 呂布を征するは、諸史 載せず。蓋し史 畧するなり。

注、故の使從事中郎の徐勛、就發遣操。
天下の人、豈に盡くす可きや。發遣の云ひは、徒だ操の嗤ふ所と為るのみ。

注、又 梁孝王は、先帝の母弟なり。墳陵 尊顯にしてより士民 傷懐すに至るまで。
此の事、信否を知らず。『文選』注、『曹瞞傳』云ふ、曹操 梁孝王の棺を破りて、金寳を収め、天子 之を聞きて哀泣すと。此の檄に緣りて、而して之を實とする者なるが似し。

注、其の細政苛慘を加へてより動足蹈機陷に至るまで。
此れ其の法令に因りて必ず行ひて、而して之を動揺せしむ。

譚・尚 舉兵して相 攻む。
注引『漢晋春秋』に載する、審配 譚に獻書して曰く、「先公、謂將軍為兄子。將軍、謂先公為叔父」と。
按ずらく、此の二句、則ち漢末に、稱は生父母の親に本づき、不復た以父母之名を係けず。

親族呼称についての語釈。意味が取れてないです。


配を生禽す。配 聲氣は壯烈にしてより遂斬之に至るまで。
廢立の際に於て、主の昏きに從ふ。能く死すと雖も、沮授と比ぶることは得ず。

袁術伝

袁術傳、南陽戸口、數百萬より舍近交遠、如此に至るまで。
二事も亦た、是れ其の敗亡の由を撮舉す。
注採『呉書』云云。按ずらく、獻帝は幼沖にして、董卓は擅命す。何ぞ子胥に比す可きか。術の書、本旨に非ずと雖も、情理に於て、稍や分明なり。

これは触れたい。


曹將軍、神武應期より信有徵矣に至るまで。
當時に人心 操に歸す。其の言、此に至る。其の漢賊と為ることを早く知る者は數人に過ぎざるのみ。

まさか忠臣筆頭の曹操が、漢を滅ぼす張本人になろうとは。そんなの、わずか数人にしか予知できてなかったよー。その数人ってだれ?これは、額面どおりに受けとってはいけないのか?


劉表伝

劉表傳、『范書』は表を以て魯恭王の後と為す。而れども此の注は、焉を聞く無し。

表 遣使貢獻すと雖もより表不聽に至るまで。
注採『漢晉春秋』云云。按ずらく、此れ曹操 謂ふ所の、乍前乍卻して以て世事を觀る者なり。

南のかた零・桂を收め、北のかた漢川に據る。
注採『英雄記』云云。按ずらく、喪亂中に、經籍 遂に冺絶せざるは、實に此有るに頼る。表(劉表)遠畧無きを以て、為ひて不急なりと嗤ふ可きに非ず。

劉表がもたもたしてくれたおかげで、典籍が荊州に保存された。劉表がしょぼいなと笑う必要はない。


太祖 袁紹と方に官渡に相 持す。紹遣人求助表、之を許すも而れども至らず。
表 紹を助けずして、以て操の後に綴く。則ち合從の勢を失す。江漢の間を保たんと欲すと雖も、其れ得なる可きか。

太祖の軍 襄陽に到るや、琮舉州降。
注採『漢晉春秋』云云。按ずらく、人心 瓦解し、之を遣はせば必ず相 率ゐて潰ゆ。將も又 凡材なり。豈に能く一時の幸を徼ふるか。琮の勢 張繡の素より能く其の衆を拊循する者に比すれば、又 已に異なれり。徒爾(いたづらに)として覆宗す。納れて愈と為さず。

呂布伝

呂布傳、布 其の意を覺りて、紹より去らんことを求む。
注採『英雄記』云云。按ずらく、布 是れ王官なり。又 董卓を除きて、故に兖徐の士、往往にして之に附す。曹・劉は天下の英雄なり。然れども其れ始めなれば(事業を始めたばかりなので)、衆心 未だ一ならず。猶ほ擅に相 署置するの嫌有るのみ。

曹操と劉備は、人々の求心力を得るために、官職をばらまいている。でも呂布は、朝廷からもらった「王官」である。


張邈伝

張邈傳、太祖曰、布は狼子野心なりより拜登廣陵太守に至るまで。
徐揚の中に據る。

陳登伝

陳登傳、年三十九卒。
安溪師(李安渓)謂ふらく、元龍(陳登)昭烈に於けるや、一見して心を傾く。然れども登の父子、始終 曹が為にす。未だ為へらく人を知らず(劉備を捨てて曹操に協力するなんて、人を知らない)。厥の年を永くせしめ、豈に能く自ら漢・魏の間に潔よきか。按ずらく、昭烈 固より嘗て曹氏に歸す。當に其の奉迎して許に都し、從ひて地を赤立の中に掃ふべし。天子をして復た尊安の勢有らしめば、天下 顒顒とせん。孰ぞ仰望せずして及ち後に其の志 自封に在るを知るのみ。登をして尚ほ在らしめば、當に昭烈 復た徐州に據りて、必ず戮力し合規して、同に王室を奬むべし(陳登が生きてくれれば劉備を徐州に再び招いて漢室のために働いたであろうに)。或いは土を失ひ北奔に至らしめざる可し(劉備が袁紹のところを頼って逃げることが無かったであろうに)。
惜しむらくは、其れ早く殁し、孔明・季直(孝直の誤りか)と『季漢輔臣贊』中に並列するを得ざるを。決して公逹(荀攸)の輩に隨ひて魏廟に配食せざるのみ。

陳登は、魏に配祀されたんだっけ?
陳登に対する未練、こうだったらよかったのにが重たい。


臧覇伝

臧洪傳、紹 本より洪(臧洪)を愛し、意は屈服せしめんと欲す。原之。洪に見ゆるや、辭は切なり。知る終に不為己用。乃ち之を殺す。
注採の徐衆『三國評』、洪が為に計る者は云云。
按ずらく、當時、他國に奔る可き無し(逃走先になるようなものはなかった)。袁曹と不協なれば、北に公孫と超(馬超)有り、鞭長 及ばざれば、南は則ち袁術あるも、方に僭盗を謀る。況んや身は又 紹の拘留する所と為るをや(ほかに選択肢がないし、遠いか不義であるし、ましてや袁紹に捕らわれたのならば逃げようがない)。有だ辭は東郡の符なりて?、退きて野を耕し(諸葛亮みたいに)、待如 昭烈の起而事之。曹氏に後に報ゆ。斯れ上策なるのみ。

公孫瓚伝

公孫瓚傳、劉 日南に徙るに及び、瓚 米肉を北芒上に具へ、先人を祭ると。
瓚 既に遼西の人なり。前世 又 素より朝に官するに非ず。何に緣りて、先墓 乃ち北芒に在るや(洛陽の北芒山に北のはずれの公孫瓚の親族の墓があるわけないだろう)。

この文は、違和感があったんですよ。


虞は宗室の知名にして、民の望なり。遂に推虞為帝。
紹らの謬計に因る。亦た即ち昭烈 當日に以て有為に足るを見る可し(宗室としては劉備の判断のほうが参考にされるべきだ、正しい)。但だ宗室に屬して、自ら人の服從する所と為り、乃ち兩漢 稍く封建の效(封建制度があって意味あったね?)存り。

注『呉書』曰く、是の時 有四星會于箕尾より、文曰虞為天子に至るまで。
四星 箕尾に会するは、昭烈 涿郡に起つの祥なり。

そんな解釈までするんですね。

虞 天子と為るは、魏は虞の後なり(曹魏は虞舜の後裔である)。

遣人與子書、刻期兵より舉火為應に至るまで。
注採『獻帝春秋』云云。按ずらく、其の書を更むるは、瓚を譎く所以なり。在昔衰周」の二十四字は、『後漢書』即は「瓚」に作る。『續書』と與に發端する者 之に近き。琳の更むる所に非ざるなり。

陶謙伝

陶謙傳、車騎將軍の張溫の軍事に參ず。
注採『呉書』に、謙 仰曰く、謙 自ら朝廷に謝すと。豈に公と為るや(辞退しているから三公にはなっていないのだ)。按ずらく、漢末に爭ひて士に下る(謙遜し辞退した)。故に謙 以て其の意を行ふを得たり。

是歳、謙 病死す。
注採『呉書』云云。按ずらく、子布(張昭)の筆、未だ竒傑為らず。何を以て禰衡 之を重んずるか。

ただの文章に対する感想、悪口だ。


張魯伝

張魯傳、魯 欲舉漢中降より太祖攻破之遂入蜀に至るまで。
注採『魏名臣奏』に載する揚暨の表に、云云と。
按ずらく此れ操 蜀を取るを敢へてせざるの實錄なり。其の後、夏侯 首を授くるに懲りて、亦た復た漢川を爭ふの意無きなり。然して、持勝の道 此より善きは莫し。

子の彭祖が為に魯の女を取る。魯 薨ずるや、之に諡して、原侯と曰ふ。子の富 嗣ぐ。
注採『魏畧』、時に又 程銀・侯選・李堪有り云云。按ずらく、此れ皆 大亂の時に屬ひ、塢壁 自保す(張魯を筆頭に、程銀らは籠もった連中のリーダーだ)。因りて雄長為る者なり(乱世で籠もったから強くなっただけだ)。金末、九公を封建するも、亦た因りて之を用ふるの法なり。力 平らぐ能はざれば、反假して祿位を以て扞禦を為さしむ。

金末に懐柔した例を調査せよ。


曹洪伝

曹洪傳、始め洪の家は富み、而して性は吝嗇なりより乃得免官削爵土に至るまで。
按ずらく、楊沛伝に、此の舉 文帝に不宏と雖も、而れども洪の舍客も亦た、屢々法を犯す。劉勲と與に、並稱して罪を得るも、亦た素より其の下に檢制ならざるに由るなり。沛の事(楊沛のこと)、賈逵傳注中に在り。

曹休伝

曹休傳、明帝 即位するや、進封長平侯。
『孫資別傳』に文皇帝の晏駕有り。陛下(明帝)即阼するや、猶ほ曹休に外內の望有り云云。按ずらく、明帝 休と無間なり。『資別傳』妄為るを知る。

これはいい。これは使える指摘。


曹真伝

曹眞傳、眞 蜀連出侵邊境を以てより詔眞還軍に至るまで。
內に已を審らかにし、外に敵を量らば、

これはどこの兵法に由来するのか?

時に于て、豈に能く必ず取りて、而して數道に師を興すや(兵法が分かっていれば、そんなことをするはずがない)。子丹の此の舉、敗國喪名に幾し。昭伯(曹爽)事を蜀に于て嗣ぐ(蜀の征伐を同じことをくり返した)。遂に怨を天下に結ぶの始と為る。亦た徼倖の餘殃なり。

爽(曹爽伝)、齊王 即位するや、爽に侍中を加へより贊拜不名に至るまで。
爽の名位 素より輕し。忽にして重寄に膺ふ。勞謙せずして、以て天下に先んじて(たいして苦労もせずに小人物のくせに高い位についてしまって)、而して偃然とすれば輒ち殊禮に當たる。有以知其必敗矣(そんなんだったら、絶対に失敗するでしょ)。

注『魏書』曰く、其れ太尉(司馬懿)を以て太傅と為す。
大司馬を兼ぬるは、則ち懿 猶ほ兵を典るなり。但だ崇びて太傅の虛名を以てす。所為奪之權なり。

颺等、欲令爽立威名于天下、勸使伐蜀爽從其言。
曹爽・諸葛恪 皆 輕舉を以て功を喪ひ、怨を民に結ぶ。之に懐く者無し。遂に以て敗るるに致る。後の幼主を輔くる者は(後世への一般的教訓を垂れるぞ)、茍し才徳 孔明に如かざるとも、且に子孟(前漢の霍光)の休息に法ることに務むべきや。

十年正月、車駕 高平陵に朝すより遂出屯洛水浮橋に至るまで。
昭伯の兄弟、專政すること九年。乃ち禍敗に及ぶ。宣王 事を舉ぐるは、固に聊爾(かりそめ)の一擲に非ざるなり。

九年間、練りに練って、チャンスを狙っていたと。


侍中の許允・尚書陳泰說爽、使早自歸罪。
是の役に、舊徳(?)蔣濟が如し。人望(?)陳(陳泰)が如し。許(許允)は、皆 仲逹の欺く所と為る。

晏(何晏伝)注採、『魏末傳』に、晏の母 歸して其の子を王宮中に藏す云云と。按ずらく、此に據れば、則ち平叔(何晏)は蓋し尚ほ後有り(何晏の子孫がいるだろう)。但だ亦た『魏末傳』を(に?)出すは、虛妄なるを恐るるのみ。費文偉(費禕)の甲乙論 云ふ、晏の子、魏の親甥、亦た與に同に戮せらると。敵國の傳聞と曰ふと雖も、然れども彼を以て為へらく信ず可きと。

夏侯尚伝

夏侯尚傳、子の元(夏侯玄)。夫れ欲清教審選、在明其分敘。不使相渉而已。
清教(の人選の基準を持つの)は中正を謂ふなり。審らかに選するは臺閣を謂ふ。

臺閣、則ち官長の能否の第に據る。參するに郷閭の徳行の次を以てし、其の倫比に擬す。偏頗せしむ勿れ。
前代の吏部、人を用ふるの畧、此の意を得たり。中正を設けずと雖も、猶ほ鄉評を參取するなり。

わざわざ中正官を設けなくても、漢代の人材選抜は、郷里での名声に基づいていたのよと。司馬氏の制度変更に対する批判かな?


司牧之主、一して而して專せんと欲す。一なれば則ち官任 定まりて而して上下 安ず。專すれば則ち職業 修めて而して事 煩ならず。
此の議は、古今 以て通行す可し。但だし、呉・蜀 未だ一せず。各々 重鎭を置く。郡守の權、統ぶる所有らざるを得ず(統治範囲はすべてに及んだ)。又 其の人 素より貴なり。驟は令長らと列す。爵命 齊しからざると雖も、必ず權を失るを以て恨と為す。猶ほ當に徐ろに混一(すべてがまとまること、天下統一?)を俟ち、乃ち之を議すなり。

又 幹郡の吏、職監諸縣より若皆并合則亂原自塞に至るまで。
此れ刺史の典郡書佐を謂ふなり(制度説明)。

秦時、無刺史より其後轉更為官司耳に至るまで。
懿(司馬懿)の意は、蓋し官制を變ふること無きを謂ふなり。但だ刺史 察する所は、六條のみに止まる。漢の初めに循はば、意は則ち亦た重累の患無し。郡守 以て令長を總率す。古すら監牧有り。亦た盡くは去る可からず(刺史の廃止までするもんじゃない)。

今公侯、命世作宰より竊未喻焉に至るまで。
公侯は、懿を謂ふなり。三公にして封侯なれば、故に之を兼稱す。

呼称の意図、内容を解説。

時に于て懿 方に私門を營立す。日暮の倒行、何ぞ經逺に暇あらん。清教・審選が如き(中正官の設置についての議論)は、各々相 渉らず、而して仍ち互相に形檢す。此れ掌を反して行ふ可し。而れども亦た能く改むる有らざるは、以て其の志 公に在あらざるを知る有あればなり。

曹爽と與に共に駱谷の役を興す。
眞(曹真)は嘗て伐蜀を建議するも、而れども功無し。淵(夏侯淵)陽平に殺され、二子 共に是の役を興す所以なり。然れども、劉葛の澤を尚ほ存するを料らず。賢才 未だ盡きず、君臣 釁無し。

劉備・諸葛亮の影響はまだ残っていて、蜀漢は強かった。夏侯淵の敵を取ろうというのは、通用せんよ。

守備 甚だ設けられ、豈に倖(さひわ)ひに其に功有る可けんや。年少・浮華なるもの(曹爽たち)は、未だ事を練らず。端無く輕舉す。遂に國家の憂を為す。悲しきかな。

曹爽が国を滅ぼしたことが悲しい。


玄(夏侯玄)格量宏濟。東市に斬せらるに臨み、顔色 變ぜず。舉動 自若たり。
注採『魏氏春秋』に、玄(夏侯玄)の執ふるや、衛將軍の司馬文王(司馬昭)、流涕して之を請ふ。按ずらく、三少帝紀を以て之に證とす。文王 時に于て安東將軍為り。亦た衛將軍に非ざるなり。

清河王經(王経伝)
注採、晉武帝の太始元年の詔に云云。
按ずらく、此の詔、沈に因る(王沈が書いた)と見る可し。業(王業)の申意の言も亦た誣あり(曹髦を陥れる意図があったのだ)。

魏晋革命のとりあつかいは、重大なテーマなんですね。


荀彧伝

荀彧傳、今 東方 皆以收麥より未戰而自困耳に至るまで。
此の論の事が如きは、表裏 皆 見ゆ。信に其れ留侯(張良)の亞為ならざるや。

夫れ、事 固有棄彼取此者より、不患本之不固可也に至るまで。
昭烈の益州を取るが如きも亦た是れ此の意なり。

紹、益驕與太祖書。其詞悖慢。太祖大怒、出入動靜、變于常。
此の書 即ち陳琳の作す所の、豫州の將校を檄するの文なり。操は陽(いつは)りて怒りて、以て其の士卒を激せしむるのみ。

此の二人をして、後事を留知せしむ。若し攸の家 其の法を犯せば、必ず縱にする能はざるなり。縱にせざれば、攸 必ず變を為す。
此れ孔明 孝直(法正)を優假(手厚くもてなす)する所以なり。
太祖、就榖東平之、安民、糧少不足。河北と相 支ふ。
時に所在の屯田、榖を積むも、猶ほ糧 少なきを患ふ。況んや仰給桑椹虜掠田野者をや。宜しく其の一敗の後に、再舉する能はざるべきなり(カツカツなんだ)。

願公急引兵先定河北より、此社稷長久之利也に至るまで。
既に時務の要に當たりて、而して舊京を修復するの語、亦た猶ほ乃ち王室に心するなり。

荀彧は漢の忠臣という設定なので。


太祖、將伐劉表。
注採『彧別傳』に、宜しく天下の大才・通儒を集めて、『六經』を考論し、傳記を刋定すべし。古今の學を存せしめ、其の煩重なるを除け。以て聖眞を一にすべし。並びに禮學を隆くせよ。漸敦教化、則王道兩濟と。按ずらく、時に之を圖るに及ばざれば、則ち宿儒・老生 日に就ち衰落す。後生(後学のもの)は一に派別を失はば、則ち聖籍 湮微す。復た其の緒を尋ぬれども、為力甚難。

明末清初の時代認識に通じているから、わざわざ『彧別伝』の話をピックアップするのか。『別伝』に冷淡だが、内容によっては自由自在なのだ。

此れ荀令君 兩濟(?)に汲汲とする所以なり。

荀攸伝

荀攸傳、攸 深密にして知防有りより莫知其所言に至るまで。
攸 後に陵夷せらる。豈に陰謀を以ての故なるや。

ひそかな建議のせいで、曹操の不興を買って殺されたのだろうか。これが分からないから、『三国演義』は別の理由をつけたのだ。正史を見ても、よく分からないんですよね。


賈詡伝

賈詡傳、注採『九州春秋』に、屠三十六萬方。
按ずらく、「萬」字は、衍なり。下に因りて「方」字なり。而れども妄りに増加するなり。

注引『九州春秋』及び『英雄記』云云。
人心 未だ漢を忘れずして、而れども兵を擁して逆を作す。必ず且に變生麾下。身膏齊斧、以て禍始の罰に膺ひ、嵩(皇甫嵩)をして之を聽かしむれば、則ち董卓の前驅なるのみ。忠導の人 賊と作り、卒に賊の迫脅する所と為り、憤慨して死す。其の氣燄 以て之を取る有るなり。

傕 乃ち西して長安を攻む。
注松之云云。按ずらく、詡は涼州人なり。此が為に死を救ふ(李傕の命を救った)。當に王允を咎とすべし、獨り詡を恨むを得ず。

裴松之への反論。裴松之は、賈詡のせいで世が乱れたというが。賈詡が、同じ涼州人の李傕を救うのは当然。むしろ、この状況をつくった王允が悪いねんぞ。


明公、昔破袁氏より太祖不從軍、遂無利に至るまで。
譚・尚の兄弟 三たび駕して、而して後に克つ(曹操が袁紹の遺児を討伐するのに、三回も戦いを起こしましたよね)。江に順ひて東下するは、顧みれば易了なること是の若きか。賈の言に從はば、而して以て後圖を為す。威を養ひ、持勝の善謀なり。

赤壁で頓挫する曹操の戦略について。


注、臣松之以為、詡の此謀より稽服之可期に至るまで。
孫權、赤壁の勝より、始めて能く國を立つ。此より前、荊人 何ぞ憚ること之れ有らん。
賈の言(賈詡のことば)未だ非とする可からず。然れども、劉琦をして昭烈を倚仗し、父の故地を收めしむ。荊州 猶ほ必ず旋して、得て而失を復す。固に遽かに江東の稽服を望むに暇ある無きのみ。

赤壁の処置について、やっぱり関心は高いのだ。


用軍之道、先勝後戰。敵を量り將を論じ、故に舉に遺策無し。
良・平(張良・陳平)すら斯の言を易へず(その通りだ)。

これ、兵法の言葉ですよね。


評曰、荀彧は清秀通雅より未能充其志也に至るまで。
謂へらく、魏武が如き者は、豈に能く終に純臣と為るや。恨むらくは、文若 之を辨ずること早からざるを。王佐の才有りて、而れども、必ず自見せんと欲す。遂に擇主に暇あらず。孔明 潛見し、皆 龍徳に合するに如かず。

田疇伝

田疇傳、遼東 斬りて袁尚の首を送りより乃往弔祭に至るまで。
注、臣松之云云。按ずらく、疇 自ら烏丸に報ゆる(報ずる)のみ。

邴原伝

邴原傳、閉門自守し、公事に非ずんば出ず。
注採『原別傳』に、是の時、海內の清議 云ふらく、「青州に邴・鄭の學有り」と。按ずらく、鄭公業(鄭玄)も亦た、鄭・邴を以て並言す。『家傳』の妄りに相 推高するの語に非ず。

家伝・別伝への厳しい眼差し。


注、其不來者、惟だ邴祭酒有るのみより謁訖而出に至るまで。
此の如く張弛(はることと、ゆるむこと。盛んになることと、衰えること)す。則ち大節を損ずる無くして、而して仍ち謙を得て以て福を受くるの道なり。

さじ加減が、ちょうどよいのかな。


管寧伝

管寧傳、王烈なる者は、字は彥方。
本は「彥考」に為る。『後漢書注』、据る可し。「方」字は、寡學なる者 定むる所なり。北宋本、正しく「考」に作る。

崔琰伝

崔琰傳、郷移為正。
此の「正」は、疑ふらくは、即ち「正卒」なり。羡卒の正なり(語釈)。

時に未立太子より琰以死守之に至るまで。
密函を以て下訪す。乃ち露板もて以て答ふ。骨肉の間に處る所以に非ず。季珪(崔琰)の禍は、實に此に萌すなり。

初め太祖、性は忌なり。堪えざる所の者有り、魯國の孔融なり。
注採『續漢書』に、曰く、「人は小さき時に了了なる者は、大なれば亦た未だ必しも竒ならず」と。按ずらく、長大なれば學を失ひ、故に竒無し。融 此の對 卻りて輕薄なり。

成長すると勉強しなくなるのは、何焯の感想ですよね。


注、張璠『漢紀』に、常に嘆じて曰く、坐上に客 常に滿つ。罇中の酒 空ならざれば、吾 憂ひ無しと。
亂世に處りて、多忌に遇ふ。二語 一たび此に于有れば、身を殺して餘り有り。

ただの警句のようだ。


何夔伝

何夔傳、以為へらく自今 用ふる所、必ず先に核之鄉閭より各任其責に至るまで。
之を郷閭に核し、時は方に草創なり。易々しく行はず。保舉を修めて故に不以實之令。則ち無施不可。

文脈を拾わないと分からないけど、人材登用について。


然して節儉の世に于て最も豪汰為り。
孝先(毛玠)は、清恪なり。叔龍(何夔)は、豪汰なり。而して相 與に友と為る。古人 重ずる所は、大節に在り。己の奢儉を奉じて、以て相 非せざるなり(違いを認めあい、押しつけない)。叔龍(何夔)は汰侈なり。頴考(何曾)は之を濟し、貽謀一謬。子孫 卒に其の敗を受く。戒めざるを以てす可からず。

鮑勛伝

鮑勛傳、文帝 將出游獵より請有司議罪以清皇朝に至るまで。
勛の語は殊壯なり。但だ丕(曹丕)諒陰の語を聞き、漠として動く所無し。表を毀して獵を行ふ(諫言を聞き入れなかった)。復た其の樂 八音に何如と問ふ。心 已に死せり。又 何ぞ言を與ふる可きや(曹丕なんて、諫言してやる価値のない君主だ)。亮(だれ?)は有餘にして而して不足を識る。又 君子 惜む所なり。

司馬芝伝

司馬芝傳、黃初より以來、聽諸典農治生各為部下之計。
黃初中、屯田の制 已に壊はる。嘆く可し。

鍾繇伝

鍾繇傳、注採『先賢行狀』に、少府の李膺 常宗此三人より復以膺妹妻之に至るまで。
按ずらく、李膺の妹は、姑の子に嫁ぐ。則ち中外 姻を連ぬ。古より非と為さざるなり。

近親者での婚姻について、古に前例があるというのは、だれを擁護するために言っている?


其の後、河東の衛固 亂を作す。
注採『魏畧』に、謹しんで按ずらく、侍中・守司𨽻校尉・東武亭侯の鍾繇より伏須罪誅に至るまで。
按ずらく、此れ當日に自ら劾するの體なり(自己を弾劾する体裁)。

初め、太祖下令、使平議死刑可宮割者。
注採、袁宏の議に云云と。按ずらく、宏の議は浮泛なり。

ただの感想です。


毓(鍾毓)、許昌 城南に偪狹なれば、氊を以て殿と為すと。
百年、戎氊殿を為る、之を兆すなり(?)。

華歆伝

華歆傳、歆 知策善用兵、乃幅巾奉迎策(孫策)以其長者待以上賔之禮。
注採、胡沖『呉歴』に云云と。按ずらく、伯符の子魚を致敬するは、猶ほ孔明の文休(許靖)を待するがごとし。風氣 趨る所にして、英賢と雖も亦た時に因りて以て輿望に答ふるのみ。

孫策は、本心では華歆を尊敬していないけれども、名望が高いから華歆を敬っているふりをした。それは、孔明が許靖を重んじたのと同じだと。


踐阼するに及び、改めて司徒と為す。
注採 華嶠『譜敘』に、歆 形色を以て時に忤ふ。徙りて司徒と為るも、而れども爵を進めずと。按ずらく、此れ華嶠の飾詞なり。歆 魏の相國と為るを恥ぢず、又 何ぞ忤ふや。壁を發し后を牽くは、誰ぞ為す所なるや。

華歆が君主権力に抵抗したというのは、子孫の虚飾なのだと。


公卿、嘗て並びに没入の生口を賜ふ。唯だ歆のみ出だして而して之を嫁がしむ。
注採 孫盛に云云と。按ずらく、孫(孫盛)の論は、高なれども而れども情に遠きが似し。

王朗伝

王朗傳、文帝 踐阼するに及び、改めて司空と為る。
注採『魏名臣奏』載する朗の節省の奏に云云。
按ずらく、數行中に、西京の經費 指掌するが如し。『漢書』表志 精熟なるには過ぎず。

長安に祭祀についてよく書けているけれど、『漢書』の表・志には叶わない。


黃初中、鵜鶘 靈芝池に集ふより位次三公に至るまで。
歆(華歆)は寧(管寧)を薦めて、朗は彪を薦む。徒らに遺逸を汚染して、以て謗議を分損せんと欲す。又 何ぞ能く曹人の刺に答ふるや。

『詩経』かな?文中に出てくるのだろうか。


百姓・萬民 欣欣せざる莫し。
此れ亦た百姓を以て百官の族姓と為す(語釈ですな)。故に萬民と與に相 屬して之を言ふ。

肅(王粛)、是を以て唐虞の官を設け職を分くより公卿・尚書は各々事を以て進むに至るまで。
肅の此の奏は、漸く政を革めて臺閣の弊に歸せんと欲す。乃ち當日の急務 又 轉移せんと欲するも迹無し。故に但だ五日一朝の儀を復するを以て、各々事を以て進みて言を為す。蓋し臨朝の奏事 面取して裁决せば、則ち尚書 大柄を專執し、可否 心に任すを得ず。

意見、制度の中身についてのコメントなのだ。


則皇是其差輕者也。
注採『孫盛』語及び臣松之云云。按ずらく、肅の說は、蔡雝に出づ。然して、秦 荘襄王を尊びて太上皇と為す。漢 其の名に沿す。未だ必ずしも其れ貴にして位無く、高にして民無しと為さざるなり。

意見、制度の中身についてのコメントなのだ。


漢武帝、聞其述『史記』より而不在于史遷也に至るまで。
子邕(王粛、あざなは子雍)此の對へは、之を(光武帝に仕えた)衛敬仲(衛宏)に本づく。班氏の記す所と同じからず。敬仲 紀す所は實に非ざるも、時主(明帝曹叡)に于ては則ち善き對へと為す。

衛宏が記した、前漢武帝と司馬遷の記述は、どこにあるのか。


大司農の宏農の董遇ら。
注採『魏畧』云云。按ずらく、宏農(少帝劉弁)は未だ踰年せざると雖も、然れども嘗て北面して之に臣す。則ち故君なり。遇(董遇)應に謁者とすべからずと謂ふは、非なり。

評、劉寔 以為へらく、肅は方于事上、而好下佞巳。
其の下佞己の病を好むことを去らば、則ち肅 以て譏る無かる可し。

ただの人物評にかぶせただけ。


程昱伝

程昱傳、夫れ袁紹 燕趙の地に據りてより至覇王之業可成也。
昱らの計謀 皆 孟徳の奸心を啟く者なり。文若と須らく分別して之を觀るべし。

★荀彧の人物評をめぐる問題。


劉備 徐州を失ひ、來たりて太祖に歸す。昱說太祖殺備、太祖不聽。
荀文若を觀るに、豈に玄徳なる者を識らざるや(荀彧は劉備の資質を見抜いていたはずだぞ、程昱だけが分かっていたのではないぞ)。而れども郭嘉・程昱の策有るを聞かず。文若 乃ち心は操の為にせざること知る可きなり。

荀彧は劉備のために便宜を図っていたという★荀彧の人物評。


論者 以為へらく、孫權 必ず備を殺す。
論者、徒だ二袁・公孫の前事を見る。

乃ち自ら歸兵を表す。闔門不出より太祖賜待益厚に至るまで。
門を闔ぢて(引退して)兵を歸せば、告ぐる者 安ぞ能く入るや。

曉(程暁)是に於て遂に校事の官を罷む。
罷るは之れ是なり。然して當時、實に師を以て方に擅朝し、●詗の人有るを欲せず。故に曉の言 伸を得たり。

政治のあり方に関する評論。


郭嘉伝

郭嘉傳、彧 嘉を薦して、召見論天下事。
注採『傅子』云云。按ずらく、荀文若の語と少しく異同有り。或いは附会なるか。

袁紹と曹操の比較は、似すぎている。これについて解釈がいろいろある。


郭奉孝、在不使孤至此。
孟徳、奉孝を追惜し、而して諸葛も亦た孝直を思ふ。帷幄の助は、或いは其の人を失へば、英雄と雖も、必ず群䇿を資く可からず。

董昭伝

董昭傳、後に昭建議、宜修古建封五等より不敢不陳に至るまで。
昭、自ら才謀は荀郭(荀彧・郭嘉)の儔に非ずと顧みて、遂に首めて諂邪を為すや。操に媚びるを以てす。時に操の勢 已に成れり。故に(後漢はじめの)耿苞と為らざるのみ。

董昭が、魏公の建議をしたのは、自分が荀彧・郭嘉に劣る、という計算があったから……なのか?


又 圍中將吏不知有救より必不速退に至るまで。
倘し權の計 未だ就かずんば、樊の守 已に下る。關(関羽)遂に長驅すれば、則ち許洛(許都・洛陽)、瓦解せん。呂蒙も亦た沮なり。昭 慮の周なる(思慮が周到である)と謂ふ可きなり。

劉曄伝

劉曄傳、曄 漢室 漸微にして、已為支屬不欲擁兵を覩る。
此の時、曹氏 漢に代はるの勢、未だ成らず。支屬たるを以てするも、兵を擁するを欲せず。乃ち曄の後來の飾詞なり。

上繚の宗民、數々下國を欺く。
此れ宗民も亦た是れ賨賊なり。即ち當時の山越なり。

ありがたい勢力の特定、同定である。


劉備は、人傑なり。有度而遲より無不克也に至るまで。
劉氏は必死の戰に、蜀を得たり。新と雖も、已に能く其の豪傑を用ふ。險に憑りて相 持す。張魯の未だ大敵に遇はざるが若きに非ず。小小の利鈍、恐れて走る可きなり。曄 奈何ぞ以て陳策を料る者にして、蜀の士大夫を料るや。

いま劉備を攻撃すれば、蜀は自壊しますよという劉曄の見通しは正しくない。劉備は、いまく蜀を掌握している。


今 取らざれば、必ず為後憂。太祖不從。
魏武の用兵 必ず萬全を圖る。蜀漢 險峻なり。豈に懸軍し深入するを肯ずるや。若し身ら漢中に駐まり、將を遣りて備を攻むれば、則ち素より其の敵に非ず。往遺の禽(蜀への目先の突撃)、徒らに威重を損ぬ。故に為さざるなり。

曹操は、劉曄が勧めるように短期的に蜀地に突撃せずとも、曹操が漢中にみづから留まっていれば、蜀を攻略できたであろうという。それは新たな見解。


注『傅子』曰く、居ること七日、蜀降者說、蜀中一日數十驚より未可擊也に至るまで。
一日に數たび驚く。震鄰の勢 必然なる所有り。彼は懼れ我は驕れば、敗るる徴は我に在り。先に動かば、則ち又 烏林の覆轍と為らん。操の從はざるは、是れ彼己を量りて、而して其の力を全して以て時を俟つ者なり。丕に伐呉を勸むるは、則ち曄 是に近し。

兵法による状況分析がとても多い。なんでだろう。


可因其窮、襲而取之。
注採『傅子』云云。按ずらく、曄の計 得たり。然れども蜀は其の外を得て、乃ち形勝に上游す。彼 漢の宗支たるを以て、新たに一國を破る。天下 震動し、我を名づけて賊と為す。若天假之年、丕 豈に其れ敵せんや。故に董昭 兩敝(?)を以て長策と為すなり。丕の言が若くすれば、乃ち是れ下愚なり。彼 謂ふ、天下 來たらんと欲する者の心を疑ひ、呉の外は惟れ蜀のみ。又 以て誰か占夢が如くなるを疑ふのみ。

『傅子』を見ないと、うまく読めない。


彼謂陛下欲以萬乘之重牽巳より未有進退也に至るまで。
此の言 兵を知るに非ず。事を見るに深く、彼己を知れば、此の如く其れ審らかにする能はず。

有間、大鴻臚と為る。
注採『傅子』に、曄 能應變持兩端、如此。
按ずらく、曄 兩端を持するを好み、而れども言 衷に由らず。術に任せて敗を取る所以なり。若し謀を進め策を決するに、誠に當に徐ろに其の機を俟つべし。固陵(劉邦が項羽に敗れた地名)は議を韓・彭の地に始む。複道もて方に雍歯を圖りて封ず。此れ固に言を知る者なり。

前漢の故事をぜんぜん拾えてないので、読めてないです。


注に、諺に曰く、巧作は不如拙誠信より、豈不惜哉に至るまで。
帷幄の臣と為れば、之に本づくに忠信を以てし、之を持ずるに慎密を以てせば、則ち無敗なり。若し機詐を窺伺はば、未だ令終有る者あらざるなり。韓非 說難を為りて、而して自ら脫する能はず(有名な故事ですね)。誠に未だ至猶ほ未有能動者なり。況んや術を以てするをや。徒歸于一歩不可行而已。

ただの劉曄への批判。劉曄につめたい。


蒋済伝

蔣濟傳、吾 前决謂「分」半燒船於山陽池中。
「分」は、當に「扶問切」に作るべし。自料大半、此の如きなり。『通鑑』注、「分半船」に作るは、誤りなり。

陛下、既已に察之於大臣より莫適以聞に至るまで。
蔣濟 此れ國の安危に疏係なり。信に公の才なり。能く之を用ひしめば、則ち孫資・劉放、安ぞ彌留の際に于て、易々しく顧托の大臣を置くを得て、祚をして金行(魏晋革命)に移らしむるや。此の疏、萬古の英主の藥石なり。專ら一時の務ならず。

蒋済がきちんと見張っていてくれたら、魏晋革命はなかっただろうに。これは、曹魏の末路だけに言える教訓ではない。


今雖有十二州より于民數不過漢時一大郡に至るまで。
葛相(諸葛亮)死せざれば、魏 必ず滅す可きは、蓋し此を以てなり。

諸葛亮が死ななければ、人口がスカスカの魏を滅ぼすことができたのだ。蜀へのシンパシーやばいな。


敝攰之民。
攰は、居胃の切なり。力 乏しきなり(ザ訓詁でした)。

劉放伝

劉放傳、尋いで更めて放・資に見えて曰く、我自召太尉より帝獨召爽與放資俱受詔命に至るまで。
疾病なれば、則ち亂る。數語中に、以て見るに足る、放・資の弄權敗國を。晉初に修史せば、故に其の辭や微なり。曰く、獨り召さば、則ち并せて詔の眞僞、知る可からず。

注『世語』曰く、放・資 久しく機任を典りより故勸帝召宣王に至るまで。
密ならず(*^▽^*)。

注、肇(曹肇)出づ。纂、見ゆ。驚きて曰く、上不安、云何悉共出。
曹肇・曹爽 皆 俱に出づるを以て、而して敗る。

状況の説明。


抑辛毗而助王思。
王思は、梁習傳に在り。

劉馥伝

劉馥傳、馥の子の靖。
靖の字は、文恭なり。『水經注』第十四卷中に見ゆ。

應璩 書して靖に與へて曰く、入りて納言と作り……より有馥遺風に至るまで。
以て其の事實を失ふ。故に此の書を採る。靖 治を為すや、亦た杜畿の亞なり。

靖、以為經常之大法より屯據險要に至るまで。
其の先 江統の前に在るを見ゆ。

「經常之大法,莫善於守防,使民夷有別」とある。江統の徙戎論より先に、同じテーマを論じていますね。


又 廣く戾渠陵を修め、大いに水を堨す。
『水經注』は「戾陵堨車箱渠」に作る。其れ元康中に立つる所の碑なり。宜しく補錄して以て世期(裴松之)の闕を廣むべし。

『水経注』は西晋時代の碑文を引いている。裴松之には、闕(欠落)がある。これを広める?べき?


司馬朗伝

司馬朗傳、朗 以為天下土崩之勢より宜及此時復之に至るまで。
伯逹(司馬朗)前の一條に、建武の後に盡く郡國の都尉の官を罷むるを救ふ所以あり。一に西京(前漢)の舊制を變じ、輕車・騎士・材官・樓船の士及び軍假吏を罷め、民伍に還復せしむ。秋講肄課試の禮を廢立す。馴して三十六方(黄巾賊)、同日に並びに起つに至る。天下 土崩するなり。後の一條に、則ち累世の業を奪ふといふ。王莽 古制を慕ひて、而して其の宜を失ふ。亂るる後に而して復するに及ぶ。世祖 近謬に懲りて、而して其の会を失ふ(王莽の失敗に懲りて、改革をやり過ぎた)。適(まさ)に此の時に在り、然して曹氏 遠見無きも、經久を創制す。故に口分世業、反りて拓跋(鮮卑、北魏)の中原に據るを待つ有るなり。

なんという徙戎論!


張既伝

張既傳、太祖將㧞漢中守、恐劉備北取武都氐以逼闗中より出居扶風天水界に至るまで。
江統『徙戎論』云ふ、魏 興るの初め、蜀と分隔す。疆場の戎 一彼一此なり。武帝 武都氐を秦川に徙して、以弱宼強國、蜀虜を扞禦せんと欲す。蓋し此の事を指す。

徙戎論のなかで触れられている、魏初の措置がこれだと対応を示す。清朝の漢族は、徙戎論が、やっぱり気になるんですね。

當日に操 所以使劉氏無所資以北伐者、但だ漢中の地を空しくするのみにあらず。統(江統)の徙戎の計も亦た、即ち祖(同じ論調の先行者)に既(張既)の語ありて、反りて之を用ふ(徙戎論的な脅威が分かっているのに実行に移しちゃった)。

緝(張緝)中書令の李豐と與に謀を同にして誅せらる。
注採『魏畧』に、緝は云ふ、威震其主、功は一國を蓋ひ、欲不死可得乎と。
按ずらく、料恪、實刺師(司馬師)なり。難を免れんと欲す。

任峻伝

任峻傳、羽林監たる潁川の棗祗、屯田を建置す。
注採『魏武故事』に載する令に云云。
按ずらく、祗(棗祗)の議は、即ち龍子(『孟子』滕文公上)の貢助の說なり。魏人の屯田の制は、此の令に頼りて存す(現在に伝わっている)。

杜畿伝

杜畿傳、会白騎攻東垣。
龐徳傳、云張白騎 宏農に叛すと。白騎 即ち上の張晟なるや(史料のなかでの対応関係)。『後漢書』朱雋傳に、黃巾賊の後より、復た張白騎の徒有り。並びに山谷に起つ。騎白馬なる者は、張白騎為り。

恕乃上疏曰、帝王之道、莫尚乎安民より此古今之所常患也に至るまで。
何ぞ削畧せずして冗長なるや。簡當に就かしめば、讀之易起人意乎。此に于て班孟堅を思ふ(班固ならうまく省略して読みやすくできたのになあ)。

『漢書』と比較する視点。『漢書』を規範として『三国志』を裁く、ということが行われる。


焉有大臣守職辨課、可以致雍熙者哉。
其の論は、則ち高し。然れども考課は、中材(高位高官の中核人材か)を待つ所以なり。凡士も亦た廢す可からざるなり。


恕上疏、極諫曰、伏見尚書郎亷昭より誠不可以怠也に至るまで。
恕の言 甚だ煩長にして、其の意に自逹する能はず。泰初(夏侯玄)も亦た然り。

出でて宏農太守と為る。
注採『魏畧』に、孟康を以て恕に代へて宏農と為すと。按ずらく、此れ孟康なり。即ち『漢書』に注せり者の顏師古曰く、安平の廣宗の人なりと。

孟康と胡康が混乱していることは、下にもあった。顔師古注と照らし合わせるのは、おもしろい。


鄭渾伝

鄭渾傳、渾の兄の泰(鄭泰)は、荀攸らと與に謀誅董卓。
注採の張璠『漢紀』に、後に又 王允と與に謀りて、共に誅卓と。按ずらく、『後漢書』は、「與何顒荀攸共謀誅卓」と作り、其の實を得ると為す。

董卓暗殺を共謀したメンバーが史料ごとに混乱している、という指摘。


其所得獲、十以七賞。百姓大悅、皆願捕賊。
此の法を用てせば、則ち兵無くも、而れども兵有り(成功報酬型にすれば、百姓に兵のような働きをさせられる)。文公(鄭渾)固に權變に善し。

渾、以百姓新集為制移居之法より以發姦者に至るまで。
此れ俗吏の知る所に非ず。農を安め盗を息むるは、皆 移居の法中に在り。稼穡に勤め、法令を明らかにす、是れ目なり。

倉慈傳

慈(倉慈)躬ら往省閱より曽不滿十人に至るまで。
邊郡を治むるは、固に宜しく寛簡たるべし。

太祖より咸熙に迄るまで、魏郡大守たる陳國の呉瓘より咸為良二千石に至るまで。
政無くんば(政道が失われれば)、以て垂範し後來す可し。其の名を附見して、已に足ると為す。近代に紛煩と立傳するも、亦た何ぞ體要を知らん。

巻十七について

張樂于張徐傳、此れ下卷と與に魏の諸將を序す。但だ注記 載する所を以て稍く其の畧を櫽(むね)とし(省略されているため、裴松之注によって補って、ようやく棟木?として体裁が整うのであり)、經意の(常法に則った、注意の払われた)文に非ず。徐晃の樊の圍を解くは、一時の竒功にして、而れども惟れ一令に存す(?)。亦た安ぞ之を謂ふに備詳なるを得たるか。張遼の合肥、許褚の潼関を序するに、差や勝るのみ。

記述のバランス、細かさと粗さを問題とする。


曹彰伝

任城陳蕭王傳
三王、母弟なるを以て、故に別に一卷と為す。後卷、母の貴賤を以て次と為す。其れ猶ほ春秋の教へなるか。

子は母を以て貴し。この指摘じたいの前例があるのか。


曹植伝

陳思王植、是に於て罪を以て修(楊修)を誅す。植 益々自安せず。
注採『典畧』、文の佳麗、吾 之を自得す。後世、誰か相 知定吾が文を者耶。
按ずらく、佳麗を自得すれば、則ち彈を受くる者の益なり。之を後世に傳ふるに、但だ佳麗を以て稱せらる。亦た誰か改定するに因りて佳麗なるを知るや。今人 多く佳麗を誤㑹す。『文選』は「佳惡」に作り、亦た未だ大遠の本意為らず。読を解せざる者は、何に緣りて憒憒(心が乱れる、暗くてハッキリしない)たるや。

注『世語』曰く、修は年二十五にして修遂以交構賜死に至るまで。
『世語』言ふ所は、皆 鄙淺の兒戲なり。信ずるに足らず。

其の年、改封鄄城侯。
注採『魏畧』云云。按ずらく、『魏畧』載する所は、前史(『漢書』)梁孝王の事を規橅とし、而れども其の實を失へるを忘れたり。

而臣敢陳聞于陛下者、誠與國分形同氣、憂患共之者也。
時に于て、人民は稀少なり。東西 並びに饋輸を騖として是れ憂ふ。屢々喪敗するが若し。魏將 復た能く支ふへず。且つ植 自ら料るに、才武は猶ほ眞・休(曹真・曹休)に後れず。故に懇懇と試さんことを求む。誠に秦・越の視を為すに忍びざるなり(?)。

初め植、魚山に登る。
魚山は、即ち吾山なり。

曹沖伝

鄧哀王沖傳、時に孫權 曽て致巨象より即施行焉に至るまで。
孫策 建安五年を以て死し、時に孫權 初めて統事す。建安十五年に至り、権 歩騭を遣はして交州刺史と為す。士燮 兄弟を率ゐて奉承節度す。此の後 或いは能く巨象を致すも、而れども倉舒 已に建安十三年より前に于て死す。此の事の妄飾なるを知るなり。置船刻水、疑筭術中本有此法。『能改齋漫錄』に引く『符子』載する所の「燕昭王、大豕命水官浮舟而量の事」なり。

『能改齋漫錄』は、宋呉曾撰。計算方法については、この本に載っているやりかたであると。後世の本で、共通点に触れただけ。


太祖曰く、此れ我の不幸なるも、而れども汝曹の幸なりと。
倉舒(曹沖)の死は、正に軍 赤壁に敗るるの年に在り。故に尤も憤りて音を擇ばず。

曹操の心情をなぞっている。


中山恭王袞傳、太和二年、就國より習為家人之事に至るまで。
袞の保身之符は、陳思(曹植)に勝るなり。

いじわるな指摘ですね。


王粲伝

王粲傳、時に舊儀 廢弛し、制度を興造す。粲 恒に之を典とす。
此を以て獨り粲が為に傳を立つ。

王粲伝は、制度について載せるために、たいした事績もない人物のために列伝を立てたのだ。


自潁川邯鄲淳。
注採『魏畧』に、初平の時に、三輔より荊州に客すと。
按ずらく、世に傳ふ、魏の正始中に立つる所の一字石經は、乃ち邯鄲淳の書なり。漢の獻帝の初平元年庚子より曹魏の邵陵厲公の正始元年庚申に至るまで、已に五十一年なり。子叔(邯鄲淳)をして弱冠を以て難を荊土に避けしめて、已に應に七十餘(年)なるべし。安ぞ精力を得て猶ほ七經を石に辦書するや。

石経を書くには、邯鄲淳は年を取り過ぎていると。


繁欽、
注採『典畧』に、其の太子に與ふる所の書は、記㗋轉意。率皆巧麗なりと。
按ずらく、記下に脫文有るを疑ふ。當に是れ薛訪車子㗋轉、能は笳と同音事にして、而らば注に其の文を脫するなり。

瑀子籍、
注採『魏氏春秋』に、大將軍の司馬文王、常に之を保持すと。
按ずらく、司馬昭 嗣宗(阮籍)を至慎と謂ふ。李通伝注中に在り。

リンクを貼っただけ。


呉質、
注採『世語』曰く、魏王 嘗て出征しより而誠心不及也に至るまで。
按ずらく、此れ鄙妄なり。信ずるに足らず。

真偽の判定の基準は。


劉劭伝

劉劭傳、詔を受け、五經群書を集めて、以類相從作『皇覧』。
類書は、疑ふらくは『皇覧』を以て祖と為す。按ずらく、楊俊伝注中 所引『魏畧』に、皇覧、凡そ四十餘部、部に數十篇有り、通合八百餘萬字と。乃ち王象一人の撰集といふ。此と互いに異なり。

韋誕、注採『文章敘錄』に、覬の孫の恒(衛恒)は『四體書勢』を撰すより然殊不及文舒也に至るまで。
按ずらく、古人 書を論ずる者は、惟だ巨山(衛恒)のみ獨り其の原を尋ぬ。意を此の藝に留む。當に之を背誦す。此れ書學の經なり。故に右軍(?)の傳、衛氏よりす。

杜摯、注採『文章敘錄』に、儉 答へて曰く、「鳯鳥翔京邑……より卒于秘書に至るまで。
按ずらく、儉 敗滅すと雖も、要に是れ曹氏の死臣なり。詩は志を言ふを以て、固より碌碌たらず(平凡ではない、随従しない)。遷すを得ざる者は、摯(杜摯)の命なり。儉(毌丘倹)の過に非ず。經緯を興すを比すれば、亦た晉より以下 及ぶ所に非ず。

注、臣松之。按ずらく、魏朝 微よりして顯たる者(急速な出世を遂げた者として)は、胡康を聞かず。疑ふらくは是れ孟康なり。孟康は、郭后の外屬なり。始め仕ふるも輕ぜんらる。晚に良二千石と為り、又 冀部の安平の人、時に當たり自ら胡康有らん(むりに孟康に読み変えなくても、本当に胡康がいたかも知れないね)。

辛毗伝

辛毗傳、帝報曰、二虜未滅、而治宮室。直諫者、立名之時也。
千古に諫を拒むものは、根柢は此の一語在り。

いまこそ諫めるものが発言して名を上げるタイミングだぞよと。康熙帝の時代は、あんまりその風潮が高くないかな。だから「千古」と言っている。あるいは婉曲し逃げているか。
情報の多い辛毗伝で、言いたいことがたったこれだけとは。


楊阜伝

楊阜傳、楊昻をして刺史・太守を殺さしむ。
超(馬超)は楊昻にせしむるは、以て張魯の助を堅くせんと欲せばなり。

状況および意図の説明。


阜、常に明帝に見ゆるに、著㡌被縹綾半裦䄂。
「裦」と「䄂」とは古今の字なり。少章(陳景雲) 疑ふらく、下に一字の衍あり。『宋書』五行志を尋ぬるに、果然㡌の上に、『宋書』は「繡」の字有り。

弟子の陳景雲の言葉が入っているのがおもしろい。


高堂隆伝

髙堂隆傳、升平(高堂隆)の學行は、劉子政(劉向)に減ぜず。

これは何焯さんからの無条件の賛辞にみえる。


今興宮室、起凌霄闕、而鵲巢之より斯乃上天之戒也に至るまで。
髙堂、本は師傅の舊恩を以て、素より敬信する所なり。又 明帝 從ふと雖も而れども改めざるも、亦た狠愎し直を惡む者と殊なり(ちがう)。使當日身、太史を領せしむ。災に遇ひて、隠黙たり。豈に(前漢後期の儒者)張禹の續と為さざるや。

張禹の前例を掘ってみないと、ちょっと理解が追いつかない。


今若有人來告、權・備並修徳政より亦不逺矣に至るまで。
詞意は周至なり。是れ儒者の語なり。「備」は當に「禪」に作るべし。

高堂隆に対する評価がたかい。劉備と書いたのは凡ミス。ただし、これによって、「高堂隆の上表が後世の偽作なのだ」とは言われない。どうして。


其科郎吏髙才解經義者三十人より主者具為設課試之法に至るまで。
魏世は、漢を去りて未だ遠からず。猶ほ此の舉有り。

「挙」は、人材登用法の意味かな。それとも政策上の取り組み?


満寵伝

滿寵傳、寵 一として報ずる所無く、考訊は法の如し。
注、臣松之 以為へらく、楊公云云。

臣松之以為楊公積德之門,身為名臣,縱有愆負,猶宜保祐,

按ずらく、世期(裴松之)の此の論は、孫氏の髙文惠(曹魏の高柔)を責むると異なる無きなり。

高柔を攻めた「孫氏」って何だっけ。


郭淮伝

郭淮傳、太和二年、蜀相諸葛亮出祁山より加建威將軍に至るまで。
蜀の後主の建興八年は、魏太和四年に當る。魏延 郭淮を陽谿に破る。延傳(魏延伝)云ふ、延をして西して羌中に入らしめ、魏の後將軍・雍州刺史の郭淮 延と陽谿に戰ひ、延 大いに淮らを破ると。此の傳 之を諱むなり。

列伝が当人の不名誉を忌み諱んで隠すというのは、どこから来てる?ただの書き漏らしではないのか。


王昶伝

王昶傳、是に於て昶を征南大將軍・儀同三司に遷し、進封京陵侯。
此の傳も亦た東闗の敗を諱む。

不名誉な敗戦を当人の列伝から除く、経学的?根拠がほしい。


王基伝

王基傳、夫れ大捷の後、上下輕敵より、懼挫威也に至るまで。
魏は天下を一とする能はず。坐して(曹操が)新たに荊州を得たり。勝に乘じて輒ち進み、烏林の敗有るのみ。基(王基)の此の論は、千古持勝の要なり。未だ能く之を易ふる者有らざるなり。

王基さんの言うとおり!という賛同を、「千古」の真理であると記述する。『義門読書記』で「千古」を検索すると、けっこうたくさんヒットする。「千古」はキーワードの一つではないか。


嘉平以來より以求外利に至るまで。
此れ司馬氏の為に謀る者より深し。

魏晋革命への違和感が、どの上表にひっかけて表明されているのか。


巻二十八について

王・母邱・諸葛・鄧・鍾傳
諸人は惟れ、鍾會のみ逆名を以て加ふ可し。

巻二十八に採録された人のなかで、裏切り者は鍾会だけだぞ。

鄧艾は、功有り罪無くして、三賢乃心王室に至り、事連不就。而して典午(司馬氏)の勢、益々重し。諸人の終はるは、即ち國の終はりなり。故に此に次ぐ。

王淩や鄧艾たちの終わりは、魏国の終わりなのだ。この列伝の構成について、ほかに言っているところはないか。


傅嘏伝

傅嘏傳、晏(何晏)ら遂に嘏と平ならずより為河南尹に至るまで。
嘏(傅嘏)も亦た一時の良なり。然して平ならざるを以て免官せらるるの故なり。此より遂に、司馬氏の腹心と為る。義に于て晻(くら)き所有り。特に功名の士、稍や幅尺に循ふ者なるのみ。

魏晋革命に加担していく。


注採『傅子』曰く、次尹の劉靜、綜其目而太密。
按ずらく、劉馥傳に載する「劉靖 河南尹と為り、初め碎密が如きも、終に百姓に于て之を便とす」といふ。則ち靜、當に「靖」に為るべきなり。

劉静ではなく、劉靖が正しいのだ。


注、然るに持法に恒有りより吏民 久しくして後に之に安んずに至るまで。
曽て內職を更むれば?、則ち舉動は、必ず鋒銳なる悍吏にして、名を急ぎ事に喜ぶ者と同じからず(??)。

惟進軍 大いに佃しより此れ軍の急務なりに至るまで。
此れ(諸葛亮が)渭濵に雜耕して、蠶食を為して利を伺ふの上策なり。先儒 謂ふらく、武侯 三年 死せざれば、以て魏を取る可しと。即ち蘭石(曹魏の傅嘏)の言あるのみ。

先儒(だれ?)によると、諸葛亮は、五丈原の屯田で兵糧調達に成功していたから、あと3年長生きすれば、きっと魏を打ち破っていたはずだと。これと同じ趣旨の発言を、傅嘏伝注引の司馬彪『戦略』で述べている。


嘏議以為、淮海非賊輕行之路より恪自并兵來向淮南耳に至るまで。
若し海道に習せしむれば(習熟させていれば)、則ち亦た當に其の備へ有るべし。此れ又 蘭石(傅嘏)の呉を料りて執ふ可からず。謂へらく、後來、永く其の事無からん。

嘏、常に才性の同異を論ず。鍾会 集ひて之を論ず。
注、臣松之云云。按ずらく、實に愛憎に由るのみ。然して其の論ずる三士は、不惟取友之鍳。亦た時に當に之を以て自省自箴すべきなり。

裴注に、「是為厚薄由于愛憎」とある。愛憎にもちこむのは、裴松之による話題の限定である。


評、傅嘏、用才逹顯としか云ふ。
注、臣松之云云。按ずらく、陳(陳寿の)評、未だ失と為さず。傅(傅嘏)鍊逹たりて、成敗を見るのみ。

桓階伝

桓階傳、趙郡太守に遷る。
水經注に引く『長沙耆舊傳』稱すらく、桓階 趙郡太守と為ると。嘗て嚢粟を路に遺す者有り。行人 嚢粟を樹に掛けて、敢て之を取る莫し。

『長沙耆旧伝』は『史通』でも触れられていたような気がする。道にものが落ちていても拾わないほど、善政が行き渡ったのだ。


陳羣伝

陳羣傳、昔、陳鴻臚(だれ?)、以為死刑有可加于仁恩者より而輕人軀命也に至るまで。
陳鴻臚の論は、『班固』刑法志に原(もと)づく。

泰、景元元年薨。
注採『魏氏春秋』云云。按ずらく、賈充を誅せんことを請ふ。蓋し實錄に非ず。元伯(王雄)說くらく、曹爽 自ら歸する者なり。忠を持して地に入らしめば、咸熙の封は、溫(陳温)に及ばざるなり。

真偽判定が入っている。陳羣の子孫である陳温が、西晋で封建されている。イコール、陳泰が司馬昭を殺すべきとは言わなかったハズだ。


徐宣伝

徐宣傳、帝の船 囘倒す。
囘は、即ち桅なり。古字 通ずるのみ。

盧毓伝

盧毓傳、爽ら收めらる。太傅司馬宣王、使毓行司𨽻校尉、治其獄。
子家(盧毓)の議論 平易なり。確切に一時の良なり。特に以て與何・畢(何晏・畢軌)相左。遂に司馬氏の用ふる所と為り、子幹の卓に抗せし(父の盧植が董卓に抵抗したこと)に愧づる有り。

和洽伝

和洽傳、轉じて太常と為り、清貧にして守約すより賣田宅以自給に至るまで。
陽士(和洽)は嘗て毛・崔(毛玠・崔琰) 節儉の弊を過崇する(倹約しすぎ)を非とす。而れども處身は清約なり。此れ深識もて治體すると為す。而れども、異同の論を立てて以て己私を苟便する者に非ず。

和洽の議論の仕方と、自身の処世についての分析。


杜襲伝

杜襲傳、留督漢中軍事、綏懐開導。百姓自樂、出徙洛・鄴者、八萬餘口。
(杜襲が曹操に提案したことには)先に八萬餘口を徙すと。蓋し此の地の難ありて蜀と爭ふを知ればなり。豫め之を為す所なり。

政策立案者の意図をなぞる。どうせ劉備に拉致されるから、その人口を北方に移したほうが魏国のメリットになることを見通した。


趙儼伝

趙儼傳、注、臣松之。
按ずらく、魏武紀云云。按ずらく、之を陽焚し(袁紹のもとに届いた書翰を、曹操が袁紹に勝ったあとに焼かせた)、而して密かに人をして搜閱せしめ、既に安じて反側す。又 情僞を審らかにす。操 猜多ければ、或いは是有らん。

真偽判定が入っている。あるいは本当かもと。


今、賊圍素固より破賊必矣に至るまで。
敵方 勝に乘ず。若し督促して解圍せば、士衆 豫怯し、輕動して敗れん。即ち後に至る者は、望風して北に奔り、寇を禦ぐ能はず。晃の功を成すは、儼(趙儼)能く兵勢を見るに賴るなり。

今羽已孤迸より將生患于我矣に至るまで。
羽 存せば、則ち兩疲す。羽 亡せば、則ち劉・孫 兵を連ねて解せず。魏の利 皆 甚だ大と為すなり。況んや羽の士衆 尚ほ盛にして、又 歸路無く、若し之を急追せば、人 皆 致死せん。我 新たに勝ちて驕り、又 其の地に自戰す。必ず前勞を喪ひて、萬一に大衂あり、方に他變を生ぜん。昔 黃池の役(『春秋左氏伝』哀公十三年)に、晉 甘たりて呉の先んずる所と為る。正に此を慮るなり。謂へらく、權 虞を改めて、患を我に生ぜん。乃ち儼の詞を巧とするなり。

裴潜伝

裴潛傳、太祖 摩陂に次して、其の軍陳 齊整たるに嘆ず。
摩陂之役は、蓋し數州の衆を集めて、以て二城の圍を解くなり。亦た勍(つよ)きものかな。

複数の州から兵をかき集めたから、整然と陣を作るのが難しい。だから曹操は、裴潜の腕前に感歎したのだ。という説明になっている。


崔林伝

崔林傳、涿郡太守の王雄 林の別駕に謂ひて曰くより以此為寄に至るまで。
注採『魏名臣奏』に、天下の士、皆をして先に散騎を歴しめんと欲す(まず散騎常侍に人材をプールする)。然る後 出でて州郡に據る。是れ吾が本意なり」と。按ずらく、州郡に更めざる者は、內を處らしむ可からず、近職を歴ざる者は、外に處らしむ可からず。此れ深旨有るかな。

提案内容に対するコメント。


孫礼伝

孫禮傳、當に烈祖を以て、初めて平原に封ぜし時、圖りて之を决す。何ぞ必し古を推し故を問ひて、以て詞訟を益すや。
縱ひ得ざるとも、眞獄?折る可し矣。此れ解結の術なり。

評に、柔は保官すること二十年、元老 位に終る。之を徐邈・常林に比するや、兹に于て疚と為す。
高柔 廷尉為ること二十三年なり。此れ人 任を久しくするの方を得ればなり。未だ末路に因りて、退き難く、并せて譏を致す可からず。

王淩伝

王凌傳、宣王 中軍を將ゐて乘水道、討凌。
此の中軍は、猶ほ禁軍と言ふがごとし。外軍を徵調するに及ばず、故に中軍を以て進むなり。

「中軍」という言葉の説明をしているだけかと思いきや、外軍を招集している時間がなかったから、という状況説明も入っている。簡潔に収められている歴史叙述から、こぼれ落ちたことを補っているように見える。


廣は、志尚學行有り。
注採『魏氏春秋』云云。按ずらく、此の言も亦た、後人の増飾する所なり。若し曹爽 執權せし時、濟(蒋済)は緣無くして此れ(王淩と王広をポジティブに評価したコメント)有らば、既に七族 同に夷せらるるや、濟(蒋済)は以て其の信を失ふを恨み、發病して死せん(現実はそうなっていない)。

「増飾」がおもしろいので、細かくロジックを追ってみた。


毌丘倹伝

母邱儉傳、漢書髙紀下注に云ふ、曼邱・母邱は、本は一姓なり、語 緩急有るのみと。故に知る、此の字を「母」に作るは、傳冩の誤なりと。『史通』中に、音は貫とあり、是れなり。

『義門読書記』巻十七に、「韓王信傳 楚漢春秋韓王本名信都見史通按信都之信與申同然則當讀為平聲與淮隂侯名異也小顔功臣表留侯下亦引之」とある。
『義門読書記』巻十八に、「史通云馬卿為自敘傳」とある。


儉・欽 自ら五六萬の衆を將ゐて淮を渡り、西して項に至る。儉(毌丘倹)は堅守し、欽(文欽)は外に在りて游兵と為る。
項に至りて、即ちに堅守す。將に何を為せんとするやを知らず。必死の心無く、勤王の義を失ふ。衆の銳なるは一に沮せられ、即ち死を敵國に逃ぐ。亦た惡にか其の丈夫為るに在るや。

毌丘倹の戦い方を批判している。その根底には、魏晋革命を批判する心がありそうだが。


注採、儉・欽らの表に、「賊舉國悉衆、號五十萬より莫過於此」に至るまで。
諸葛恪 新城に挫すると雖も、此の表を以て之を觀るに、亦た一時の強對なり。

諸葛恪は新城攻略に失敗する(そして殺される)けれども、この上表を見る限りは、魏にとって強敵であったなんだなあと分かる。


欽 亡して呉に入る。
注採、欽 呉に降るの表に、二主を廢害すといふ。按ずらく、此の表は後人の僞作なり。髙貴鄉公(曹髦)の弑は、昭(司馬昭)の事なり。何ぞ得て預め二主と言ふや。

後出師の表を含め、上表が偽作される(あるいは偽作が疑われる)のは、裴注に頻繁に起こることだ。文中の人物の生死、できごとの先後によって判定することができる。偽作するなら、整合性を取って偽作してくれないと。あるいは、偽作されていることが前提という眼差しが注がれているとも言える。


諸葛誕伝

諸葛誕傳、人 屬托する所有りて……より、以て褒貶と為すに至るまで。

官僚になり出世するときの口利きについて。

此れ屬托を絶つの一法なり。然れども未だ若し之を先に受けざるを尤も善しと為すなり。人を失はしめ、而して後に之を議さば、負敗 已に多し。
公休(諸葛誕)の法は、屬托を變じて保任と為さんと欲す。之を要むること此の若し。仍ち中正と殊ならず。

諸葛誕のやりかたを、何焯はほめてます。魏晋革命に抵抗したのが諸葛誕だから、評価が高いんですね。


徵せられて司空と為り、誕 詔書を被くるや、愈々恐れて遂に反す。
注採『魏末傳』云云。按ずらく、昭(司馬昭)は初めて兄(司馬師)に代はりて秉政し、未だ恩威 人に及ぶ有らず。安ぞ得て言を禪代に即くや(どうして禅譲のことを言い出すようなタイミングだろうか)。誕の志を哀しみ、甚だ充(賈充)の惡なる者 之を為すなり。

斂淮南及淮北郡縣屯田口十餘萬官兵より遣長史呉綱將小子靚至呉請救に至るまで。
儉・欽(毌丘倹・文欽仲若)、猶ほ出でて項に至る。誕(諸葛誕)閉城し自守し、專ら呉の救ひを倚る。彌々下と為らん。

孫呉を頼ってばかりの諸葛誕の戦い方は、あんまり良くない。


注採『世語』曰く、黃初末、呉人 長沙王呉芮の冡を發して、其の塼を以て臨湘に于て孫堅の為に廟を立つと。
廟を立つるに、何の事ありて死者の磚を發するや。『世語』の鄙淺、信ずるに足らざること此の如し。

孫堅の廟を立てるために、呉芮の墓をあばいて材料を奪うことは、ありえるはずがないから、史書『世語』のほうがウソとなる。この真偽判定のロジックは、とても使えそう。おもしろい。


三年二月、破滅す。
注採の干寳『晉記』云云。按ずらく、外圍 既に合し、士衆 猥多なり。資糧 方に竭きんとす。誕 人謀を盡さざれば、則ち天 之を棄てん。誕 能く虛譽を合し、死士を養ふも、實に中情は恇怯にして、遠畧無き者なり。

諸葛誕のもっている声望は、中身のないものだったとする。なんでそれが言えるのか?これは、諸葛誕に対する期待(司馬昭を倒して、魏晋革命を防いでくれればよかったのに)に対する、期待の裏返しなのではないか。

假使し淮南の衆を舉げて、直ちに洛陽に趨き、命を投じて勤王せば、司馬昭の徵調(招集と徴収)未だ集はざれば、勝負 誠に未だ知る可からざるのみ。

唐咨(の伝記)、誕・欽 屠戮せられ、咨も亦た生禽せらる。三叛は、皆 天下の快を獲たり。
唐咨 本は巨猾に非ず。其の面縛して生致するに因りて、并せて之を張し、以て功と為すのみ。

唐咨は、それほどの評判と史書での扱いを受けるほどの人物ではないのだ。


鄧艾伝

鄧艾傳、宣王(司馬懿)の善の事、皆 施行す。
「事 皆 施行す」は、『御覧』は「皆如艾計」に作る。下に有り、遂に北のかた淮水に臨み、鍾離より南橫石以西盡沘水(沘旁脂切)四百餘里五里置一營營六十人且田且守兼修淮陽百咫二渠上引河流下通淮潁大理諸陂於潁南潁北穿渠三百餘里溉田二萬頃。淮南・淮北 皆 相 連接し、壽春より京師に到り、農官・兵屯 雞犬の聲、阡陌に相 屬すと。凡そ九十四字なり。

『太平御覧』には、鄧艾が作り出した水利や農耕・屯田の状況について、94字の詳しい説明がある。『冊府元亀』にも、この文が残っている。陳寿が書いたけれども、その陳寿『三国志』が、後代に省かれた可能性を指摘する。これは斬新。

下に接每東南有事云云。按ずらく、『冊府』此を引きて、亦た曰ふ。鄧艾傳に、則ち悉く是れ承祚 本より書す。後來に當に刋正する所なるべし。

匈奴 一たび盛なる每に、前代の重患と為り……より、此御邊長計也に至るまで。
江統・郭欽の前に、輒ち已に此の先覺逺猷有り。

江統・郭欽ともに、西晋の徙戎論のひと。『晋書』巻九十七に、「侍御史西河郭欽上疏曰:「戎狄強獷,歷古為患。魏初人寡」とある。


恪、新たに國政を秉りて……より此恪獲罪之日也に至るまで。
艾の(諸葛)恪を料するを觀れば、則ち王基の司馬昭に忠たるを知る。所謂 上下を撫恤して、以て根基を立つる者なり。至言にして要略なり。曹爽 固より豚犢たり。必敗に終はる。然らば、(曹爽が)駱谷の役を興さざれば、則ち民の怨み、未だ起きず。

蜀の衞將軍の諸葛瞻 涪より綿竹に還るより、大破之に至るまで。
艾の軍 死地に入りて、理として反顧する無し(引き返し振り返ることができるような状況ではなかった)。而して(諸葛)瞻 城に憑りて持重するを知らざるは、何ぞや。

諸葛瞻は籠城していれば、蜀漢を守り抜けたのにな、という蜀漢に対するシンパシーが働いている。


以為可封禪、為扶風王より以顯歸命之寵に至るまで。
并せて爵に封ずるは、皆 専ら自ら儗(なぞら)へて定む。宜しからずや。䜛言の入るを得たり。

昔、太尉の王凌 齊王を廢せんと謀りより、令祭祀不絶に至るまで。
王彥雲(王淩)は、其の厲為るを畏る。鄧士載(鄧艾)は、其の被寃を憐む。此れ襲鄭人(?)良を立て止むるの智なり。

艾 西に在りし時、障塞を修治すより、皆保艾所築塢焉に至るまで。
史家艾に于て餘惜有り。

書き留めた史家が、鄧艾の最期をあわれんで、鄧艾に未練をもって、功績を書き残しているのだ。


鍾会伝

鍾㑹傳、鄧艾 姜維を追ひて隂平に到り……より、會與緒軍向劔閣に至るまで。
此の如くんば、則ち会(鍾会)も亦た其の功有るに預(あづか)る。但だ瞻(諸葛瞻)らをして敗れしめざれば、艾 危地を行き、必ず飢疲に致らん。

諸葛瞻さえ籠城をつらぬいて突破されなければ、鄧艾は危地のなかで孤立しただろうに。蜀漢に対するシンパシーが強すぎる。

維(姜維)劔閣を拒み、㑹(鍾会)能く前む莫く、無功に迄はるのみ。

若蜀以破遺民震恐より、祗自族滅耳に至るまで。
將士 歸らんと思ひ、同に反するに肯ぜず。此れ即ち、其の婦翁 淮南の事に策して、例に比して之を得たり。人は但だ智識有りて、稍く事を更む。便ち當つる?可からざるなり。

蜀漢を平定した軍隊は、その一つか二つ上の世代が、淮南三叛に従軍していた。かれらが、鍾会の謀反に付き合わなかったのは、淮南三叛の先例に学んだからであるのだ。という、登場人物の気持ちを推定しているのは、どの立場?


評に曰く、王凌の風節は格尚より豈不謬惑耶に至るまで。
史家 頗る輕重を審らかにす。鍾会 蜀に在りて、亦た太后の遺詔を矯む。之を断じて叛と曰ふを得ざるなり。

そう簡単に、鍾会の行動を謀反と断定することはむずかしいよね。史家の目線にたつと、これは、魏晋革命を妨害した鍾会の行動が、果たして謀反だったのか?という問題に突入する。


方技伝

方技傳、華陀 又 一郡守 病ひ有りより吐黒血數升而愈に至るまで。
郡守の事 『呂氏春秋』文摯齊王語に依托して之を為るが似し。

『呂氏春秋』との共通点、創作の元ネタを指摘。


然、君の壽も亦た十年を過ぎずより不足故自刳裂に至るまで。
此れ最も理に近し。孟徳 果たして佗を殺す所以なり。

外科手術への抵抗感がすごく強いのだ。

陳元龍(陳登)三期して當に發すべきも、竟に此の根原を除くを為さず。亦た所謂 吾が病を養ひて以て自重する者なるのみ。然れども常人 多く之の疾を療す可し。良醫に遇はざれば、則ち夭枉に罹る。此れ佗 為す所 惜む可し。仁恕の人、必ず此の小忿(目先の外科手術への抵抗感)を忍びて、萬民が為に之を全ふするなり。

華佗の外科手術を受け、郡の太守が民のために働くことをよしとしている。曹操が華佗を殺したことも、曹操の了見が狭いせいだとしている。


注採『佗別傳』又、婦人 常病經年なる有りより汗燥便愈に至るまで。
『南史』中一事有りて、又 此を依托す。

『華佗別伝』から『南史』に逸話が受け継がれた事例。


注採の文帝『典論」より、寺人の嚴峻、往從問受、閹豎眞無事於斯術也に至るまで。
寺人 房術を受く。殆ど魏公(曹操) 人の窺ふ所と為る恐る。轉じて嚴峻より之を學ばんと欲す。子桓(曹丕)乃ち未だ喻さざるのみ。

房中術について。魏公(曹操)の対応と、出典『典論』について内容を確認。これも作中人物の心を推定しているもの。


杜䕫。
杜公良(杜䕫)は、當に王仲宣(王粲)と與に傳を同にすべし。方技と與に伍せしむ可からず。

管輅、字公明。
注採『輅別傳』に、嘗て謂ふらく、忠孝信義、人の根本、不可不厚、亷介細直、士の浮飾なり。務めと為すに足らざるなり。
按ずらく、語 小しく偏然たるが似し。長者は、當に是の如くあるべきなり。

ただの感想ですね。人間としてのあり方への意見だ。


直、宋無忌の妖。
(前漢元帝期の宦官であった史游の作とされる)『急就篇』の注に、古に仙人の宋無忌有り。此れ妖と云ふも、未だ詳らかならず。又『封禪書』注引『白澤圖』に見えて云はく、火の精を宋無忌と曰ふと。蓋し其の人 火仙なり。以て竈に入る。故に以て火の妖と為す。

宋無忌というひと?妖怪?神が、ほかの書物に見える事例について。


直老鈴下耳。
『御覧』は此の語を引きて、下に更に公府閤に繩鈴有り。以て傳呼鈴下の吏なる者有るなり。當に亦た是れ裴注なるべし。

「鈴下」という官名と。陳寿と裴松之の区切れ目の指摘。


輅 安徳令劉長仁家に至る。
注採『輅別傳』に、長仁の言あり。君の辭は茂なると雖も、華にして實あらず。未だ敢て之れ信ぜずと。按ずらく、『別傳』は實に皆 然り。但だ陳氏 引用する所の者は、此に外れず。其の迂蔓なるを削去するのみ。

裴松之注が復元した『管輅別伝』の内容はとてもいいけれど、陳寿はその内容をカバーしつつ簡略にまとめたよねと。


卒年四十八。
注、『輅別傳』に不少と書くなり。然して世に名人鮮(すくな)し。皆 才無きに由りて、書無きに由らざるなり。按ずらく、才は思ふに由り、思はざれば則ち才無し。

「才」についての洞察?出典はどこだろう。才というのは、思考によって鍛えられるものだ。書物がないから、才をみがくことができない、ということがない。自分の頭で考えろ。


烏丸鮮卑伝

烏丸鮮卑東夷傳、後に鮮卑の大人たる軻比能より不能復相扇動矣に至るまで。
冐頓より一時に屈強たり。其の後 檀石槐・蹋頓・軻比能の興るが如きは、皆 僅かに北邊に雄長たり。中國に釁無く、人才 向用なれば、彼 固より加ふる有る能はざるなり。劉淵 以て還り、皆 中國 先に自ら敗れて後に之に乘ずるのみ。

檀石槐・蹋頓・軻比能ていどでは、冒頓ほどすごくないので、中国のほうに隙がないと入り込むことができない。劉淵(前趙)が中原を支配できたのは、西晋が混乱していたからだ。

謀國の士、一部 新たに盛なるを聞かば、即ち智勇 豫怯。是れ又 兒童の見と異なる無し。

とくに深い分析ではない。

巻二十七 三国志 蜀志

劉焉・劉璋伝

劉二牧傳
二牧、董・袁の群雄の例に從はずして、而して蜀志の首に列す。昭烈を割據に夷するに非ざるなり。王者の興こるや、先に驅除有り。評に云ふ、慶鍾二主と。即ち漢家の故事を以て、統緒の歸する所、天祚の眞主を明らかにするなり。即ち二牧は猶ほ不得以闇干耳。其の文は、則ち霸國の書が若し。其の義は、天子の事に非ざるは莫し。遺臣・故主の思 淵たり。
呉事を序して、則ち禮を正すなり。討逆を先にせず、漢統に系ぐは、則ち二牧 乃ち興王に冠たるなり。其の例を變じ、其の詞を遜す。待後之人、自ら其の旨を參錯し迷謬するの中に遇ふ所以なり。故に當時 測る所に非ざるなり。

『三国志』の目次の立て方について。


劉焉、扶亦求為蜀郡西部屬國都尉。
注の陳壽『益部耆舊傳』に、董扶 秋毫の善を褒め、纎芥の惡を貶むと。趙岐『孟子注』を按ずるに、云ふらく、孔子は毫毛の善を舉げ、纎芥の惡を貶むと。故に皆 之を春秋に錄すと。二語 必ず經師 語を成すなり。

『春秋』に由来する表現だから、陳寿はこれを、『孟子』趙岐注か、もしくは『春秋』から直接ひろってきて、董扶のひととなりを描写したのだ。


焉 治を緜竹に徙す。
東漢の益州は雒縣を治とす。焉 郤儉 殺さるを以て、故に治を緜竹に徙す。緜竹は、西漢都尉の所治なり。

治所を移した経緯と、その場所について。


張魯の母 始以鬼道又有少容常往來焉家。
所謂 少容は、蓋し能く久しく視るの意なり。後漢書は、「姿色有り」に作る。蓋し范(范曄)は、之を醜しとせんと欲し、其の詞を甚しくす。

語釈と、『三国志』と『後漢書』の描写の違い。


先主伝

先主傳、先主姓劉諱備より因家焉に至るまで。
『漢書』王子侯表に、陸城侯貞あり。元朔二年六月甲午、封ぜらる。十五年、元鼎五年、酎金に坐して免ぜらる。蓋し始封の明年を以て元年と為すなり。此れ元狩六年を云ひ、少なきこと十年なり。恐らくは誤れり。
『續漢書』百官志 宗正卿下注に云ふらく、郡國は歳ごとに因りて宗室の『名籍』に計上す。補注の胡廣に曰く、又 歳ごとに一たび諸王の『世譜』を治むと。差序次第。故に西京(前漢)の枝屬にして、其の後に衰ふる者は、猶ほ皆 考ふ可し。

劉備の血筋について、考証の余地があるとしている。タイムリーに名簿が更新されているから、誤りを正す材料があるかもと。


承等皆伏誅至先主乃殺徐州刺史車胄
魏志に、建安四年、偹 車胄を殺し、五年、承ら謀洩し乃ち死すと。『袁紀』備 下邳に據るも亦た承の死の前に在り。蜀志 誤りなり。

劉備の曹操暗殺の先後関係について、袁宏『後漢紀』と比較。


十二年、曹公南征、表㑹表卒。
曹公の南征は、建安十三年に在り。此の上に、疑有脫文。

「十三年」を補うべき。


權遣周瑜程普等水軍數萬與先主并力。
注に『江表傳』を採りて云云と。按ずらく、『江表傳』は、赤壁の功を専らにせんと欲し、而れども樊口に即きて一地と為すを掩ふ能はざるなり。

赤壁の功績の奪いあいについて。裴松之も取り組んだ問題。


二十四年、一百二十人上言曰、昔 唐堯 至聖にして……より雖死無恨に至るまで。
後注に据るに、乃ち廣漢の李朝の作なり。此の文は、西京に在りて、亦た多くは得ず。疑ふらくは諸葛公の潤色なるや。

先主上言漢帝曰臣以具臣之才至以報萬分。
前の一篇は、是れ西京なり。此の一篇は、西京の氣味(前漢っぽさ)ありて東京の節奏(後漢っぽさ)あり。

文が偽作、もしくはオーパーツ、パクリ、別人の作であることを、文の雰囲気から探っている。


於是還治成都。
還りて成都に治す。當時に未だ必ずしも懐安せず。但だ髙祖の氣燄と差異あり。或いは其の地(漢中)を得るを以て、其の民を得ず。故に久しく駐まらざるか。

これは状況分析という理解でいいのか。


章武元年立宗廟祫祭髙皇帝以下
注に、臣松之 云云と。按ずらく、臣子の一例なり。昭烈 當日に蓋し孝愍を以て禰と為す。而れども本生に於て、則ち光武の南頓君の例に仍る。此れ意を以て推して知る可きなり。

劉備が、献帝(孝愍)をどのように厚かったか。に対する何焯なりの解釈。劉欽 (南頓縣令)は、光武帝劉秀の父。


三年夏四月癸巳、先主殂於永安宮。
注引『諸葛亮集』に載する先主遺詔に、「勿以惡小而為之、勿以善小而不為」といふ。按ずらく、『易』之「繫辭」曰く、「善不積、不足以成名。惡不積、不足以滅身。小人、以小善無益而弗為也、以小惡為無傷而勿去也、故惡積而不可掩罪大而不可解」と。昭烈 此を以て誡と為す。則ち不甚だしくは讀書を樂しまざるは、特に少年のときの事なり。其の後 則ち書の要を知れり。

劉備が『易経』繋辞伝から文を引いていることを指摘。

射君は、即ち射援なり。上表中の列名に見ゆ。

後主伝

後主傳、建興五年春丞相亮出屯漢中、營沔北陽平石馬。
注『諸葛亮集』に載すらく、禪は三月に詔を下す云云と。按ずらく、此の詔、猶ほ過繁有るがごとし。二百餘字を去り、則ち愈々嚴重なり。

『諸葛亮集』には、もっと字数がある。


延熙九年冬十一月、大司馬の蔣琬 卒す。
董允も亦た、是の年に卒す。蜀の內外の政 始めて壊はる。

十五年、呉王孫權 薨ず。
呉主と書かず、呉王と書くや。恐らく字 誤りなり。

景耀元年、宦人の黃皓 始めて專政す。
皓の專政 五年にして國 亡ぶ。

六年、紹・良 艾と相 雒縣に遇す。
注に採る王隱『蜀記』に、禪 又 尚書郎の李虎を遣はして「士民簿」を送る云云と。按ずらく、蜀の窮匱 此に至る。固に以て支ふること久しくあり難し。

もう滅びるしかない、という史実を集めている。


評に、禮は國君の繼體なりより體理為違に至るまで。
二冦に介せらる。加之、南中 煽動す。必ず踰年の禮を執りて、人心を係屬し、方夏を鎭撫する所以に非ず。

ちょっと意味が分からないので要確認。踰年の礼は、どんな関わりがあろうのか。


又 國は史を置かずより猶有未周焉に至るまで。
呉蜀の主 均しく傳と曰ふと雖も、然れども皆 編年紀事するなり。史家の例に于て、實に亦た紀なり。紀なれば則ち、災異 當に詳書すべし。而れども舊史 其の承傳を闕く。是を以て、作る者 此を用ふ。自ら明らかに此を持せんと欲し、以て葛相を詆毀するに非ず。

三国志の叙述形式、叙述意図にかかわる指摘。


注に、『華陽國志』は先帝、亦た吾に周旋陳元方・鄭康成の間を言ふ。
陳元方・鄭康成は、皆 地を徐州に避く。而して先主 建安元年を以て徐州牧を領す。其の啟告するに治亂の道を以てするは、此の時に在るなり。

皇后伝

先主の穆皇后傳、先主既定益州、而孫夫人還呉。
注に採る『漢晉春秋』云云。按ずらく、此れ妄りに先主 益州を定むる時と言ふ。諸葛公 張・趙らと與に流を泝りて、蜀に至る。孫夫人 呉に還るは、當に建安二十年、荊州を爭ふの時に在るべし。

諸葛亮伝

諸葛亮傳、好為梁父吟。
蔡中郎『琴頌』に云ふ、梁父悲吟・周公越裳なり。武鄉の志は、其れ此より取ること有るや。今 傳ふる所の詞は、蓋し其の作に非ず。

先主、自葭萌還、攻璋より成都平に至るまで。
兵勢 已に合す。豈に中息するを得るや。若し公を議して、當に泝流し合規すべからずといふ者あれば、眞に迂儒・俗士なり。智能の士は、明君を得んと思す。張松・法正の情が如きは、固に夙昔に畫る所なり。亦た未だ逆拒して往まらざる者有るのみ。

先主外出、亮嘗鎭守成都、足食足兵。
先主の時に當たる。但だ寄るに蕭何の任を以てす。

若嗣子可輔、輔之。如其不才、君可自取。
注に採る孫盛云云、按ずらく、此れ堯舜の心なり。詭僞と同じきに非ず。

劉備が「君 自ら取る可し」と諸葛亮に言ったことを、「詭僞」と見なす先行する史家に反論している。これは尭舜の道、つまり禅譲の心なのだと。


亮を武鄉侯に封ず。
『十道記』に、武鄉谷は南鄭縣に在り。孔明 受封の地なり。

然侍衛之臣不懈於內より可計日而待也に至るまで。
以て內に群司を任ずるに懈せず、以て身を外に自効とするを忘る。身を修め家を正すを以て、諫を納れ人を任じ、其の主を責難す。蓋し此れ又 興復の本なり。其れ眞の王佐の才なり。伊訓・說命と相 表裡となる者なるか。

諸葛亮の臣下としてのあり方を論じている。


將軍の向寵より優劣得所に至るまで。
外に于て馳驅し、以て貪せしめ詐らしむ可ければ、故に魏延もて任ず可し。若し宿衛の選、必ず信行を以て本と為すならば、向寵もて(郭)攸之らの前に居る。寵 中部を督し、宿衛兵を掌ぶ。蜀は小さく、或いは虎賁・羽林の職を兼攝せん。亦た其の君に近き者なるや、故に先に之を言ふ。

出師の表のなかの序列と、任務の範囲について。


是に於て亮を以て為右將軍。
注の『漢晉春秋』に、孫策をして大に坐し、遂に江東を并せしむと。按ずらく、下に脫文有らん。當に是れ孫權を指斥するの語なり。呉臣 諱みて之を削るか。

注、此の表は『亮集』無き所なり、張儼『黙記』に出づと。
按ずらく、趙雲 建興七年を以て卒す。散関の役は、乃ち六年に在り。後人 或いは此に据りて、此の表 僞為(た)らんと疑ふは、非なり。元遜傳(陸遜伝)を以て之を觀るに、自明なり。此の表を第するに、乃ち時勢を劇論することの盡なり。若し漢中を發する時に陳ぶる所に非ざれば、得て以て士衆を激厲し、外に宣洩するを妨げず。之を蜀に失ひて之を呉に傳ふなり。或いは伯松 冩きて箱篋に留めしならん。元遜 之を身後に鈎致するのみ。『集』載せざるは、武侯の慎を益明すればなり。陳氏の疏に由るに非らず。若し趙雲傳の「七年」の字、當に六年に為るべければ、雲 本より信臣の宿將なり。箕谷に利を失ふは、適だ兵弱に由るなり。既に雜號將軍に貶ぜられて、以て法を明らかにす。散関之役は、其れ尚ほ在らしむべし。必ず別に萬衆を統べん。復た負ふ所あらしむるも、而れども再び出づるを聞かず。其れ必ず是の冬の前に歿す。

後出師の表の真偽の問題について、呉から迂回させる珍説。


十二年春、亮悉大衆由斜谷出。
注引『魏氏春秋』云云。按ずらく、罰二十より以上は、豈に參佐 以て之を平らぐ可きこと無きや。孔明 夙夜に蹇蹇すと雖も、不若是之、政體に諳せ(つくす、熟達する)ぜざるなり。

細かい刑罰、鞭打ちは、こまかくやりすぎ。


亮遺命葬漢中定軍山。
漢中に葬るは、後人をして魏に事とするを嗣がしめんと欲すればなり。

前線基地に葬ることで、魏への攻撃を継続する。


蓋し天命有歸不可以智力爭也。
上に「人傑」と云ふ。其の子孫の朝に在るが故なるのみ。之を天命に歸すれば、則ち仍りて之を夷するなり。

「夷する」の意味がとりにくい。


孟軻有云。逸道使民より信矣に至るまで。
上に云ふ、不戢(おさめず)と。蓋し敵國の詞に對ひて、此れ又 其の眞の王者の師なるを申明するなり。

喬年二十五、建興元年卒。
公 北のかた漢中に駐まるは、建興五年に在り。「元」の字は、誤りなり。思遠の生まるるは、即ち建興五年に在るなり。詳しくは、「元」の字は、當に「六」に作るべし。伯松も亦た轉運の勤を以て、王事に死せり。

諸葛亮の子、おい、養子の生没年について。


関羽伝

関羽傳、先主斜趣漢津適與羽船相値共至夏口。
注採『蜀記』云云。按ずらく、『蜀記』の語、多く淺妄なり。恐らくは信ずるに足らず。

裴松之のように、本ごと否定する。


馬超伝

馬超傳、聞先主圍劉璋于成都宻書請降。
賴りて歸する所を得る。名を賊為るに終えず。

馬超は劉備に帰順したおかげで、賊として一生を終えずにすんだ。


趙雲伝

趙雲傳、瓚遣先主為田楷拒袁紹雲遂隨從、為先主主騎。
注『雲別伝』云云。按ずらく、本傳に、先主 平原相と為るに、時に雲 已に隨從して騎を主る。『別伝』謂ふらく、袁紹に就けりと。雲は鄴に見ゆるは、則ち建安五年より後に在り。此れ違反して信ず可からざるなり。

劉備と趙雲が出会ったタイミングについて、趙雲伝と『趙雲別伝』で違うという。これは、おもろそう。


成都既定以雲為翊軍將軍
注『雲別伝』云云。按ずらく、雲は駁議して甚だ忠正なり。然れども經國の務は、諸葛公 在る有り。必ず其の當を得たり。未だ應に反りて武臣の駁議を待つべからず。殆ど家傳の美を掠むるのみ。

『趙雲別伝』で、趙雲が劉備の夷陵遠征を反対したのは、創作だと切り捨てている。この批判のやり口は、どこから来ているのか。

其のの呉を伐つを諫むるは、則ち又 諸葛公の所不能得之其主なれば、孝直(法正)を追思す。恐らくは散號の列將 及ぶ所に非ざるなり。『別伝』は、大抵は諸葛子瑜の書及び孫權 尊號を稱するに諸葛公 其の僭の義を明絶せざるに依仿して、之を為る。

これはおもろい!


軍退貶為鎭軍將軍
注『雲別傳』云云。按ずらく、諸葛の賞罰の肅なれば、雲 猶ほ號を貶む。其の下 安ぞ濫賜するを得ん。又 以て其の然かざるを明らかにするに足らん。『別傳』の類 皆 子孫の溢美の言なり。故に承祚(陳寿)取らず。

龐統伝

龎統傳、性好人倫勤於長養至使有志者自勵不亦可乎。
士元、此の論は、東漢の風流 已にあるのみ。世に教を興さんと欲す。實に務むること可ならざるに非ず。其の意を參取すれば、則ち資を以て奬勸するに足る。孔子曰く(どこまで?)、如有所譽者、其有所試矣。有所試而誘之。使竟其志、勿徒以浮聲競煽。斯得者多と。

龐統がやろうとしたこと、龐統の努めたことに対する感想。


親待は諸葛亮に亞ぎ、遂に亮と並びて軍師中郎將と為る。
注『九州春秋』云云。按ずらく、皇極 幽昧にして、漢祚 將墜を以て、其の輕重を較ぶれば、則ち璋を取ること非と為さず。

劉璋から益州を奪えといった龐統の意見は、状況からしたら悪くない。これは、朱子らの言説を踏まえているのかな?


法正伝

法正傳、璋既稽服先主、以此薄靖不用也。
(許)靖を薄くして、而れども李嚴を薄くせず。是れ先主の所見 其の虛名 實用無きを以て、大節を為さざると。

劉備が許靖を尊重したことについて。


亮 又 知先主雅愛信正故言如此。
注採の孫盛、云云。按ずらく、艱難の初に、權もて以て事を濟ふ。未だ宜しく常道を以て論ぜざるなり。先主、初めて益州を定むるは、晉君の祖宗 世守の國勢と殊なり。且つ諸葛公 方に審配 許攸を容れざるを以て鍳と為すなり。

今策淵・郃(夏侯淵・張郃)の才畧至時不可失也。
孝直(法正)の智術 公瑾(周瑜)に下らず。且つ猶ほ王室を尊奬するを知るる。碌碌なる程・郭(程昱・郭嘉)に非ず。惟だ孟徳に附して攀せんと思ふ者なり。

何焯は、王室(劉備)を尊重してますよね。


許靖伝

許靖傳、進退天下之士、沙汰穢濁、顯㧞幽滯。
此れ靖 名 一時に盛なる所以なり。

靖、收恤親里至莫不嘆息。
文休(許靖)は子魚・景興(華歆・王朗)と與に人物 相 等し。太平に處せしむれば、猶ほ公望を失はざるなり。

何焯さんなりの人物評論か。だれかの借り物か。


正禮(劉繇)の師 退く。術の兵 前進す。
術の兵は、即ち孫策なり。

復た相 扶して持前到此郡至豈可具陳哉。
注の臣松之、云云。按ずらく、袁術 僭盗し、策は其の部曲と為る。文休(許靖)は地を避く。未だ厚く非とす可からず(強烈な批判にまでは至っていない)。文休 覊客と曰ふと雖も、然れども名は八區に滿つ。誠に袁氏の僞命の汚す所と為るを畏る。

許靖は、袁術に巻き込まれて名声が傷つくことを嫌った。

當時、誰か能く預め伯符 術を絶ちて、厥の後 兄弟 相 繼いで呉を開きて、鼎立するを計るや。

許靖の身の振り方で、孫策・孫権のなかに留まるほうが良かったことなど、予測ができない。

季玉(劉璋)に即くは、君臣の分有るに非ず。宗傑(劉備)を慕仰し、希ひて歸命せんと欲す。亦た難に臨みて利に邀ふと科を殊にするなり。論者、其の本末を原すは、可なり。

孫策・孫権に仕えるという未来は見えないが、劉璋を見限って劉備に移った許靖のことを、何焯は高く評価している。


建安十六年、轉じて蜀郡に在り。
注採『山陽公載記』云云。按ずらく、斯の時 稍く操の將に簒せんとするを覺悟す。復た歸死國家故意に非ず。故に應に劉子初(劉巴)より優れたるべきなり。

靖 雖年逾七十より、丞相の諸葛亮 皆 之が為に拜すに至るまで。
文休(許靖)一生に漢末の名士の風格を逾えず。之を求めて、以て幾を知る。之を望みて以て世を匡す。誠に暇あらず。若し諸葛公 敬ふ所を以て、而れども輕して相 毀詆せば、亦た安國(だれ?)が輩の自ら量らざるなり。

簡雍伝

簡雍傳、性簡傲跌宕より自縱適に至るまで。
視て舊を恃み、虔せずして誅せらるる者は、度量 相 越ゆるなり。是を以て當に困厄して士 之に歸する者 多きなり。

簡雍が誅殺をまぬがれたのは、度量があったから。


秦宓伝

秦宓傳、(董)仲舒の徒、封禪に逹せず。相如 其の禮を制む。
相如 封禪書を為ると雖も、殁するに臨みて乃ち成る。未だ諸儒に與へず。共に其の禮を定めて、蜀士 多く誇る。往往にして實を過ぐ。

司馬相如への評価は課題であると。


參伐、則益州分野。
『漢書』地理志に、蜀は秦の分に系す。輿鬼・東井を統す。參伐は、乃ち魏の地星なり。此れ云ふ、參伐は則ち益州の分野なりと。未だ詳らかならず。

分野説の照応関係が間違っているではないか。


評、然專對有餘文藻壯羙可謂一時之才士矣。
承祚(陳寿)此の書、大趣は簡質なり。而れども、獨り秦子勅(秦宓)の文藻を推す。諸傳と異なれり。斯れ則ち、文に定體無きの謂ひなるか。

文の「定体」とは?


董和伝

董和傳、先主定蜀より並署左將軍大司馬府事に至るまで。
董和、並びて署す。李嚴、並びて托さる。皆 蜀の士大夫の心を慰むる所以なり。特に幼宰は端良なるも、正方は邪に傾くのみ。若し黃公衡(黄権)をして喪敗し隔絶に因らしめざれば、則ち遺を受けて、當に斯の人に屬して昭烈の明を傷つけざるべし。

蜀漢の政策の意図と可否をよく論じる。董和と李厳を重く用いたのは、蜀地の士大夫を懐柔するためという。李厳の評価は低く、黄権が魏に移っていなければ、黄権に(諸葛亮と並んで)遺言を受けさせられたと。


劉巴伝

劉巴傳、俄而先主定益州、巴辭謝罪、負先主不責。
昭烈 初めて蜀を定むるや、土人(士人)反側を懐く。其れ意を子初(劉巴)に加ふるは、即ち高帝の雍齒を封ずるなり。

劉備が劉巴に配慮したのは、劉邦が雍歯に配慮したのと同じ。


而して諸葛孔明 數々之を稱薦す。
注採『零陵先賢傳』に、亮も亦た曰く、「帷幄の中に運籌するは、吾 子初に如かざること遠し」と。按ずらく、子初(劉巴)、粗ぼ筆有るのみ。此れ助して之を張すのみ。劉・葛の語を造作するなり。

劉備と諸葛亮が、劉巴をほめるような言葉を言うはずがないと。おべんちゃらだ、もしくは創作だ。創作(造作)だと言ってますね。


注、初め、劉璋を攻むより府庫 充實すに至るまで。
必ず此の事無し。錢 直百に至る。豈に復た以て通行す可きか。初め一州を得るや、公私 囂然とす。是れ五均の続なり。張益徳傳(張飛伝)中に、「頒賜の差あり」といふを以て之を觀るに、則ち聽きて其の藏に赴きて競ひて取るは、亦た然かざるなり。

これはおもしろい。
張飛伝:益州既平,賜諸葛亮、法正、飛及關羽金各五百斤,銀千斤,錢五千萬,錦千匹,其餘頒賜各有差,以飛領巴西太守。


董允伝

董允傳、以允秉心公亮至則戮允等以彰其慢。
此の疏は、已に孔明本傳(諸葛亮伝)に載す。則ち休昭(董允)及び向寵伝中に、重ねて出す可き勿し。

允 遷りて侍中と為り虎賁中郎將を領すより備員而已に至るまで。
既に宮省に任ぜられ、兼せて宿衛を統ぶ。孔明 蓋し周公の立政の言を用ひて內を治ぶなり。

これも政治分析である。蜀漢政権論をやりかけている。

和順(郭攸之の性質、董允伝)と公亮(董允の性質、董允伝)とは、相 參じ、並びて左右に在り。則ち之を劑(そろ)へて平らがしむ。徐ろに以て君徳を養成せば、暌否の憂無し。

これも蜀漢政権論ですよね。郭攸之と董允をどちらも並べることにより、劉禅を善導できれば……という。


蜀人無不追思允

注、臣松之云云。按ずらく、允の事 蜀の存亡に関はる。故に和伝と別に出す。

陳寿が列伝を切り出した意図について、雄弁に推測している。だれを同じ列伝にまとめるべきか。だれを別の列伝とすべきか。重複をせずに、簡略をめざすべきだ、というのも同じ。


劉封伝

劉封傳、以封為副軍中郎將。
「副軍」の名は、之を失ひて、尊寵すること太だ過ぎたり。是を以て事 當に始めを愼しむべし。

劉封が関羽を助けなかったことを根に持った分析だ。


諸葛亮慮封剛猛より使自裁に至るまで。
先主 他に枝葉無くて、後嗣は庸弱なり。封の地は、疑偪に處る。又 嘗て兵を將ゐて、一朝に難を作す。則ち禍 肘腋に生ず。國祚 方に危ふからん。故に其の罪に因りて速断せざるを得ず。後代の潞王從珂の事が如く、相參して鍳と為す可し。

劉封を重用しなければならなかったこと、蜀漢政権論をやっている。


恨不用孟子度之言
注、(孟)逹の子の興、議督軍と為ると。按ずらく、此れ則ち孟逹の家、且に誅せられず。況んや黄公衡(黄権)をや。其れ承信せず。郭沖の言、虚ならざるなり。

新事実!


彭羕伝

彭羕傳、永年が如き者は、自ら為に傳を立つ可からず。

「彭羕伝」なんていらないよ!という意思表明。
「史書をどのように作るべきか」にさまざまな階層がある。「史書」を論評と、史書に記録されたことの論評があって。


廖立伝

廖立傳、昔先主不取漢中より徒失一方に至るまで。
此れ實に前事の失なり。亦た當に參取し之を觀るべし。呂蒙 三郡を襲奪するに當たり、即ち呉と好を追ひて惡を棄て、先に漢中を收めて、以て関隴を圖れば、時に于て歯を生じて殷盛たり。其の客戸を錄して、兵と為さば、聲勢十倍なり。

蜀漢政権論というよりは、蜀漢の戦略論。呉と連携すれば、魏を攻略できたよねという、蜀漢ファンのコメント。


亮表立曰より於是廢立為民に至るまで
方に託付を受く。主は少くして、國は疑あり。廢立して以て不恪を懲せざるを得ず。度の未だ宏からざるに非ざるなり。

諸葛亮が、廖立を罰したのは、情勢として仕方がなかったのだ、ということ。


李厳伝

李嚴傳、
李嚴 並びに大任に當たる所以の者は、既に蜀土の故臣なればなり。宜しく奬慰を加ふべし。又 南陽の人たる諸葛公 兹の郡に僑客たれば、鄉黨の分有り。必ず能く協規す。荊土は操に歸して、嚴 獨り西して奔り、志操有るが似し。民を理め戎を治めて、幹畧も亦た優なり。是の故に之を取る。然して自ら其れ歸降し、即ち郡を外に領し、共に帷幄せず。何に由よりて其の腹心を得るか。昭烈の人を用ふるは、必ず試可に由る。嚴 特に未だ之を左右に試みず。周旋すること歴年にして、猶ほ失有る所以なり。

李厳を重用したことに対する、何焯のヘイトがすごい。


章武二年、先主徵嚴詣永安宫より、留鎭永安に至るまで。
(前漢の)武帝 之を宏羊(桑弘羊)に失ふ。昭烈 之を李嚴に失ふ。人は固より知り難くして、而して權位 相 逼る。猜嫌 構そ易きは、亦た事勢の常なり。
部分如流趣舍罔滯は、正方(李厳)の性なり。
正方をして胸に鱗甲無からしむれば、則ち文偉(費禕)の匹なり。

胸中鱗甲は、『三国志』陳震伝にみえる。他人と争う陰険な心。もしも李厳に、他人と争う陰険な心が無ければ、費禕と同類であったろうに。


注採『諸葛亮集』雖十命可受、況於九耶。
孔明は恭遜なり。十命の語は、未だ必ず自ら其の口を出ださず。『諸葛氏集』は、當に承祚の敘錄する者を以て正と為すべし。

陳寿がまとめていない本に含まれる諸葛亮の台詞は、キャラ的にあり得ないから、これは諸葛亮が言っていない。


平遣參軍狐忠
狐忠は、即ち馬忠なり。

注採、亮公文上尚書、行前監軍征南將軍臣劉巴。
此れ別の劉巴なり。子初に非ず。

乃廢平為民
注引、諸葛亮 平の子の豐に與ふる教に云云。按ずらく、平 既に廢せられ、豐 猶ほ留府に在り。公の公忠に非ず。此れ量る無きなり。

李豊の処置についてのコメント。


劉琰伝

劉琰傳、又 悉教誦讀魯靈光殿賦。
靈光を誦する者は、宗姓を以て隨從するものなり。惟だ琰一人のみなり。本は魯國の「文考」より出づ。此の賦 自ら負く。己が為に作りて又 侈靡中に于て其の風流を炫するが若きのみ。

魏延伝

魏延傳、當得重將以鎮漢川至一軍盡驚。
延を抜んでて、而れども益徳 望を見ず。君臣 相信の深に非ず。何を以て能く然るか。

魏延を重用したことに、何焯は反対している。張飛にしろと。諸葛亮へのシンパシーが強すぎる。


平叱延、先登曰より軍皆散に至るまで。
丞相の澤(恩沢)は、數十年にして追思して忘れず。況んや此の日をや。順逆 一ら明らかなり。則ち延 善く士卒を養ふと雖も、一叱して即ち散ず。

諸葛亮の死の直後だから、みんな諸葛亮に懐いているのであり、魏延がその兵を思い通りに奪おうとしても、うまくいくわけがないのだ。


楊儀伝

楊儀傳、往者丞相亡沒の際より令人追悔不可復及に至るまで。
何ぞ乃ち賴る無きや。(楊儀は)自ら棄てて此に至る。然れども公琰(蒋琬)も亦た、以て之を致す(楊儀を始末する)有り。稍く其の祿位を崇めて、以て前勞に答ふれば、亦た優ならざるや。自ら駕馭する能はざるを審らかにす。唯だ寄るに重任を以てして可とする勿きのみ。

孔明死後の「蜀漢政権論」には、魏延と楊儀についてコメントがついている。


向朗伝

向朗傳、亮卒後、左將軍に徙る。
朗は左將軍と為りし時、行丞相事す。後主の張皇后冊文中に見ゆ。

官職のすりあわせ。

自去長史優游無事垂二十年。
二十年の功は、何に書きても讀む可からず。朗 長史を去るとき已に六十餘なり。老にして學を好む。正に吾儕(われら)時を過ごす者は、宜しく師法とするべき所なり。公淵(廖立の字)の口と雖も、終に能く凡俗を以て批詆するや。

いきなり自分の話をはじめる何焯さん。


寵弟充、歴射聲校尉尚書。
注『襄陽記』云云。按ずらく、此の語、即ち『漢晉春秋』の由りて作る所なり。孫盛の語、已に『魏書』三少帝紀に見え、此こに重ねて出づ。

テキストの流通の先後関係が分析されてておもろい。『襄陽記』にもとづいて、『漢晋春秋』が作られたことを言ってる?
孫盛曰:昔公孫自以起成都,號曰成氏,二玉之文,殆述所作乎!


張裔伝

張裔傳、丞相亮、以為參軍至領留府長史。
既に裔の幹理なるを重んじ、亦た但だ公琰・文偉を用て府事に署せしむるを欲せず。一府は皆 楚人にして蜀士の心を失ふなり。

蜀(益州)と楚(荊州)の蜀漢政権論をなぜ展開するのか。


人は自ら丞相長史(公人としてのわたくし張裔)を敬ふも、男子たる張君嗣(私人としての張裔)は之に附くのみ。疲倦して死せんと欲す。
語 頗る輕薄なるも、然れども深く此の理を悟る。即ち死權の愚無きなり。

文学評論ですかね。感想ですね。諸葛亮は、めっちゃ働いてるし慕われているけど、わたくし張裔は、ぜんぜんですよ。
「臣松之以為談啁貴於機捷,書疏可容留意。今因書疏之巧,以著談啁之速,非其理也」とあるから、裴松之に対するアンサーソングだと思われる。

豈に惟だ長史なるのみや、即ち貴極の公侯なり。亦た猶ほ是れあるのみ。外物を戀慕し、薾然と疲役す。謂ふ無きにあらざるか。


少くして犍為の楊恭と友善すより行義甚至に至るまで。
義を行ふこと此の如し。故に諸葛公 貞亮死節なるを以て、並びに之を許す。季休(楊洪)の言に緣らず。遂に威公(楊儀)と一視せらる。

蜀漢の人物評価、序列とグルーピングにこだわりが強い。


費詩伝

費詩傳、漢室を隆崇す。
「室」は、當に「升」に作るべし。黃忠の字なり。『御覧』は漢叔に作る。叔の字は、草書は「升」の字に似るのみ。

「漢○」を尊重するという文脈で、うっかり「漢升」を「漢室」と誤字っちゃうのは、気持ちが分からんでもない。


由是忤指左遷部永昌從事
費詩は、左遷せらる。雍茂は、殺さる。固より不宏に由る。亦た其れ暮氣(精神の衰え)なり。

杜瓊伝

杜瓊傳、瓊が言を周緣するに、乃觸類而長之曰至より意は穆侯より甚だしまで。
靈帝の子を名づくるなり。

天子の子の名づけが不適切だと国が滅びる、子同士で争うという予言の話。

君子 仇を好むは、豈に怨耦の謂なるや。師服 已に傅會に屬す。後人 必ずしも此を恃みて自ら喜びて微を知すと為さず。宋の明帝の諱多し。皆 譙叟の輩 之を啟す。何ぞ治亂・興亡に関はるや。

予言の言うとおりにならない、というのを同じ目線で反論している。


許慈伝

許慈傳、鄭氏の學を善くし、易尚書三禮毛詩論語を治むと。
鄭氏『尚書』注は、今『易』と皆 僅かに『正義』中に存す。

乃ち典籍を鳩合し、衆學を沙汰す。
此れ荀文若、曾て孟徳と言ひて、行ふ暇あらざる者なり。

荀彧が曹操と、典籍を集約したいですねって、いつ言ってたっけ?


稍く遷りて大長秋に至りて卒す。
大長秋は、通經之士を用て之と為さば、則ち以て周官の内宰の職を修む可きなり。

大長秋を宦官ではなく、経学に通じた人士に任せると……というのは、官制に対する知見にみえる。どこまですぐれた洞察なのか?


注の孫盛曰く、蜀少人士。故に慈・潛ら並びに載述せらる。
按ずらく、仁篤にして大經四・小經三に通ず。即ち中土のに在りても亦た述無き可きに烏ず。

許慈ほどの学識があれば、中原(中土、曹魏、『魏書』)に記録されてもおかしくない。孫盛の言っていることは違うよと。


来敏伝

來敏傳、虎賁中郎將と為り、丞相亮 漢中に住ばるや、請ひて軍祭酒と為る。
(来)敏に軍職を請ひて、而して董允を以て宿衛を領せしむ。此れ楊洪 向朗を留むるを勸むるの意なり。故に敏の言ふらく、我が榮資を奪ふと。

蜀漢政治の状況分析をしている。これはなぜ?発言の意図を探る以上の意味があるのか?文の説明なのか?


尹黙伝

尹黙傳、劉歆の條例より、鄭衆・賈逵の父子・陳元方・服䖍の注說、咸 畧ぼ誦述すと。

「傳寫」の譌なり。一方の字を衍とす。按ずらく、『後漢書』に、陳元は、字は長孫、父は欽なり。『左氏春秋』を習ふ。黎陽の賈護に事ふ。劉歆と與に時を同じくして、別に自ら名家なり。元は、少くして父業を傳ぎて、之の訓詁を為す。范升と爭ひて左氏學を立つ。

学問の系譜について、『三国志』のざっくり表記を正している。


李譔伝

李譔傳、司馬徽・宋忠らに從ひて學ぶ。
司馬二人は、思潛傳(尹黙伝)より前にあり。則ち字を欽仲と稱し、傳は則ち名を稱するは、疎なるが似し。

名とあざなと著述に現れる順序が、整ってないからクレームをつけている。


譙周伝

譙周傳、時に後主 頗る游觀に出でて聲樂を增廣す。

劉禅が遊びほうけている状況について。

延熙元年、立子璿、為皇太子。八年冬、蔣琬 始めて卒す。然らば則ち、琬の存せしときより、後主 已に荒縱す。故に傳に、建興十四年に于て、大書して汶水を湔㸔するに至る。旬日にして還るは、其の國事を恤まざるを識る。外に盤游するは、此より始まるなり。大臣 正す能はざるを傷して、書して以て譏りを示す。後に書かざるは、諫む可からざれば、則ち譏るにすら足らざるなればなり。

劉禅批判の筆法についてコメントしている。ほかの筆法の議論と繋がるならば、詳しく見る価値がある。


若至南方、外當拒敵より、誠に恐邳彤之言復信于今に至るまで。

劉禅が南方に逃走した場合のこと。

此れ料る所は皆 是なり。南に奔るとも亦た亡に歸せん。此を以て之に死守を勸むるに若かず。君臣 共に社稷に殉ずるは、亦た四百年の光ならざるや。邳彤の言は、世祖 之に從ふ。邯鄲を破るを以て、豈に之に從ひて、以て王郎に降るや。何ぞ(譙)周の義に昧くして、術に愚かなるや。必ず其の主をして軹道の轍を蹈ましむるなり。

若遂適南勢窮乃服、其の禍 必ず深からん。
此れ則ち、然らず。但だ為へらく張魯の巴に入らば、則ち再び辱めらるるのみ。

劉禅の最後、身の振り方について意見が豊かにある。


是に於て遂に周の策に從ひて……より周の謀なりに至るまで。
周の謀に從へば、則ち蜀人 屠戮の慘を免る。故に鄉邦は之を韙(よし)とし、萬世の公議に非ざるなり。

注、孫盛云云。
按ずらく、指畫實、自了了たり。從來 轉亡 存為り。敗に因りて功と為し、苟し資く可き有らば、務めて人事を盡す。則ち事機 俄かに返る。此れ非書生の事外作好語也。然り而して能く此を為す者は、必ず其の君の志有る者なり。公嗣(劉禅)、及ぶ所あるに非ざるなり。時に群臣、但だ以へらく降を受けずして難と為るを恐るれば、則ち退きて東鄙に次す。亦た俱に逹す可きの臣無きなり。

周の長子は熙なり。熙の子は秀、字は元彥なり。
元彥の承祚を去ること遠し。此の十字、皆 裴注の文なり。

時代が整合しないことから、どこから裴注が始まるか決める。


評、注採の張璠云云。
張璠は、識は陋にして旨は迂なり。注家、何を以て諸を取るや。

張璠に対して厳しすぎ……。


黄権伝

黃權傳、權閉城堅守より、先主假權偏軍に至るまで。
先主、公衡(黄権)を奬抜す。故に、霍弋・羅憲 皆 事君の禮を失はず。

蜀漢の他人との関わり、因果関係を表すよね。


景初三年、蜀の延熙二年、權遷車騎將軍儀同三司。
注採『蜀記』云云。按ずらく、凡そ取精多用物宏なる者は、皆 天象に應ず。太白 太微中に入りて、漢兵 莽を誅す。僭盜と為るを害せざるなり。公衡(黄権)一時に遜詞するのみ。

黄権の言っている言葉のなかからか。

『宋書』天文志 云ふ、按ずらく、『三國史』並びに熒惑 守心の文無し。黃初六年五月十六日壬戌、熒惑 太微に入り、二十七日癸酉に至りて、乃ち出づと。宜しく是れ太微に入るなり。

黄権のなかの言葉と、天体の整合性をとっている。


崇帥厲軍士期於必死、臨陣見殺。
崇は、國に死す。此れ劉・葛の推誠の效なり。

これはただの感想ですね。諸葛孔明が好きだな。


李恢伝

李恢傳、後軍、還る。南夷 復た叛し、守將を殺害す。
此の傳及び馬忠・張嶷二傳中を觀るに(李恢伝・馬忠伝・張嶷伝)、皆 南夷 復た反するの事有り。蓋し諸葛公と雖も、猶ほ其の終を要めて反せざらしむ能はざるなり。

南蛮が二度と反乱しなかったという前提を、どこから踏まえているのか。


蒋琬伝

蔣琬傳、琬曰く、「吾實不如前人、無可推也」と。
自ら反りて必ず當理を期す。此れ伊・傅の心なり。獨り寛厚なるに非ず。

伊・傅は、だれ?


而衆論、咸謂、如不克捷。還路甚難、長策に非ざるなり。
此れ即ち黃公衡(黄権)の先主を諫むる所の者なり。衆論 非と為さざるなり。

みんなのトラウマ、夷陵の戦い。


凉州 胡塞の要を以てより、之に赴くこと難からずに至るまで。
按ずらく、蜀は本は一隅に僻在す。必ず関中を圖らば、則ち義聲 以て天下を震動せしむ可し。若し能く敵に克たば、則ち洛陽 皆 劻勷の勢有らん。

「劻勷」は、慌てるさま。韓愈・白居易が使っている。

今 羌に入りて、隴を圖る。借に之を挫かしめんとす。未だ其の心腹を壊すと為さず。中原 舊を念ずる者は、漸く繫屬する所無し。昔 三郡 常に反し、王師に應ず。而れども丞相 速やかに行きて利に赴かず。蓋し我の全力を舉ぐるを欲せず。顧みて彼の偏師を用ふ。魏延 羌に入り、蓋し聊か其の不備を掩し、賊の右臂を断たんと欲す。仍ち此を階して進取と為さず。敵に勝つと雖も、而れども再び往かざるなり。(姜?)維 先に(蒋)琬 繼ぐも、規則する所は小なり。雜耕し渭を跨ぎ、遺蹟 未だ遠からず。若之 何ぞ計りて民を畧し境を廣ぐるに止まるや。東呉の士と與に共に邊角の勢を矜るや。然りと雖も、君子 猶ほ焉を取る有るや。丞相の料る所を蹈むに異なりて、坐して亡ぶを待つ者なるや。


費禕伝

費禕傳、孫權 性は既に滑稽にして、嘲啁すること無方なり。
仲謀(孫権)の氣象 子桓と異なる無し。昭烈と雖も、猶ほ以諸毛遶涿取侮を免れず。豈に漢末の風氣 然らしむるや。幸に百年の歎有り、亦た魄兆を見る微きや。>

ただの感想か。孫権は信用できないが、曹丕もそうだ。


姜維伝

姜維傳、維 自ら練西方風俗を以てより、與其兵不過萬人に至るまで。
隴を断たんと欲すれば、則ち當に曹爽初誅に及ぶべし。衆志二三なれば、未だ外事の時に遑あらず。文偉(費禕)身ら漢川に駐まりて、以て闗中の救を牽す。伯約(姜維)萬衆を以て羌胡を招誘し、西鄙を披割せば、相 裁制に過ぐ。又 事機を失ひて、元遜(諸葛恪)東に輕舉す。文偉 坐して西を待つ。皆 天の助けを假りて、典午(司馬氏)以て其の奸を成す者が若し。長太息す可し。

大いに魏の雍州刺史の王經を洮西に破る。
此の功 秦川に在るが若し。亦た偉ならざるや。呉の殷禮(殷礼)仲謀に言ひて曰く、「民は疲れて威は消え、時往に力 竭く。為に此の小用を惜まざる能はざるなり」と。

せっかく姜維が魏を破っても、呉には余力がなかった。


鎭西大將軍の胡濟と期して上邽に會すと。
此れ胡濟 又 一人にして、胡偉度に非ず(別人です)。

鄧艾も亦た隴右より皆 長城に軍す。
鄧艾 隴右より闗中の急に赴くを得たり。故に丞相 間擊を以て、費・郭を破るなり。

六年、維表、後主より啟後主寢其事、而群臣不知に至るまで。
此れ密表にして尚書に関はらず。故に思遠(諸葛瞻)力爭する能はず。伯約(姜維)思遠に書を貽りて其の事を言はざるは、當に以て素より同心に非ざるが故なるか。

因將維等詣成都、益州牧を自稱して以て叛す。
注、臣松之以為、会を殺して蜀を復すは、難しと為さずと。按ずらく、會を殺すは、易し。蜀を復するは、難し。『華陽國志』に載する王崇の論に曰く、維 徒だ能く一の会(鍾会)を謀るのみ。慮はず兵十萬を窮めて制御を為し難しと。

裴松之は、蜀漢の復興ができたと言っているけれど、いやいや難しいよ。王崇はムリと言っているし、何焯もムリだと思うよと。


評、然猶未盡治小之宜より、而可屢擾乎哉に至るまで。
此れ皆 承祚(陳寿)晉に在るの遜詞なり。裴注、之に駁して、或いは未だ其の旨を喻さざるなりと。

蒋琬・費禕・姜維はこつぶで、蜀漢を支えるほどではなかったという。陳寿が西晋に忖度した言葉だと。裴松之は、「よくなった」と陳寿の評価を押し戻して、蒋琬らを弁護している。

宮中府中に、民を理めて戎を治め、國を立つるには、一として闕く可からず。今 伯約(姜維)孤立して、後主 昬蔽たり。其の本 已に揺ぐ。加之 政刑 昔に非ず。民を使する能はず。其の上邽の役に敗るるを忘れしは、街亭よりも甚だし。伯約は但だ前人の裁制の過を知るのみ。文偉(費禕)の助を失ふを知らず。亦た不復た可以有為。此れ誠に志士 之が為に深く悲しむ者なり。蜀の事 葛を以て始まり、姜を以て終はる。十巻(『三国志』巻四十)は、實に相 首尾あり。其の末巻は、則ち特に楊戯の贊を為りて而して設くなり。『蜀都賦』云ふ、葛に匪ず姜に匪ざれば、疇(たれ)か能く是れ恤まんやと。

宗預伝

宗預傳、蜀 之を聞く。亦た永安の守を益して、以て非常を防ぐ。
永安 守を益すは、則ち関中を圖る者の力 又 减ず。此れ劉・葛 呉と盟ふに優たる所以なり。然らば斯れ時に公琰(蒋琬)未だ遠名有らず。事勢に于て宜しく然るべし。

関中に兵力を向ける余力と姿勢があったから、劉備・諸葛亮は、呉との同盟においても、優位?であった。蒋琬は、内を固めるように兵力を振り分けたから、遠くまで名望が響かなかったことは、当然だよね仕方ないよね。


楊戯伝

楊戯傳、維は外寛內忌意不能堪。
伯約(姜維)此に于て公琰(蒋琬)に及ばざること遠し。

人物評ですね。


戱、以延熙四年、著『季漢輔臣贊』、其所頌述、今多載于『蜀書』。是以、記之於左。
承祚(陳寿)身ら晉室に入りて奉命して修史す。彼 自ら三禪して相 承ぎ(魏晋革命)、舜・禹に同符すと謂ひ、魏を以て正と為さざるを得ず。乃ち蜀書の末に于て、文然(楊戯)の贊を記し、網羅し散軼するに假託す。陰かに中漢・季漢の皇統斯に在るを著し、蜀を曹氏の上に躋(のぼ)す。昭烈皇帝を贊するを大書して、則ち己の述する所を先主傳と曰ふは、其の遜詞を明らかにするなり。實に文然(楊戯)を以て、贊する所を已の序傳に代ふるなり。張茂先(張華)は能く史漢を譚して、而して承祚の面する所と為るか。千載より以下、吾 猶ほ其の區區乃心を取り、正閏を辨じて眞舊を戀ふなり。

陳寿は西晋に忖度して、魏を正統としていたが、楊戯の『季漢輔臣賛』をひいて、蜀漢をもちあげた。それには、張華の理解もあった。この(現代にも通用する)史書に対する分析は、なにを踏まえたものか。


其の戲の贊する所ありて、今 傳を作らざる者あり。余 皆 本末を其の詞の下に注疏す。
注中に凡そ他書を引く者は、皆 裴注なり。卷末に採る所の『益部耆舊雜記』は、王嗣・常播・衛繼の三人を載せて、亦た然あり。

縻芳・士仁・郝普・潘濬
四子は、叛臣なり。故に獨り名を書す。
天下三分を傷つけて、一統に歸せざるは、荊州を失ひ、関侯 敗るるに始まる。故に三叛人を以て之を終ふ。并びに郝普に及ぶは、呂蒙 南三郡を襲奪するや、荊・呉の釁 由りて成る所なり。孟逹を畧して此の意を專言し、寓する所有り。闗羽傳 傅士仁を作りて、而して贊 士仁と曰ふに止む。則ち其の人の姓は士なり。傅の字は、衍なり。

傅士仁ではなく、士仁が正しい。


評、楊戲の商畧、意は不群に在り(楊戯が仕事を省略するのは、その意図は群れないことにあったと)。
意は不群に在りと。承祚(陳寿)自ら譽むるか。其れ不群を信ずるや。230508

陳寿自身が、群れないことを処世術としていて、その自分の処し方を楊戯に仮託して褒めていたのか。あるいは、本当に楊戯が群れなかったのか。

『義門読書記』巻二十八

孫堅伝・孫策伝

孫破虜討逆傳、堅 薨じて還りて曲阿に葬らる。
按ずらく、此に還りて曲阿に葬ると云ふ。而れども呉主傳の太元元年秋八月に、大書すらく、呉の髙陵の松柏 斯れ抜くと。之を參じて、謝詢 請ひて守冢を置くの表あり。則ち文臺(孫堅)は、呉に定葬せらる。

曲阿に葬られていない!


彭城の張昭・廣陵の張紘・秦松・陳端ら謀主と為る。
伯符 勇銳を以て繇・朗(劉繇・王朗)を摧破す。然れども能く士民を繫屬して、其の政理を修め、遂に霸圖を創む。亦た子布(張昭)も、三四公の助なり。

時に袁術僭號、策以書責、而絶之。
策 此よりに前、猶ほ術の部曲と為る。術と絶ちてより、乃ち名を漢藩に正す。以て自立するを得たり。後に曹公も亦た以策絶術、討逆の號を授く。

ただの状況の説明。


会為故呉郡太守の許貢の客所殺。
注引『江表傳』云云。策、本は袁氏の部曲なり。其の喪敗を覩るに、乃ち始めは漢に暌貳す。則ち江外の大賊なり。(許)貢 既に忠臣なり。其の客も亦た髙漸離に愧づる無し。

暌=そむく。孫策を「江外の大賊」というなんて、めちゃ極端。卓見。


孫権伝

呉主傳、建安十六年、權 治を秣陵に徙すより、作濡須塢に至るまで。
石頭に城きて以て陸に備ふ。濡須塢を作りて、以て水に備ふ。然る後に、建業の勢 壯なり。

陸地と水路の備えがそれぞれ分担だったのか。知らなかった。孫権(あるいは呂蒙)の意図を説明してくれる。


二十二年春、權、都尉の徐詳をして詣曹公請降せしむ。
降らんことを請ふは、全力を以て荊と取るを規すればなり。

ナイスな解説。意図の説明。


二十五年十一月、權に策命して曰く……より、永終爾顯烈に至るまで。
特に魏朝の策命を傳に載するは、蓋し之を醜しとすればなり。

まじかよ。


注、孫盛曰く、余 觀呉蜀咸稱奉漢……より、於漢代莫能固秉臣節に至るまで。
盛 何に見る所なるか。言ふらく、蜀は漢代に于て臣節 固からず。操と異なれば、即ち漢に貳と為るか。
大司馬・漢中王の號は、是れ以て人心を繫屬する無きに非ず。危に因りて自擅するに異ならんや。

孫盛が蜀漢に忠義がないというと、いやいや忠義だよと反論する。


黃武元年、權使太中大夫の鄭泉、聘劉備于白帝、始めた復た通ずなり。
注採『江表傳』云云。按ずらく、此れ惟だ通好を以てするに非ず。亦た謂ふ、漢帝 「歩を改む」と。各々其の地に王たるを以て自ら計と為す可きなり。

ただの通行では無くて、正統論の変更を含む、国是の再編をふくめた外交なのだ。


然れども魏文帝と相 往來す。
西隣の固まるを待つなり。

意図を説明してくれる。


五年、陸遜 便宜を陳べ……より、此實甘心所望於君也に至るまで。
魏 大喪に方たり、未だ遠きを議する能はず。故に時に及びて民を息めしめ、以て基本を固むるを勸む。而れども詞を權りて、已に猜有り。末年に自ら用て益々甚しかる所以なり。

孫権は本心では、国力温存するつもりはあまりなかった。言葉のウラを読んでいるけど……、個人というよりは、孫策・孫権に厳しいですね。


黃龍元年、造為盟曰、天降喪亂……より其明鍳之に至るまで。
其の載書を讀むに、惟に先に㰱る者は漢ならず、而れども是の盟を主る者は、惟れ丞相なり。盛徳の及ぶ所は、遠きかな。

漢ではなくて、丞相(諸葛亮)が同盟の主催者?


嘉禾元年春正月。
注、『江表傳』云云。按ずらく、仲謀 既に自ら擅に尊號す。天子たるを以て其の臣民に臨むれども、郊祀を修めず。是れ子にして父に事へず。野なるかな。

郊祀をしないことのほうを「不孝」ととがめる。


詔して曰く、朕 不徳を以て……より乘海授淵に至るまで。
之(公孫淵)が為に赦を下す。此れ氣 湧くこと山の如く、由りて迫る所なり。權 自ら尊號を稱するに、一として觀る可き無し。史家 鋪(つら)ねて其の事を陳ぶるは、亦た之を醜とするなり。
此れ本を舉ぐるに其の身に魏封を受くるの恥を蓋はんと欲す。然して(公孫淵に)詔を下すは以て少しく人衆を需(もと)む可し(遼東からの兵員調達)。但だ數百を遣せば亦た自ら足るなり。其の後 朱然 柤中を征し、預りて必勝を表す。權 其の表を抑へて出ださず。其の鑑(遠方との外交の教訓)是に於てなるかな。

六年、顧譚議、以為奔喪立科……より其後必絶に至るまで。
(顧譚は)身は疆場に在りて、強敵と對す(あるいは「魏と敵對す」)。親ら老なれば陳請を預らず。軍を棄てて國を敗り、交代を俟たず。宜しく嚴しく科禁を立つべし。若し內地に守令たれば、自ら事として限制無きなり。罪を加へて傳ふる者は、尤も謬濫を為す。譚・綜の議 呉朝 治むる無しと謂ふ可し。

顧譚の提案内容を確認しないとよく分からない。


赤烏元年春、當千の大錢を鑄す。
錢は當五百にして、已に通行す可からず。又 當千を鑄するは、徒らに妄作と為るなり。有りて以て呉の制無きを知るなり。

これは現実(史実)に対する批判ですよね。


初め、權 校事の呂壹を信任し……より、匡所不逮に至るまで。
魏・呉 皆 校事有りて、適に奸を生ず。政無くして察を好む。劉氏の平明なると何如。

めちゃくちゃ切れ味がいいですね。そして蜀漢ひいき。

權 既に前に迷謬たり。引咎 方新。責數 隨ひて至る。反求を思はず。此の由に致る所以なり。洞然として、猜無し。更始 誨を納る。惟だ過を下に歸せんと思ふ。又 何をか國の日々に亂れ、民の日々に瘠するを怪しむや。

四年、衛將軍の全琮を遣はして淮南を畧す……より、大將軍の諸葛瑾取柤中に至るまで。
注採『漢晉春秋』云云。按ずらく、「札」は、乃ち「禮」字の譌なり。顧・邵傳中を見るに、字なり。徳嗣は、其の民を用ひんと欲せば、必ず其の政教 足りて以て之を使ふ。蜀の渭に跨りて虎爭せしは、蓋し十年を以て教訓すればなり。民は其の勞を忘る。

諸葛亮の北伐は、善政のおかげで成立したのだ。

今 呉の政教 粗にして其の衆を檢制して、離叛に至らざるに足る。但だ舉げて兵を見るに、淺嘗伺利す。則ち及ぶ所なるのみ。滌境し大舉するに、事は季漢に異なり。得て動く可きなり難し。倘し內憂を致さば、是れ未だ戰はずして自困と為らん。仲謀 雅より虛實を知りて、亦た己を審にして動く。其れ能く用ゐず、短とする所を避くるなり。苟も伯符・公瑾の時に非ざれば、又 武侯(諸葛亮)地を易へて處る無し。雄畧もて遠規すと雖も、固より施す所無きなり。

このときの孫権は、外征するほど内政ができてないよね。

元遜(陸遜)は荊邯を遠覧し、公孫述 進取の圖を說く。近くは家叔父(孫策?)賊と爭競するの計を見る。意を鋭くして北伐するは、亦た殷徳嗣(殷礼)、斯れ志すなり。然れども己を審にして敵を量るに、未だ萬全なる能はず。兵を新城に頓め、威は外に挫かる。釁 內に生じて、家族 旋夷す。呉も亦た終に以て振はず。惟れ自強たらんと務む。逸に狃する毋れ。以て徐ろに其の巇(すき)を俟たば、則ち之を得ん。

評、豈所謂貽厥孫謀以燕翼子哉。
總上、嫌忌殺戮、之を言ふなり。承祚(陳寿)は蓋し皓(孫晧)の昏虐を謂ひ、此れ其の貽謀(子孫のために残したはかりごと)なり。

三嗣主伝

三嗣主傳、孫亮。大赦改元、是歳於魏嘉平四年也。閏月、以恪為帝太傅。

改元の下に「建興」二字脫あり。後の永安元年を以て之に例とす。則ち、「閏月」上に、「建興元年」脫あり、或いは尚ほ他文有り。未だ知る可からざるなり。

けっこう重要な指摘。


太平元年春。
注採『呉歴』曰、正月、為鐘立廟、稱太祖廟。
按ずらく、孫堅の父の名は鐘なり。『宋書』志に見ゆ。然れども北宋の諸本、皆「權」字に作る。

これも重要な指摘。


孫休、永安五年、休銳意於典籍。欲畢覧百家之言。
齊梁より以下、人主 都て此の類ひなり。蓋し、未だ學ぶ所の要を知らざるなり。

辛辣です。


時、年三十。諡曰景皇帝。
注採、葛洪『抱朴子』曰く、云云。
按ずらく、注家の何ぞ取る所 濫りに此に載するやを知らず。

裴松之がなぜここに載せたか、意図がよく分からないよねと。


孫晧、元興元年、貶太后為景皇后。
太后を貶むるは、(濮陽)興・()布 爭はず。其の死 宜なるかな。皓 蓋し又 明の世宗よりも甚しきなり。

明の世宗の業績を確認する。


建衡三年、是の歳 汜・璜 交阯を破り、禽へて晉所置守將を殺す。
注引『漢晉春秋』・『華陽國志』云云。
按ずらく、『華陽國志』蜀士の多なるを見せんと欲すのみ。當に習氏に從ふべし。

史料の外的批判のようなもの。『華陽国志』の作為性。


天紀四年、渾 復た斬丞相張悌・丹陽太守沈瑩ら。
注採『襄陽記』、宜しく衆力を畜へ、待來一戰つべし。若し勝の日、江西 自ら清からん。上方 壊すと雖も、還りて之を取る可し。按ずらく、宋の王權 師を還して江を保ちて、金亮 卒かに敗退す。瑩の計 非と為さず。但だ孫皓 已に必ず亡ぶに在り。故に張悌 一戰を勉強するのみ。

『宋史』卷三百六十一 張浚伝「又聞金亮篡立……時金騎充斥,王權兵潰,劉錡退歸鎮江,遂改命浚判建康府兼行宮留守」。


注、且我作兒童時より、復何遁耶に至るまで。
孔明 一顧するや人をして自ら厲ましむること此の如し。

諸葛亮の賛美。


評、注採の陸機 著せる『辨亡論』上篇に、丁奉・鍾離斐は武毅を以て稱せらる。按ずらく、『文選』に「鐘」の字無し。注に云ふ、魏將の諸葛誕 壽春に拠りて降る。魏人 之を圍む。(丁)奉と(鍾)黎斐とをして、圍みを解かしむ。奉 先登と為りて、黎斐 力戰して、功有り。左將軍を拜す。「黎」は「離」と音は相 近し。是れ一人なり。但だ字 同じからざるのみ。余 謂へらく、李善 見る所の本は、必ず徵あれば信ず可し。但だ此の「斐」字は、恐らく「牧」字の訛なり。鍾離牧は武陵太守と為りて、少衆を以て五谿を討ちし事は、蜀 魏に并せられし後に在り。「牧」作るは、為得なり。

妃嬪伝

妃嬪傳、呉主權謝夫人、後權納姑孫徐氏、欲令謝下之。
三國の君 皆 正家(家を正す)を知らず。再婚の女を納れて、反りて聘嫡 之を下とす。此れ權の晚年に、繼嗣不定なる所以なり。

歩夫人、少曰魯育、字小虎。前に朱據に配し、後に劉纂に配す。
注『呉歴』曰く、纂は先に權の中女を尚し、早くに卒す。故に又 小虎を以て繼室と為すと。按ずらく、繼室の名は、時に于て已に謬れり。故に委巷の書、君子 愼しむ所なり。

孫和何姬、故に民 訛言すらく、皓 久しく死し、立つ者は、何氏の子なりと云へり。
甲申、南渡す。福邸 君ならず。民間も亦た訛言すらく、朱氏(明代の皇帝?)の子に非ずと。立つ者は、福邸の李伴讀(?)と云へり。

宗室伝

宗室傳、孫奐・壹 魏の黃初三年に入りて死す。
按ずらく、『魏書』に甘露二年、孫壹を以て侍中・車騎將軍・假節・交州牧・呉侯と為すと。又 三少帝紀に、甘露四年十一月癸卯、車騎將軍の孫壹 為婢所殺と。黃初は、首尾の誤を疑ふ。

孫賁、子の隣 嗣ぐ。隣は、年九嵗代領豫章。
九嵗にして、郡を領するの理無し。「十」字の脫あるを疑ふ。

孫翊、子の松、為射聲校尉。
注採『呉錄』云云。按ずらく、孔明 之が為に感涕す。斯の言、信なるかな。惜しむらくは、其の亡 早く、乃ち峻・綝をして敗國せしむるを。

顧雍伝

顧雍傳、雍 往㫁獄より、何至于此に至るまで。
國體、當に爾るべし。壹の此に死するは、益々展ぶる所無し。權 猜多くして、壹をして其の情を盡くすを得ざらしむれば、則ち大臣 前事を銜むを疑ひて、周內之。
注、徐衆評、云云。按ずらく、季武子の事を引くは、倫ならず。子產と為さず。地 異なるなり。呂壹 狐鼠なり。亦た子晳 強家怙亂に非ざれば、當に急ぎ之を除きて、以て他變を防ぐべきなり。

呂壹事件についての評価について、さらに意見を加える。


邵、烏程の呉粲。
即ち、吾粲なり。按ずらく、庾信は『呉明徹墓誌』を作り、吾彥の事を用て、呉起に對せしむ。豈に吾・呉 同じかるや。
古書に、「吾邱壽王」は多く「虞邱」に作り、而して「虞仲」も亦た「呉仲」に為る。則ち吾・呉 通ずるなり。

庾信の書いた本との比較対象。


諸葛瑾伝

諸葛瑾傳、琅邪陽都人也。
注採『風俗通』云云。按ずらく、孝文の時、侯なる者 十人あるに、姓葛なる者無し。高祖 樂毅の後を一鄉に封ず。嬰 何の功德ありて、其の孫 乃ち一縣を食むや。此れ『風俗通』の傳聞の謬なり。

瑾與備牋曰奄聞旗皷より易於反掌に至るまで。
昭烈の時 大義を以て賊を討つに及び、則ち人心 尤も聳動に易し。子瑜(諸葛瑾)の言、至言なり。股肱 或いは虧く。何ぞ痛むこと之の如きか。顧みて以て元首に先ずる可きか。後儒 謂ふらく(だれ)、孫權も亦た漢賊なり。則ち誠に裴氏の所論が如し。
此の時に於けるや、責むるに犄角を以てし、賊を討つ。好を同にし惡を棄つ。諸を天地に告げて、書を遠近に騰げ、文祭羽を為し、士衆に曉示す。旋師して北向し、身ら秦川に出づ。若し関中に克たば、漢業 復す可し。權 即ち藩を稱さん。

孫権が劉禅に対して、称藩したかも知れないよね。孫権を「漢の賊」とした後世の儒者とは、だれか。


保家の子に非ずと謂ひ、每以憂戚。
注『呉書』に曰く、瑾有所愛妾生子不舉。按ずらく、子を生みて、舉げざるは、此れ人の情に非ず。果たして、不邇の德を崇び、無姬侍可也。

赤烏四年、年六十八卒。
天、漢に祚せず、武侯 乃ち兄の壽と同じからず。

諸葛瑾ではなく、諸葛亮が長生きしてくれたらよかったのに。「諸葛亮が、諸葛瑾と同じくらい長生きしたらよかったのに」という読み方もできますが、蜀漢尊重、孫呉卑下の文脈からすると、悪意・他意を感じざるを得なかったです。


注、(諸葛)融の部曲吏士 之に親附し、疆外無事。
按ずらく、此の十二字、疑ふらく、當に下に屬すべし。秋冬、乃ち陳氏の正文なり。

裴松之注と陳寿の文の境目についての意見。


歩隲伝

歩騭傳、闡 抗して陷城し、闡らを斬る。歩氏 泯滅す。
騭は君子の名有りて、二宮 相 構す。守正する能はず。闡の逆を作すや(歩闡が西晋に降伏したのは)、或いは其の餘殃なるや。

闞沢伝

闞澤傳、又著『乾象歴注』以正時日。
『宋書』歴注云、呉の中書令の闞澤 劉洪の「乾象法」を東萊の徐岳、字は公河より受く。故に孫氏 乾象歴を用ひて、呉 亡ぶに至る。

『宋書』とのひもづけ。


薛綜伝

薛綜傳、沛郡竹邑人也。
注採『呉錄』云云。按ずらく、此れ因求信陵、後事從、而して僞りて造る。果たして之有り。則ち、馬遷(司馬遷)も亦た之の傳後を載す。

『呉録』に「其先齊孟嘗君封於薛」とある。信陵は、魏無忌。


昔帝舜南廵、卒於蒼梧。より以廣聖思に至るまで。
此の文 當に韓退之(韓愈)送鄭權尚書序と參觀すべし。

韓愈にそういう文があるのでしょう。比較対照すべし。


此に由りて以降、四百餘年
按ずらく、錫光・任延より此に至るまで、尚ほ未だ三百年に及ばず。「四」の字は、恐らく「二」字の訛なり。

年代の間隔についての比較。


太子少傅と為り、領選職、如故。
注引『呉書』曰く、後に權 綜に紫綬囊を賜ふ。(薛)綜 陳讓すらく、紫色非所宜服と。『左傳』に渾良夫、紫衣狐裘あり。杜預注に、紫衣は君服なりといふ。

呉の薛綜の論旨を、西晋の『左伝』杜預注で解説している。


周瑜伝

周瑜傳、以中護軍、與長史張昭、共掌衆事。
注採『江表傳』云云。胡三省曰く、「此の數語 所謂 相時にして動ずなりと」と。然れども瑜の言 大義に悖らず。魯肅・呂蒙の輩 皆 及ばざるなり。

『資治通鑑』を確認。


瑜曰、不然。操雖托名漢相、其實漢賊也。より此天以君授孤也に至るまで。
注引『江表傳』云云。按ずらく、此れ則ち、多く諸葛の語を取りて、之を增飾するなり。故に陳氏 焉を略せり。

魯粛伝

魯肅傳、曹公聞權以土地業備、方作書、落筆於地。
此の句を着るに、以て肅の計 左に非ざるを見す。

魯粛の(劉備に土地を貸すという)計略は、悪くなかったと分かるよねと。これ、劉備びいきだからそうなるのであって、史料批判しても良さそうなのに。


諸葛亮、亦た為に哀を發す。
既に交分 不苟(いやしくもせぬこと)にして、好を孫氏と結ぶ。力を操を治むるに専らにす。惟れ子敬 克く諧する故なり。

呉蜀の関係が大切にされて、呉蜀で曹操との戦争に注力できたんだから、これがすばらしいことだ。これは魯粛の適切な判断のおかげなんだ。


呂蒙伝

呂蒙傳、蒙盛稱肅、有膽用。且慕化逺來於義。宜益不宜奪也。
此の舉 其れ萬人の督と為る徵あり。

「襲肅は、孫権さまを慕い、遠くから来ました。義のため、襲肅の兵を増やすべきです。襲肅から、兵を奪ってはいけません」と、守った。これが、万人をひきいる都督になれる片鱗を見せていた。


蒙移書二郡、望風歸服。
孫氏、武烈より長沙太守と為り、區星を討平し、良吏を任用し、又 越境して㝷いで零桂の諸賊を討ちて、以て異國を全せしむ。三郡 之に懐く。故に移書すれば、即ち下る。以へらく、昭烈の人心を得ると雖も、其の素より服して孫氏に從ふに如かず。子明(呂蒙)は小數なり。豈に天功を貪るを得るや。

孫堅が恩を与えていたので、呂蒙が声を掛けたらすぐに靡いた。
孫堅の恩が、劉備を上回ったのであり。呂蒙の策略が、劉備を上回ったのではないからな、という念押し。


蒙乃密陳計、策曰より欲復陳力其可得耶に至るまで。

規りて荊州を取るは、是れ蒙の本謀なり。然れども此の傳(呂蒙伝)の語、多くして信ず可からず。前に襄陽に據りて、或いは荊州を取りし後に、復た襄樊に向ふや。

地理と戦略がごちゃごちゃして筋道にあわない。

若し白帝 蜀に在らば、潘璋 何に緣りて、便ち往住す可きか。又 此の時 蒙 始めて四十を逾ゆ。亦た未だ應便計すべからず、一旦にして僵仆するなり。

ちょっとまだ意味が取れていません。


今 操 遠く河北に在りて、新たに諸袁を破りて、幽冀を撫集す。
尚・熙の死は、建安十二年に在り。魯肅 沒せし十年の後なり。而れども此れ方にとしか云ふ。新たに破諸袁撫集幽冀、乖錯ならざるや。即ち蒙 此の計を陳ぶるは、肅に代はるよりも先に在り。曹公も亦た不得逺在河北矣甚矣。史を作るの難なり。

士仁・麋芳 皆 降る。
注引『呉書』云云。按ずらく、仲翔(虞翻)の辱を觀るに、芳は則ち『呉書』は審らかに為らず。

虞翻は于禁をバカにした。麋芳も同じぐらいバカにされたのではないか。しかし『呉書』はそれを記述していない。


会、蒙疾發。權時在公安より、為之降損に至るまで。
權 眞に勾踐(句践)の風有り。晚く謬まりて、猜多しと雖も、時に欲不為盡死得乎。

年に四十二、遂に內殿に卒す。
周公瑾、年は三十六に止まる。魯子敬は四十六なり。呂子明は四十二なり。子敬をして十年 死せざらしむれば、呉の盟 尚ほ固し。襄・樊の舉ぐるや、漢室 復興せん。

魯粛が長生きしてくれたら、関羽の北伐は成功して、漢室復興は成功したであろうに。


後に吾に玄徳に地を借すことを勸むると雖も、是れ其の一短なり。
按ずらく、魯・呂 各々其の時を以て、操の氣 未だ衰へざるに當たる。屢々巢湖に出でて、當に劉氏と共に好を結びて、以て其の勢を分くべし。操 老ゆるに及びて、呉を舉ぐるの志無く、鼎足して、勢 成る。不襲定上游。亦た國を立つる所以に非ざるなり。

呉が自主自立して引きこもり、蜀との連携に消極的であったことを批判している。


然、其作軍屯營不失より其法亦美也に至るまで。
子敬、軍を作すに、孔明の法に幾し。二人 故に相 友たるに足る。

魯粛は、孔明との近接性、類似性によって評価される。


評、呂蒙 勇にして謀断有りより最其妙者に至るまで。
普(郝普)を譎するは、細務なり。而して與に関を禽ふるは、並論者。其の南郡を襲取するは、亦た譎兵なり。

黄蓋伝

黃蓋傳、零陵泉陵人也。
注採『呉書』云云。按ずらく、『風俗通義』に、潁川の黃子亷あり、每に飲馬すれば、輒ち錢を水に投ずと。然らば則ち、公覆(黄蓋)の祖は、潁川より零陵に徙るなり。

『風俗通義』とのひもづけ。


時に郡兵、才か五百人りより盡歸邑落に至るまで。
我 整ひて、彼 亂る。練りたる習を以て烏合を擊つ。乃ち此の如き竒を用ふ可きなり。

兵法の分析か?『孫子』っぽいけど、どこからきた?


陳武伝

陳武傳、奮命戰死、權 之を哀みて自ら其の葬に臨む。
注中に、殉妾之事、固より孫盛の論を非とす。亦た奢濶にして、當たる無し。

初め、表所受賜復人、得二百家。
所謂「復人」なる者は、是れ有罪の人なるやを知らず。若し後に正戸の羸民を以て、其の處を補はば、則ち直以平民、賞將家、僮僕と為す。之を後世に較ぶるに、所謂「驅戸」なり。其の虐たること、又 甚しきこと有るや。

「復人」という語彙、ないしは制度について。


甘寧伝

甘寧傳、寧 計を建てて、先徑して夷陵を取る。
既に夷陵を取らば、則ち江路 通ず。利もて進みて、以て戰ひて退く可し、以て守る可し。

地形および戦局の説明。


寧、益貴重増兵二千人。
甘寧 特將と為りて萬兵を督し、敵塲に臨む可し。呉人 未だ其の用を盡くせず。

甘寧ならやれるのに、呉では甘寧を使い切れていない。


凌統伝

凌統傳、二子、烈・封。年は各々數嵗にしてより還其故兵に至るまで。
注孫盛云云。按ずらく、仲謀の事、惟れ殉妾もて禮を失ふ。其の他も亦た王者 廢せざる所なり。但だ其の本を非とするなり。一部に『周禮』至纎たり至悉たり。孫盛の論、意は則ち遠くして未だ密ならざるなり。

丁奉伝

丁奉傳、太平二年、魏 大いに之を圍む。
二年の下に、宋本は「魏大將軍諸葛誕據壽春來降」といふ十二字有り。缺く可からず。「」大」は、元本は「人」に作る。

大きなテキストの異同だ。


朱然伝

朱然傳、然は、臨行、上疏して曰く、馬茂小子より責臣後效に至るまで。
然 若し此の表無くんば、幾ど以て其の至る所を測るもの無し。

虞翻伝

虞翻傳、陳琳檄呉文に、虞文繡は、砥礪清節にして、躭學好古。仲翔は、能負析薪なりと。文繡の名は、注家 未だ詳に及ばず。『翻別傳』自敘に云ふ、臣亡考は日南太守歆(虞歆)と。

陳琳が批判した「虞文繡」は、いみなが分からない。


自今、酒後に殺を言ふも、皆不得殺。
則ち此より前の殺す者、有り。孫皓の昏虐 權の貽(遺伝)なり。

翻の性は疏直にして、數々酒失有り。
自ら酒失有りて、何を以て君を正すか。此れ權 遂に能く容れざる所以なり。

孫権の酒乱は、孫晧に遺伝し。酒乱の虞翻に戒められても、孫権が酒乱を改めるはずもなく。ただのエッセイ的なコメントだ。笑うべし。


又 『老子』『論語』『國語』の訓注を為り、皆 世に傳はる。
注の臣松之、云云。按ずらく、「丣」は、即ち大篆の「酉」の字なり。「●」と同じからず。「●」は、古文は「兆兆」に作る。裴(裴松之)謂ふらく、字は同じくして音は異なりといふは、誤りなり。詳しくは『說文』第十五卷にあり。

ここでは文字についての説明。


在南十餘年、年七十卒。
注採『江表傳』云云。按ずらく、遭風、沒失す。乃ち泊成山に、而ち田豫の破る所と為る。(公孫淵との外交に反対したことの正しさを認め)悔ひて虞翻を赦し、泣きて陸抗に謝す。此れ權 稍や亡國の主に過ぐる(まだマシな)所以なるか。

歸葬舊墓。
注採『会稽典錄』に、徵士たる餘姚の嚴遵といふ。按ずらく、嚴遵は、是れ君平なり。先賢の名を育みて、亦た誤り有るか。范史(『後漢書』)に、一名 遵なる者ありと云ふは、亦た此の語に惑はさるるや。

異なる書物のあいだでの、同一人物の同定。


注、呉寧の斯敦。
『續漢志』注に、諸暨(県)の下に引く『越絶書』に云、興平二年 分けて呉寧縣を立つと(「呉寧」を県名として記すのは正当なことですよ)。

張温伝

張溫傳、溫 蜀に至り、闕に詣りて、拜章曰、昔高宗以諒闇より、謹奉所齎函書一封に至るまで。
當日の人心を以て、漢を思ふは、自ら知らずして其の諸口より出づる者有り。然れども敵國の體に于て、則ち辭を失へり。殷宗(殷の高宗)の傅說(殷の高宗の宰相であったフエツ)を以て、漢の君臣を稱ふ。則ち勤任し旅力する者は、自ら東藩に同じからざるや。

後漢が滅びた直後なので、うっかり漢室尊重を口にしてしまうものだ。しかしそれは、呉臣としては適切な態度ではない。
フエツのことは、省略された直後に、「昔高宗以諒闇、昌殷祚於再興」とあり、張温がいった言葉のなかに出てくるもの。


其の居位貪鄙、志節汙卑者より、浸潤之譖行矣に至るまで。
營府を置きて以て之に處る。是れ其の黨を合して、聚まりて以て我に謀らしむるなり。

政治評論ですね。


又、殷禮なる者は、本占候召より無所不為に至るまで。
此れ呉王、假して以て意 其の刻骨の恨にあるを示す。故に表辭に在りて、暨豔の事を以て、溫(張温)に坐せしむる者なり。溫 方に衆望の歸する所と為る。衆の豔を怨むを移さんと欲す。之をして溫を怨らましむるは、又 呉王の謬術なり。暨徐の獄は、魏の崔・毛(崔琰・毛玠)誅廢せらるるの事に類たり。惟だ蜀のみ之無し。

蜀漢では、君主の暴走と猜疑心による疑獄事件が起きてない!蜀をめちゃくちゃ持ち上げますね。


駱統伝

駱統傳、尤以占募在民間長惡敗俗、離叛の心を生じ、急宜絶置。
時に兵民 初めて分かる。故に統の言 此の若し。今 則ち漸く以て相 安んじ、又 變じ難し。

これが「歴史学」に見えるのかも知れない。


朱拠伝

朱據傳、中書令の孫宏 潤據を譖る。因りて權 寢疾す。宏 詔書を為りて追ひて死を賜はる。
魏に孫資有り、呉に孫宏有り。皆 國政を敗る。蜀は董允を用ふ、何ぞ比する可きや。

蜀をもちあげて、魏呉の失敗を浮かび上がらせるという論法を好む。


陸遜伝

陸遜傳、陸遜は意思深長より然後可克に至るまで。
魯肅 初めて亡し、議するに嚴畯を以て代と為すと。意 或いは此に同じ。

遜曰、此れ必ず有譎且觀之。
注『呉書』云云。按ずらく、赤壁は其の疲に乘じて、速戰を利とす。西陵は其の銳を避けて、宜しく緩攻すべし。

陸遜がやった戦いは状況に応じて適切なのだ。


臣、初め之を嫌ふ。水陸 並進して……より必無他變に至るまで。
水陸 並進せば、則ち及鋒而用。船を舍て歩に就かば(輸送能力が下がって)、則ち師は老して運は艱なり。漸く釁隙を見て、敵 得て逸を以て勞を待ち、變を伺ひて怠を擊つなり。

兵法の解説をするのはなんで?


又備、既に白帝に住まりて、謹决計、輒還に至る。
大勝の後に、將は驕り卒は惰たり。泝流し仰攻せば、饋を轉ずるも又 難し。一に失利有らば、前功 盡く棄つ。昭烈 兵に老いて(軍事的な経験を積んで年齢を重ね)、蜀を得て已に固し。曹仁の南郡に在りて、可懼而走が若きに非ざるなり。

足もとの支配がグラついている、曹仁さんがかわいそう。

兵を西に連ね、主客 勢を異にし、還るを决する者は、中人 能く知る所なり。盛・璋・謙 豕が如く突するのみ(徐盛さんたちにひどいことをいう。

「中人」ってなに?中くらいの知見の持主?


及公孫淵背盟權欲往征遜上疏より權用納焉に至るまで。
伯言(陸遜)固より遠猷有り。此れ則ち、中智なれば悉くする所なり。其の文は、以て載せざる可し。

中智(中くらいの知恵のひと)であれば、全文を載せちゃうところ。しかし、上級の史官ならば、うまく抜粋するよね、という規範意識。


峻ら奄至より斬首獲生凡千餘人に至るまで。
注、臣松之、云云。按ずらく、渭濵の規模(諸葛亮の北伐)は、自ら遠し(ぜんぜん違うものだ)。此の舉は聊(いささ)か以て權の忿恥を解く。但だ其の遠略無きを詆るは、可なり。朱桓傳を觀るに、胡綜と與に相 激事す。遜(陸遜)已むを得るに非ざるを明らかにするに足る。

臣松之 以為へらく、遜 慮孫權以退,魏得專力於己,既能張拓形勢,使敵不敢犯,方舟順流,無復怵惕矣,何為復潛遣諸將,奄襲小縣,致令市人駭奔,自相傷害?俘馘千人,未足損魏,徒使無辜之民橫罹荼酷,與諸葛渭濱之師,何其殊哉!用兵之道既違,失律之凶宜應,其祚無三世,及孫而滅,豈此之餘殃哉!


又 魏の江夏太守の逯式 兵馬を兼領してより遂以罷免に至る。
此れ自ら將と為る者は、廢せざる所なり。但だ史を作る者は乃ち載せざる可し。大抵に、呉志は煩長なり。未だ削らざる者は多し。裴注 之を論じて尤も乖錯たり。

「作史者」のあるべき姿について論じる。「作史」は、『義門読書記』巻十六に、「後之作史者、於本朝、制作能昌言、以折其衷、若此者罕矣」とある。巻十八に、「可見作史、雖欲網羅、放失實。亦無取乎」とある。巻二十三に、「堯舜氏作史遷獨載五帝不記三皇」、「乃知作史之難」とある。巻三十四に、「作史豈非明哲之論乎」とある。


時中書典校呂壹竊弄權柄より、語在權傳に至るまで。
此れらの事、他傳 已に見ゆ。似不必復載本傳。

重複して陸遜伝に載せる必要もなかったのでは。呉志は、たいがい重複してまどろっこしいよね、という理解。


抗(陸抗)。二月壬戌、晏為王濬別軍所殺、癸亥、景亦遇害。
注採『機雲別傳』に、初め抗の歩闡に克つや云云。
按ずらく、歩氏 夷滅し、國典を出づ。本傳 云ふ、將吏より以下、赦を請ふ所の者は、數萬口なりと。別傳が言ふ所が如し。又 當に此を以て福報を責むるや。但だ三世に將と為る。由來 忌む所なり。且つ機・雲(陸機・陸雲)は、本は當に呉と存亡を與にす。國 亡ぶの後に、野哭して自屏するを思はず。而れども敵國に彈冠し、自ら強藩を結ぶ。終に斯の咎に致る。為へらく嗟惜す可きのみ。

呉主五子伝

呉主五子傳、孫登。而して謝景・范愼・刀玄・羊衜ら、皆 賓客と為る。
注採『江表傳』云云。按ずらく、景・愼は、未だ嘗て敗れざるなり。古は「刁」の字無し。宜しく宋本に從ひて「刀」に作るべし。

いつ「刁」の字ができたのだろうか。


登將拜太子より權黙然に至るまで。
防微の慮有る者は、當に此の時に在るべし。

蔣脩・虞飜は、志節は分明たり。
此の「虞飜」の字、誤りを疑ふ。時に于て仲翔(虞翻)交州に沒して、已に十餘年なり。且つ未だ嘗て厠迹官僚なり。

孫和。後に遂に和を幽閉すより正・象を族誅す。據・晃牽 入殿し、杖一百に至るまで。
老悖にして昏惑たり。呉 亡ぶは、皓を待たずして決す。

孫権が呉を滅ぼしたという歴史認識をくり返す。


孫霸。和の同母弟なり。
「同母」の二字は、衍なり。傳の後に云ふ、霸の二子 祖母の謝姬と與に俱に烏傷に徙さるれ、則ち和 出でて自ら王たりと。霸の出自 謝なり。

同母弟ではないのだ。母は謝氏の系統であると。これは重要な指摘。


周魴伝

周魴傳、乞遣親人齎牋七條以誘休。
休(曹休)を譎する七條は、凡そ寡要に鄙なり。何の事もて簡牘なるを塵穢するや。人才 魴の如くんば、即ち傳 以て立てざる可し。

周魴ていどの人物の列伝は立てるべきではなく。周魴ごときが曹休をだましたような手紙を載せるべきではない。

此れ胡綜傳に載する所の偽為呉質三表と與なり。豈に故(ことさら)に其の事を鋪陳して、以て呉人の智略の本より疎にして、行は小慧を好むを見(あらは)すや。君臣 皆 一時に草竊するや。

呉の知略も行動も、しょーもないことを載せてどうするのか。


潘濬伝

潘濬傳、濬に輔軍中郎將を拜す。
注採『江表傳』云云。按ずらく、濬は漢の叛臣なり。此略之者は、已に楊戲の『輔臣贊』の下に見ゆるなり。『江表傳』は不實為(な)り。

權假濬節、督諸軍討之。
注採『呉書』に、疏 到るや、急に就往使受杖一百と。促責所餉。按ずらく、濬(潘濬)は、本は二劉(劉表ら)の舊人なり。故に尤も降人 反覆して、己の累と為るを懼るるなり。

自分が裏切り者なので……と、意図を推測している。微妙に「歴史学」っぽいけど、このへんな感じはどこからくるのでしょう。


黃門侍郎の謝厷、語次問壹より遂解散雍事に至るまで。
此の厷の元歎(顧雍)の結を解くに巧みなり。

陸凱伝

陸凱傳、予連なりて荊・揚より來たる者は……より故鈔列于凱傳左云に至るまで。
此れ閭閻の人 晧(孫晧)の虐を恨み、凱(陸凱)の慤を思ふなり。私かに此の書を造りて、以て口實と為す。事辭は俱に徵(あらは)すに足る無し。陳氏 之を錄するは、蓋し其れ卑なるを識ればなり(もしくは、蓋し其の識 卑しければなり)。

こんなものを陳寿が掲載したのは、陳寿が陸凱を批判しようとしたのか。あるいは何焯の批判が陳寿に向かっているのか。後者のほうが、ぴんとくるか。


是儀伝

是儀傳、郡相の孔融 儀(是儀)を嘲す。言氏字民無上。可改為是。
注採『徐衆評』云云。按ずらく、古の氏族は、本は上賜より出づ。漢吏 皆 君臣を成す。未だ宜しく深く責むべからず。

孔融にたいする批判ですね。


顧以聞知當有本末。據實答問辭不傾移。
若し辭 傾移する有らば、亦た并せて禍を得ん。巧なる者 不皆 可幸也。

胡綜伝

胡綜傳、權 以蕃盛論刑獄、用て廷尉監と為す。
蕃は、蓋し權の多猜に投ずるなり。

初め、內外 多事なるを以て、特に科を立つより、由是奔喪乃㫁に至るまで。
此の事 已に權傳(孫権伝)に見ゆ。複た出づれば、乃ち刋削 盡くせざるなり。

重複部分をチェックして削るのが不十分だ。むだだ。


呉範伝

呉範傳、後に呂岱 蜀より還り、遇之白帝。
先主 蜀に入り、葭萌より還りて璋を攻む。緣る無くして復た白帝に在りて岱と相 遇ふ。承祚は蜀の人なり。宜しく道里 違錯なるを知るべし。故に之を載するは、以て呉人の偽妄と見るのみ。

陳寿が蜀の地域の地理に詳しいから、地理のすじみちに合わないこと書くはずがないよね。だから韋昭『呉書』に由来するデタラメだよね、というのはおもしろい。


劉惇伝

劉惇傳、時有星變、以問惇より卒如惇言に至るまで。
時に孫翊 名位は甚だ微なり。安んぞ能く星躔 變を示すや。此れ又 呉人の誇なり。

確率の低い予言があったことにするのを、「呉人の誇(誇張)」とする。韋昭『呉書』への批判。韋昭『呉書』を、十分にチェックせずに掲載した陳寿の甘さへの批判。


趙達伝

趙逹傳、權 逹 書有るを聞き、求之不得、乃錄問其女及發棺、得る所無し。
以て術家の戒と為す可し。

安易に君主に知見を奪われないのは、参考にあるなあ。


評、然して君子 算役心神。宜于大者逺者
「算」は、宜しく宋本に從ひて「等」に作るべし。

久しぶりに純粋な校勘がきた。


注採、孫盛云云。
盛(孫盛)の言、是なり。若し魏 得るに正を以てせざるを嫌はば、亦た當に崎嶇して蜀に入るべし。

魏がイヤなら、ちゃんと蜀に従いなさいよ。


注、然らば則ち、鵞死も亦た鬼有るなり。
此れ必ず覡者 先に之を左右に得。推問を待ちて、急ぎて始めて之を言はば、則ち休信 實に其の狀を見ると為すのみ。鵞は、微物なり。氣 當に旋散すべし。安ぞ埋を得て土中に着きて、復た相有るや。

朱子学との関わりはあるのかな。


注、故に為陛下取以作生鱠。
張溫 蜀に使ひせし時、權 方に呉王と為らんとす。何を以て陛下と稱するを得るか。且つ正に魏軍 頻りに廣陵・洞口に出づるに當たる。權も亦た武昌に在らざるなり。

呼称の誤りから、孫権の居場所もふくめて、テキストが当時の状況を正しく踏まえられてないことを言っていく。


諸葛恪伝

諸葛恪傳、諸葛恪傳を讀むに、孟堅(班固)と雖も、當に以て過ぐる無し。呉書中に、惟だ陸伯言(陸遜)の事、稍や煩冗なるが似し。他傳も亦た篇篇(篇ごとには)は觀る可し(見所がある)。周・韋・華・薛の徒を想ふに、其の書(呉書)は本より勝れり。其の整比を經れば、乃ち遂に前良に逼るのみ。

諸葛恪伝の評価が高すぎ。比較対象を特定すると、言いたいことがめちゃくちゃ分かるだろう。要調査。


恪盛陳其必㨗、權 恪に撫越將軍を拜し、丹陽太守を領せしむ。
張溫 未だ竟らざるの績(丹陽から徴兵するお仕事)なり。元遜 之を收む。

乃ち移書四部、屬城長吏より漸出降首に至るまで。
先に之に使すれども、略する所無し。而して後に之に困さば、則ち出でざるを得ず。「四部」は、當に「四郡」に作るべし。即ち上に謂ふ所の「四郡」と鄰接すなり。『御覽』は正しく「郡」に作る。

復た遠く斥候を遣りて、觀相徑要。欲圖壽春、權 以て不可と為す。
以て不可と為すは、蓋し此の地 南北の襟喉なるを以てなり。其の地を得ると雖も、十萬の衆に非ざれば、屯守するに足らず。若し魏 傾國して來爭せば、恐らくは利鈍に致らん。其の後、恪 新城に出でて、此の規を卒へんと欲す。又 輕々しく大衆を用ひて、圖るに漸を以てせず(じわじわ段取りよく攻めなかった)。遂に師は老し民は愁ふに致る。家族 傾覆す。

詳しい戦局の分析なのだ。


權疾困、恪・宏及び太常の滕胤・將軍の呂據・侍中の孫峻を召して屬するに後事を以てす。
注採『呉書』曰く、權 寢疾し云云。按ずらく、峻は始め恪を保ちて、而れども後に乃ち相 圖る(孫峻が諸葛恪を殺そうとした)。權の勢、共に此の如くし難し。

注、諸々の法令に不便なる者有らば、條列して以て權に聞さば、輒ち之を聽す。
權 在りし時に及び、紀を改む。此れ遠見有り。當に成敗を以て論ずべからず。

法令の不備を、いちいちちゃんと改めたという点で、孫権は優れている。最終的に孫権が政治を乱し、呉を滅ぼしたとて、このこと自体は評価されるべき。


衆を東興に会し、更めて大隄を作り、左右結山俠築兩城より振旅而歸に至るまで。
兩城を築すは、人を致す(主導権を握る)所以なり。新城を攻むれば、則ち人に致さる(主導権を奪われた)。然らば此の舉、勝なると雖も、已に之を失ふこと驟(すみ)やかなり。

注採『漢晉春秋』、今 敵の政は私門に在り。外內は猜隔すより破之必矣に至るまで。
誠に是の形有り。但だ亦た當に己を審らかにすべし。

自分の国の政治も、私門に傾いていないか反省しろと。いじわるなコメント。


恪、乃ち論を著して衆意を諭す。
此の論 武侯(諸葛亮)散関を出づるの表(出師の表)を祖述す。

每に覽ず、荊邯 公孫述に說くに進取の圖を以てするを。近く見る、家の叔父(諸葛亮)表陳して賊と爭競するの計を。未だ嘗て喟然として歎息せざるなきなり。
元遜(陸遜)但だ知る、忠武(諸葛亮)頻煩に出師するも、而れども其の農に務め穀に殖むるに規(かぎ)らず、関を閉ぢ民を息むること三年にして、而して後に南征す。還師の後、又 力を蓄ふること一年にして、乃ち漢中に屯し、其の明年に始めて祁山を攻むるのみ。惡ぞ一勝を狃(むさぼ)ること有らんや。(孫呉の)主は少なく國は疑あり。羣情 未だ一ならず。遽かに輕舉を圖る者なるや。是の役なり。新城に克つと雖も、歸將 免ぜず。而して況んや衆に違ひて冦を玩び、自焚を戢むるに弗ず。釁は馬謖に非ず。貶三等を請はず。創夷の衆に謝らず、同異の口を塞ぐ。乃ち更に興作せん(更なる攻撃の続行)ことを思ひ、愈々威嚴を治めんとす。虹は繞し鼉は鳴し、身分族赤。虎を畫きて狗に類るなり。元遜の謂なるかな。

諸葛亮と比べて、諸葛恪はほんとにダメだ、と強調したい。

荊邯の語は、『後漢書』公孫述傳中に見ゆ。

於是、違衆出軍より驅略民人に至るまで。
若し民人を驅略し、邊界に曜武するに過ぎざれば、但だ督將を選びて利を伺ひて、動かば足れり。何ぞ必ずしも二十萬の衆を發するや。今 既に大舉して、又 諸將の言に惑ふ。兵を頓し城を堅くするの下に、是れ徒だ爾れ大なるを好むのみか。乃ち素より成算無き者なり。

効果のない大動員を批判しているだけ。


滕胤伝

滕𦙍傳、𦙍白日接賔客、夜省文書或通曉不寐。
注採『呉書』に曰く、胤の寵任 彌々髙きも、士に接して愈々下し。表奏書疏 皆 自ら經意あり、以て下に委ねず。按ずらく、「經意」の處とは、即ち疏なる處なり。上 相 出征せば、其の門 市の如し。即ち異同の嫌、專擅の咎、將に自ら此れ構ふなり。胤 恪と特に未だ久しからず。故に敗るる無きのみ。

孫綝伝

孫琳傳、光祿勲の孟宗をして廟に告げて亮を廢せしむ。
孟宗 此を恨むらくは、大節無ければなり。紀す可し。(高貴郷公を廃した)王祥と皆 一行なるのみ。

又壊浮屠祠、道人を斬る。
『釋子』稱すらく、僧 赤烏の年に到ると。此れ是れ其の證なり。笮融は丹楊の人なり。意は其れ煽ふ所にあるなり。

赤烏より昔の笮融は、煽るだけで、正式な仏教徒ではない。


休 既に即位するや、稱草莽臣、詣闕上書。
劉宗周(明末の学者)南渡せし時に上書し、號草莽臣。是より史書の失を観ず。

ちょっと意味が取れてません。


王蕃伝

王蕃傳、永元に劉洪の「乾象歴」を傳ふ。乾象法に依りて、而して渾儀を制る。立論考度、具さに『宋書』天文志中に載す。此の注 採ることを失せり。

賀邵伝

賀邵傳、注『呉書』曰く、邵は、賀斉の孫なり、景の子なりと。
按ずらく、景は、賀斉の弟なり。邵は、乃ち從子なり。孫に非ざるなり。『呉書』誤なり。

もっとも単純な血縁の誤記。


韋曜伝(韋昭伝)

韋曜傳、時に蔡頴も亦た東宮に在り。性は博奕を好む。太子和、以て無益と為す。曜に命じて之を論ぜしむ。
此の事 已に和傳に載すれば、省く可きが似きなり。

重複して掲載していることの指摘。


評に、必不得已、元宜在先より、庶幾忠臣矣に至るまで。
瑩の言 既に覈に及ばず。冲 又 謂ふらく、樓は宜しく先に在るべしと。故に評家は、之が為に、折衷す。然れども邵も亦た直を以て廢せらる。

陳寿の評の人物評価についての分析。