いつか書きたい三国志

孫毓修『史通札記』より何焯の校文

孫毓修『史通札記』より

孫毓修『史通札記』より、何焯の校勘に関する文を抜粋。230504
https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=77665&page=140

序録

十行目、「司」。「思」は、何焯は「思」の字は「意」に改めるべきとする。

十六行目の「日」、十七行目へ。
張之象本は夾注がない。二十四字は、何焯が朱筆で補い入れたもの。
補ったのは、「闕くる所の篇を除き、九八万二千三百五十二字、註五千四百九十八字なり」。
何焯が、すでに欠けていた篇を除いたら、何文字あるかを説明している。

「弛張」の下に、何氏はいう。末三篇はともに亡す。あるひとは云う、体統篇は、すなわち自叙であるのだ。孫毓修 あんずらく、『羣書拾補』によると、宋本は外篇の目録を欠く。張之象本にこれがあるのは、正しくない。

『史通』巻一

三葉六行、「按」は、何はともに「按」に改める。以下同じ。

「哀公」は、何によると、抄本は「定公」につくるけれど、「定哀」に改めるべきかと疑う。

『義門読書記』巻十四に、「賛不參彼己將率 鈍吟云參彼己者即兵法云知彼己也注引詩彼己之子似失之 下即繼以衛霍公孫宏而全錄主父偃諫伐匈奴書太史之意深矣 此賛以定哀微詞發端當知此意」とあり、
「然黯見蚡未常拜常損之 損作揖賛一貴一賤交情乃見 北雍本作交態乃見 葉石君云循吏傳後即次以汲黯其以黯列于循吏乎何太史公深得春秋之㫖所謂定哀之際則微也武帝好為更張黯尚無為之化而以鄭當時附之盖當時尚黄老言亦無為云予嘗讀二漢書班有循良傳盖指武宣時之刻覈而表揚之以為循良之難得也范則如杜詩之儔皆置之列傳盖光武明章之代吏皆謹慤不必另立名目也此又史家論世深㫖法太史公而妙者也儒林列傳 尚書不列孔安國傳其書未列于學官也申公篇令申公傅其太子戌 戌作戊」とある。


『史通』巻二

一葉六行「得」は、何焯は抄本に「得」字がないという。

張之象は、よよ史官……とつくる。何焯は、鈔本では「官」の字がないという。

「貞」は、「真」。何焯は、「真」という字の下に、「貞」の字を添える。

「闌」は、何焯は、一に「闡」につくるという。

十葉一行の「媸」は、何焯は一に「嗤」につくるという。

十一葉三行の「遺」は、何焯は一に「異」につくるという。

殿の字は、當に衍なり。「方思格」につくるべき。魏太和中、旣に氏族の高下を定む。按ずらく此れ選舉を以てす。何は云う、馮校にも、「殿」の字がある。

『史通』巻三の「中原有方思殿格」というところ。


『史通』巻七

九行、「此義、安可言於史耶下」。

何氏、馮本に從ひて、「夫史之曲筆誣書」より「盜憎主人之甚乎」に至るまでの十一行を增入す。刻本、誤りて鑒識篇中に入る。顧千里 云ふらく、此の一百九十九字、當に曲筆に入るるべからず。李百藥、以魏收為實錄魏徵以王劭為有慚正直皆子玄所擿鑒識之謬者耳。若し曲筆なる者 載事にして其の實を失はば、鑒識なるは者、評史にして其の理二篇の別に乖ること此れ在り。

二行の「永」は、張本は、「體」につくる。何は、據本によって「本」につくる。

十四葉二行「宗通」は、張本は「宗道」につくる。何は、「守道」につくる。

『史通』巻九

「眞律寧楹」は、何は未詳という。……

『史通』巻十

「足+シュン」 義門は、『漢書』によって「シュン+しんにょう」に改めるべきとする。しかし、これは非である。

『史通』巻十二

八行めの「逮」は、張本は「至」につくる。何焯は衍文とする。

『史通』巻十二

九行めの「抵忤」は、張本は、「抵啎」につくる。何焯は「抵梧」につくる。

『史通』巻十三

六葉五行目「祝」は、張本は「祀」につくる。何氏は「説」につくる。

『史通』巻十六

十行目の「鄧通伝」より以下三十三文字は、何氏は、下一条にあるべきという。

https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=77664&page=155#%E9%84%A7%E9%80%9A
史記鄧通傳云、帝崩、景帝立、向若但云景帝立、不言文帝崩、斯亦可知矣。何用兼書其事乎。


六葉九行「游夏冉季」の下、何は二字(「冉季」)がないという。顧氏は、『拾補』をひいて、同じ。

游夏之文學著循吏、則不言冉季之政事


原文は、「遷史缺而不載良有以焉」。
https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=77665&page=38
「良有以焉」下に、張本は、「遷史編於李傳中、斯為繆矣」の十一字がある。何氏は、「缺而不載」という。これは、「班氏之善」とすべきで?、遷の字は、伝写の誤り。これは『通史』子卿は、使還子長下世久矣。劉氏、不應、若是善忘也。顧も亦た「遷」にすべきという。「通」の字は、誤りである。

異同がよく分からない。まちがっているかも。


『史通』巻二十

五行目「權門王劭」について。
從文粹及厚齋語改韶顧云劭何改韶非也此是隋王君懋著齊志二十卷隋史八十卷者直書見 十行讎見鑑識篇或改入曲筆誤始于《困學紀聞》義門沿之耳。
『文粹』及び『厚齋語』に從ひて「韶」に改む。顧 云ふらく、劭なり。何 韶に改むるは、非なり。此れ是れ隋王君懋 『齊志』二十卷・『隋史』八十卷を著すは直だ書 見ゆ。十行讎見「鑑識篇」或いは改めて「曲筆」に入るるか。誤りは《困學紀聞》に始まり、義門 之に沿ふのみ。

蜀本第五卷第七卷皆有錯誤此本於第五卷已刋正惟此曲筆篇中十一行誤在鑒識篇中賴得馮氏閱本正之後有重刻《史通》者可取徴也康熙丙戌中秋焯識
蜀本第五卷・第七卷、皆 錯誤有り。此の本 第五卷に於て已に刋正す。惟だ此の曲筆篇中の十一行のみ、誤りて「鑒識篇」中に在り。賴得馮氏閱本、正之後、有重刻《史通》者、可取徴也。康熙丙戌中秋、焯識す。

これが何焯の認識だが、以後、孫毓修がその誤りを指摘していく。


後見萬曆中郭氏刋本、已正其違錯書。固須遍觀也癸巳冬至又識。

「曲筆」「鑒識」二篇、並無錯簡。馮氏閱本、萬曆所刻、皆誤。而何氏跋語、尚失之。顔黃門云、挍定書籍、亦胡容易。洵然、道光癸未、觀於揚州洪氏之績學并記六月一日思適居士顧千里。巳上卷七後。

何焯は、曲筆篇に錯簡を指摘し、それが独自見解であったが、これは否定されている。


「先王父有節」、錄「內篇」。乙亥夏、得之篋、衍用以𠫵校。後改數字、焯書。

甲申冬日、重閱又、改數字。戊戌春日、重閱、又改數字。仍多疑、而未定者。可以驗吾學之陋。老而無聞矣。書示餘兒、庶用為鑒誡。早自鞭策也。巳上皆卷十後。

甲戌十二月、歸自臨沂整比家中舊書因抽此帙以消殘臈。按張氏、謂曾得宋代刻本、乃譌舛正待點勘何歟。為卽其顯著者、雌黃數處疑者則仍闕焉。廿又八日、焯書於貞志居

觀《玉海》中所引《史通》、亦有譌字・脫文。乃知此書、自宋時、卽尠善本、或不至若此甚耳。甲申除夕、重閱盡此卷、因而識之時、住八貝勒邸中焯。

以下は、何焯よりあとの時代の文かな。

已丑重陽、從錢楚殷借得孱守居士閱本因錄其評語其在行側者錄之闌下議論亦多英快虞山學者極矜重之僅季滄葦侍御一人嘗通假爾非楚殷好我末由見也始誤以為牧翁初入史館時所閱故闌上下皆寫錢評詳質之楚殷乃改正云錢遵王讀書敏求記云陸文裕公刻蜀本《史通》、其補注因習曲筆鑒識四篇殘脫疑誤不可復讀文裕題其篇末而無從是正舉世罕覩全書云云卽此本也予向收得别本。是萬曆時長洲張鼎思據此重刻曾經同時人孫潛潛夫用葉石君校定本對讀者亦旣於脫簡處一一補錄完好矣錯誤處仍皆移正洵善本也因照臨一過黃蕘圃蓄沈寶研家本未知相校若何。他日借勘之澗薲居士記時寓無為州。

無為寓館了無一書可檢向所雌黃多是義門諸氏、所已有當推還之獨存其新知耳。然於此頗自喜其暗合古人處九月重閱記于城南草堂。

沈寶研家本係其所臨馮巳蒼評。何義門校也。借勘一過九月十四日澗薲記。

《史通》明時第一刻為嘉靖乙未陸儼齋深蜀本因習曲筆兩篇並有闕文萬曆三十年壬寅張鼎思復校陸本曲筆篇增四百卅餘字鑒識篇增三百餘字而去其自他篇羼入者六十餘字并删去儼齋兩跋較為可讀而譌誤尚多涵芬樓藏張本經孫潛夫顧千里勘過已勝刻本叢刋旣據張本付印孫顧校語儗為别錄聞江安𫝊沅叔總長有何義門校本、又有過。錄顧千里校本不費一瓻居然借到何氏自跋謂據孱守居士評本其底本則萬曆五年丁丑張之象刻本也而曲筆篇後亦有顧氏手跋則此本千里曾見之千里别有校本藏上元鄧正闇太史家保山吳慈培借錄於張之象本上顧校外更有何校並不知姓名者一家丹黃雜糅精審不苟今亦為沅叔總長所有一旦盡得為予借讀左右逢源殊為快事何校自佳顧則時採羣書拾補以證之顧引羣書拾凡五百二十條亦有直下已意譏彈舊校,如〈曲筆篇〉者。此類尚多。其于子玄之書用力可謂勤矣今據各本錄為札記其不出姓氏者何氏語也曰鄧本者不知姓氏之一家也史通校本向以抱經為最精今復得此洵足訂正通釋之誤矣壬戌八月孫毓修跋。

『史通』巻七 曲筆篇・鑒識篇

『史通』曲筆第二十五

肇めに人倫有り、是れ家國を稱せば、父は父たり子は子たり、君は君たり臣は臣たり、親疏 既に辨じ、等差 別有り。蓋し、「子為父隱、直在其中」、《論語》の順なり。外を略し內を別し、惡を掩し善を揚ぐるは、《春秋》の義なり。茲より已に降らば、率に舊章に由る。史氏 事涉君親に有らば、必ず言 多く隱諱し、直道 足らざると雖も、而れども名教 焉に存す。其れ舞詞弄札有り、飾りて文過に非ざるは、若王隱・虞預 毀辱し相凌し、子野(裴子野)・休文(沈約)釋紛 相 謝す(ある本は「射」に作るが誤り)。用舍 臆說に由り、威福 筆端に行はれ、斯れ乃ち作者の醜行にして、人倫の同に疾する所なり。亦た事有りて每に虛に憑り、詞 烏有多く、或いは人の美を假り、藉りて私惠を為す。或いは人の惡を誣するに、持して己の仇を報ず。王沈《魏錄》は濫述して甄の詔を貶め、陸機《晉史》は虛張して葛(諸葛亮)の鋒を拒する若くあり、班固は金を受けて始めて書き、陳壽は米を借りて傳を方す。此れ又た記言の奸賊にして、載筆の兇人なり。肆諸市朝す(『論語』)と雖も、投畀豺虎する(『詩経』)も可なり。

然して則ち史の直ならざるは、代々其の收書有り、茍し其の事 已に彰はるれば、則ち今 取る所無し。前人 說過するを謂ふ。

其れ往賢の未だ察せざる所にして、來者の知らざる所有り。今 略ぼ異聞を廣め、用て先覺に標さん。案ずらく『後漢書』更始帝劉玄伝は、其の懦弱なるを稱し、其れ初めて即位するや、南面して立ち、朝の群臣、羞愧して流汗し、刮席☆して敢て視ずと。
夫れ聖公 身は微賤に在るを以て、已に能く客を結し仇を報し、難を綠林に避け、名は豪傑為り。安ぞ貴くして人主と為り、而れども反りて斯に至る者有るや。將に作る者 曲筆し時に阿り、獨り光武の美と成す。諛言し主に媚ぶるは、用て伯升(光武帝の兄)の怨を雪ぐなり。且つ中興の史は、東觀より出で、或いは明皇 明帚に即く。定むる所は、或いは馬后 刊る攸とならん。而して炎祚 靈長たりて、書を簡びて改むる莫し。遂に他姓をして追撰せしめ、空傳偽錄ならしむる者なり。

陳寿『三国志』後主伝云はく、「蜀に史職無く、故に災祥 聞く靡し」と。案ずらく、黃氣 種歸に見はれ,群鳥 江水に墮つ。成都 景星 出づる有りと言ひ、益州 宰相の氣無しと言ふ。若し史官 置かざれば、此の事 何に從りて書するや。
蓋し父 辱められて髡を受くるに由り、故に茲に謗議を加ふる者なり。

陳寿の父の陳式が髠刑にされたという説に基づいて、劉知幾は解釈している。
『義門読書記』巻二十七:又 國 史を置かずより猶ほ有未周焉に至るまで。
呉蜀の主 均しく傳と曰ふと雖も、然れども皆 編年紀事は史家の例に于てす。實に亦た紀なり。紀なれば則ち災異 當に詳書すべし。而れども舊史は其の承傳を闕く。是を以て作者 此を用て自ら明なり。此を持して以て葛相を詆毀せんと欲するに非ず。


■以降しばらく魏収『魏書』の批判
古者 諸侯 並爭し、勝負 恆無く、而して他の善 必ず稱へ、已の惡 諱まず。近古に逮ぶや、至公たること聞く無く、國は自ら稱して我を長と為し、家は相 彼の短を謂ふを為す。而らば魏收 以元氏出於邊裔,見侮諸華,遂高自標舉,比桑乾元魏開國處。於姬、漢之國;曲加排抑,同建鄴於蠻貊之邦。

北魏の事例。


夫れ敵國を以て相 仇とし、兵を交へて怨を結し、諸を載せて檄を移し、用て誣を致す可く、諸の緗素を列べて、史と謂ふ。妄說と為し難し。茍し未だ此の義に達せざれば、安ぞ史と言ふ可きや。

戦場で自分を持ち上げ、敵国を罵るのはOKだけれども、歴史書のなかでそれをやってしまったら、それは史書なのだろうか?


夫れ史の曲筆誣書は、句、一二に過ぎざれども、語は其の罪負、失ふこと已に多しと為す。而らば魏收 雜以寓言,殆將過半(北魏書は半分以上が作り話だから)、固以王本作「知」。倉頡已降(文字ができて以来),其の流を見る罕し。而して李氏《齊書》(李百薬の『斉書』)もて稱して實錄と為す者は、何ぞや。蓋し重規を以て李百藥字。亡考 未だ達せず、伯起 公輔を以て相 加へ、字は大名に出づ。事は元嘆(元歎、顧雍)に同じく、既に德として報ゆる無し。

増井訳によると、呉の顧雍が、蔡邕からあなたは見所があるから同じ名を名乗ろうといわれた話。

虛美もて相 酬ゆのみ。然して必ず(『論語』に)昭公 禮を知ると謂ふも、吾 信ぜざるなり。語(ことわざ)に曰く、「其の賊為るを明らかにせば、敵 乃ち服す可し」と。王劭の抗詞不撓が如きは、可以て方駕古人。而れども魏收 持論激揚し、稱其有慚正直。夫れ其の罪を彰らかにせず、劭 著す所の諸史と謂ふは、實を指す所無し。而して輕々しく其の誅を肆にし、此所謂兵起無名、難為制勝者。尋此論之作,蓋由君您書法不隱,取咎當時。或有假手史臣,以復私門之恥。不然,何惡直醜正,盜憎主人之甚乎!

下線部を、何焯は曲筆篇に入れるべきとし、しかしもともと鑒識篇に入っていた。


蓋霜雪交下,始見貞松之操;國家 喪亂するや、方驗忠臣之節。漢末の董承・耿紀が若きは、魏に在りて曲せらる。晉初の諸葛・毋丘は、晉に在りて曲せらる。齊興而有劉秉、一訛作「康」。袁粲,曲在齊。周滅而有王謙、尉迥;曲在隋。斯れ皆 家を破り國に殉じ、死を視ること猶ほ生けるがごとし。而れども歷代の諸史、皆 之を書して逆と曰ふ。將何以激揚名教,以勸事君者乎!古之書事也,令賊臣逆子懼;今之書事也,使忠臣義士羞。若使南・董(南史・董狐)靈有らば、必ず切齒於九泉之下矣。

■貞観以降の同時代批判
自梁、陳已降,隋、周而往,諸史皆貞觀年中群公所撰,近古易悉,情偽可求。至如朝廷貴臣,必父祖有傳,考其行事,皆子孫所為,而訪波流俗,詢諸故老,事有不同,言 爽實多し※。昔秦人不死,驗苻生之厚誣;蜀老 猶ほ存し、葛亮の枉多きを知る。斯れ則ち古より嘆く所にして、豈に獨り今に於けるのみや。

蓋し史の用を為すや★、功を記し過を司し、善を彰し惡を癉す。得失は一朝なるも、榮辱は千載なり。茍し斯の法に違はば、豈に能官と曰ふや。但だ古來 唯だ聞くらく直筆を以て誅せらるるも、聞かず曲詞を以て罪を獲るを。是を以て隱侯沈約。《宋書》妄多きも、蕭武梁武。知りて尤とする勿し。伯起《魏史》不平,齊宣覽而無遺。故令史臣得愛憎由己,高下在心,進不憚於公憲,退無愧於私室,實錄を求めんと欲すれども、不亦難乎?嗚呼!此亦有國家者所宜懲革也。篇末歸到功罪失平,勸懲倒置,斯為探本深言,益透前篇寄慨隱衷。

高官・国家に迎合して、事実でないことを書いても、それによって処罰されることはないから、いい加減な記述がまかり通ってしまう。蜀の諸葛亮の誤伝は、蜀の故老によって正されたけれども、それがつねにできるわけではない。沈約『宋書』、伯起(魏収)も咎められなかった。


『史通』鑒識第二十六

鑒識(良し悪しを判定する見識)第二十六
夫れ人の識は通塞有り、神は晦明有り、毀譽 之を以て同じからず。愛憎 其の各々異なるに由る。蓋し三王の謗りを受くるや,魯連(戦国斉の魯仲連)に值たりて申を獲たり(『文選』)。五霸の名を擅にするや、孔宣に逢ひて詆せらる(董仲舒伝)。斯れ則ち物に恆準有り、而して鑒に定識無し。銓核して中を得んと求めんと欲し、其れ唯だ千載に一遇なるや。況んや史傳 文を為るや、淵浩にして廣博なれば、學者 茍し探賾索隱し、致遠鉤深する能はざれば、以て其の利害を辯じ、其の善惡を明らかにするに足らん。

見識者によって、はじめて善悪が明らかになる。歴史書の記述は大量だから、


《左氏》の書を觀るに、為傳之最(『左伝』が三伝のうち、もっとも優れているが),而時經漢、魏,竟不列於學官,儒者皆折此一家,而盛推二《傳》。夫以丘明躬為魯史,受經仲尼,語世則並生,論才則同恥。一作「體」,非。彼二家者,師孔氏之弟子,預達者之門人,才識本殊,年代又隔,安得持彼傳說,比茲親受者乎!加以二《傳》理有乖僻,言多鄙野,方諸《左氏》,不可同年。故知《膏育》、《墨守》,乃腐儒之妄述;賣餅、太官,誠智士之明鑒也。

増井訳によると、曹魏の厳翰は『公羊』を好み、従容は『左伝』を好んで、互いに長短を論じ……と補われている。


逮《史》、《漢》繼作,踵武相承。王充著書,既甲班而乙馬;張輔(曹魏の張晏)持論,又(班)固を劣として(司馬)遷を優とす。原注:王充謂彪文義浹備,紀事詳贍,觀者以為甲,以太史公為乙也。張輔《名士優劣論》曰:「世人稱司馬遷、班固之才優劣,多以班為勝。餘以為史遷敘三千年事,五十萬言,班固敘二百年事,八十萬言。煩省不敵,固之不如遷必矣。」然此二書,雖互有修短,遞聞一作「有」。得失,而大抵同風,可為連類。張晏云:遷歿後,亡《龜策》、《日者傳》,褚先生補其所一無「所」字。缺,言詞鄙陋,非遷本意。案遷所撰《五帝本紀》、七十列傳,稱虞舜見陋,遂匿空而出;宣尼既殂,門人推奉有若。此二事又於《暗惑》篇論之。其言之鄙,又甚於茲,安得獨罪褚生,而全宗馬氏也?劉軌思商榷漢史,雅重班才;惟譏其本紀不列少帝,而輒編高後。案弘非劉氏,而竊養漢宮。時天下無主,一作「君」。呂宗稱制,故借其歲月,寄以編年。而野雞行事,自具《外戚》。譬夫成周成王。為孺子,史刊攝政一作「正」。之年;厲亡流彘,歷紀共和之日。而周、召二公,各世家有傳。句必有誤,詳此句當云「各有世家」。班氏式遵曩例,殊合事宜,豈謂雖浚發於巧心,反受嗤於拙目也。 27 劉祥撰《宋書。序一脫「序」字。錄》,歷說一作「序」。諸家晉史,其略云:「法盛《中興》,荒莊草盛貌。一作「拙」。少氣,王隱、徐廣,淪溺罕華。」夫史之敘事也,當辯而不華,質而不俚;其文直,其事核,若斯而已可也。一作「矣」。必令同文舉之含異,疑當作「末異」。等公幹之有逸,如子雲之含章,類長卿之飛藻;此乃綺揚繡合,雕章縟彩,欲稱實錄,其可得乎?以此詆訶,知其妄施彈射矣。 28 夫人廢興,時也;窮達,命也。而書之為用,亦復如是。蓋《尚書》古文,《六一作「七」。經》之冠冕也;《春秋左氏》,三《傳》之雄霸也。 29 而自秦至晉,年逾五百,其書隱沒,不行干世。既而梅氏寫獻,一作「狀」。杜侯訓釋,然後見重一時,擅名千古。若乃一無「若乃」二字,一止有「乃」字。《老經》撰於周日,《莊子》成於楚年,遭文、景而始傳,值嵇、阮而方貴。若斯流者,可勝紀哉!故曰「廢興,時也;窮達,命也。」適使時無識寶,世缺知音,若《論衡》之未遇伯喈,《太玄》之不逢平子,逝將煙盡火滅,泥沉雨絕,安有歿而不朽,揚名於後世者乎!

四部叢刊本の段落ち。
https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=77663&page=65
按ずらく、「曲筆篇」の(更始帝伝の)「𣴑汗刮席☆」より下、便寫至如 朝廷言を止めて爽實多し※までの、凡そ三十七字、盖し史の用を為すや★より絶、「鑒識篇」に屬さず。不可同年下云。故に知る、「席を割けて☆敢て視ず」云云は、「割席☆」、疑承刮席為文、逮漢史 繼作上まで、亦た其の後文に屬さず、雜亂多く、章句と為し難し。始め其の錯簡為るを知り、因りて訂正を加ふること此の如し。此の書の「外篇」别に有㸃煩云、回易數字、加足片言分布得て彌縫する所、無闕。寔公言也。故に敢て如例云、爾是嵗嘉靖乙未秋七月、既望雲間、陸深謹識。