いつか書きたい三国志

23年春の読書

郭成康・林鉄鈞『清朝文字獄』

郭成康・林鉄鈞『清朝文字獄』群衆出版社より。

順治帝と康熙帝の両朝における文字獄

順治四(1647)年、『変記』を著した函可が南京で捕らえられた。『変記』は、抗清の志士の悲壮な事績を記録していた。摂政王ドルゴンは函可を京師に護送させ、瀋陽に移した。これが清朝の血なまぐさい文字獄史の始まり。
順治十六年(1659)年、寒冷な異郷で、函可は死んだ。不屈の精神により詩をつくり、これが弟子によって死の44年後、『千山詩集』として出版された。さらにその70年あまり後、禁書をおこなう乾隆帝の目にとまり、「語は狂悖多し」と評されて、碑文などが破壊された。

函可の文字獄は2段階あって、1段階は、函可の生前に『変記』が順治帝の時代に咎められたこと。2段階は、死後(康熙帝期)にまとめて刊行された『千山詩集』が、乾隆帝のときに咎められたこと。
あいだにいちど緩和があって、『千山詩集』を出版できている、というのが大切。

『千山詩集』が世に問われたのは、康熙四十二(1703)年。政治問題によって流罪になったひとの詩集が出版されている。当時の規制があまり厳密ではなかったことを示す。順治帝と康熙帝(1644~1722年)の80年間は、文字獄が開始された時期でああるが、「文禁」はなお寛大で、雍正帝と乾隆帝の時期とは異なる。

順治帝と康熙帝の80年間は、時局の変化により、曲折して文字獄が発展した。 1644年に入関、1661年に明の永暦帝が死。各地で戦乱があるのに、漢族の士大夫が著した文字を吟味することはなかった。函可の史獄は、偶発的な事件であり、統治集団の内紛や矛盾と関わりがある。
1648年の毛重倬の「坊刻制芸序案」が、順治帝の年号を使わずに告発されたが、これは「正統」に関わる重要な問題。

順治帝が崩御すると、4人の輔臣が8歳の康熙帝を支えた。四輔臣の時期は、清朝文字獄が盛んに行われた時代。
四輔臣のとき、荘廷鑨の「明史獄」がおきた。荘廷鑨は失明したが、左丘明が失明してから『国語』を編纂したことに励まされ、明末の朱国禎が着手して未完成だった『明史』を購入して、崇禎帝(在位1627-1644年)と南明の故事を補って著した。清朝の正統性を認めずに、貶めるような書き方をした。1663年(康熙二年)、荘廷鑨の棺があばかれ、221人が法に伏した。 呉炎と潘檉章は、若い歴史家であり、明の滅亡時に20歳になるかならないかだったが、私人で『明史』を編纂していた。顧炎武は2人に蔵書を貸し出していた。2人が殺されると、顧炎武は2人を悼む文をつくった。

小澤文四郎「清代文字獄档を読む」
湯浅幸孫「<論説>湖州荘氏の史案と参訂の史家」
いずれもweb上にPDFあり。


四輔臣によって「逆書」とされたのは、閔毅夫と呉敬夫が撰述した詩集。閔毅夫と呉敬夫は、『唐詩』を批撰し、『嶺南集』をつくった。

康熙八年(1669)、四輔臣の時代が終わり、文字獄の悪い方向での発展はとどめられた。1673年、呉三桂が三藩の乱を起こし、知識分子への政策は転換を迫られた。十二年に山林の隠逸を登用するように命じ、十七(1678)年、博学鴻儒科が設けられ、十八(1679)年に『明史』館が解説された。

武力制圧による明の滅亡、『明史』を編纂したひとを文字獄で逮捕する、(順治帝、四輔臣、康熙帝の親政へという朝廷の代替わり)、呉三桂の三藩の乱が起こる、漢族の知識人に対して態度を軟化、漢人の知識人を取り込む、清朝が『明史』に着手する(漢人に『明史』を作らせる)、
という時代の流れがある。

毛奇齢(1623-1716年)は、武装して清に抵抗していたが、敗れて沙門になり、「続哀江南賦」「白雲楼歌」をつくって、明朝を忘れられない気持ちを歌っていた。康熙帝が政策を変更し、毛奇齢はこれに感化され、博学鴻儒に応募して、翰林院検討を授けられた。康熙二十年(1681)、三藩の乱が平定されると、毛奇齢は「平□頌」を康熙帝に献上した。清末の章太炎は、「晩節 終えず」と批判した。毛奇齢を翻意させたのは、康熙帝の政策変更がおさめた成功であった。漢族の知識分子への緩和的な政策は、容易ではなく、いかなる歴史的な必然性もなく、康熙帝の個性による偶発的な判断だった。

ここ、おもしろいですね。


康熙二十一年(1682)に、比較的著名な朱方旦の事件が起きたけれども、知識分子を動揺させる文字獄の事件は起きなかった。「勝国(明朝を指す)遺民」と称された著作が、陸続と出版された。函可の『千山詩集』が出版されたのも、そのひとつ。
康熙年間に、顧炎武の詩文集のうちで、「違碍」とされたものが、この時期に刊行された。

「違碍書目」は、乾隆帝のときに禁書されたもの。


顧炎武は、荘廷鑨『明史』案に関して、自分はいかなることがあっても、官修『明史』に参加しない、という決意を語った。清軍の暴力的な行為についても書いていた。
王夫之の民族情緒は、顧炎武よりも激しい。
『読通鑑論』に、天下の大防は二つあり、ひとつは「華夏」と「夷狄」だとした。王夫之の意見では、「夷狄」とは「異類」であって、殺しても奪っても構わない相手だ、と言っていた。これは直接的に公然と、漢族が満州から造反するという号令であるが、康熙帝期には追及されなかった

清初以来、とても敏感な学術領域は歴史である。函可『変記』と、荘廷鑨『明史』案であるが、「文禁」が康熙帝によって緩められると、つぎつぎと書かれた。計六奇の『明季南略』『明季北略』は、康熙十年(1671)につくられた。温睿林『南疆逸史』は、1701年に完成した。
人々の心配を打ち消すために、康熙帝は明確な政策を打ち出していた。「凡旧刻文巻、有国諱勿禁。其清・明・夷・虜らの字、則ち史館に在りて上諭を奉り、無避忌者」とある。康熙帝は、開明的で寛容であり、清朝の皇帝の唯一である。
清朝諸帝中真可说是绝无仅有的。

しかし康熙帝の晩年、康熙五十年(1711)、戴名世『南山集』の大獄が起きた。官修『明史』に十全で無いところがあるとして、『明史』を私撰した。戴名世は、『明史』を担うに足りるものであったが、『明史』に着手する前に、禍いがおこった。『南山集』のなかに、明の亡命政権による清朝への抵抗を正当化した部分があるとされた。これは、康熙帝の後継者の問題が関係していた。

順治帝・康熙帝の80年間は、四輔臣が専政した短い期間をのぞいいて、清の統治者は、文字獄という口実を作って、反清の知識分子を弾圧しようという意識はなかった。少なからぬ事件は、漢人のあいだの党派抗争によって生まれた。
康熙帝は信頼する李光地に対して、「きみたちは互いに迫害しあっているが、満州人のだれがきみたち(漢族)を迫害したかね」と言った。230323