いつか書きたい三国志

王夫之『読通鑑論』より(後漢末~西晋武帝)

後漢の霊帝

王夫之『読通鑑論』より
王夫之は明末清初の学者で、とくに歴史に関して意見のあったひと。有名なまとまった著書は、『読通鑑論』『宋論』である。『読通鑑論』は、『通鑑』にあらわれている事実を論じたもので、史法とは関係なく、まったくの史事の論である。
内藤湖南『支那史学史2』(東洋文庫)、66頁。

◆孫堅の進言で董卓を殺さなかった件
孫堅の董卓を誅せんと欲し、張廷珪の安祿山を殺さんと欲するや、論者は其の果たさずして終に以て亂を長くするを惜しむ。張讓ら中に蟊賊と為り、李林甫・楊國忠 相 繼いで國を朘削す。卓微(な)けれども漢は必ず亡び、祿山微(な)けれども唐は必ず亂る。夫れ豈に二豎の果たして以て天を移して海を沸すに足るや。何進 卓を召さざれば卓 何ぞ逞ならん。玄宗 祿山を寵せざれば祿山 何ぞ藉らん。逆未だ著はれずして以疑殺人、且つ不勝其殺矣。是の故に後事の論、其の末懲けれども其の本を戒めず、智者 尚ばざる所なり。
先主 曹操に呂布を殺さんことを勸め、而れども操の勁敵と為る者は、先主なり。孫堅の沈鷙して遠圖を懷くは、夫れ豈に卓の下に出づるや。張溫 假するに威福を以てせず、而れども卓をして相 制せしむれば、意計無きに非ざるなり。不幸にして卓の惡 成りて未だ以て溫の不豫を咎むる可からず。

◆後漢を救えるのは傅燮だけだった
漢の將に亡びんとするや、社稷の臣と為る可き者有るか。朱儁・盧植・王允 未だ以て之に當つるに足らず、唯だ傅燮のみ。黃巾を討ちて功有り、趙忠 之を致さんと欲して予め侯を以て封ずるに、燮 受けず。其の時に當たり、軍功有りて宦寺を拒み、直だ賞 及ばざるのみに非ず、還りて以て罪を受く。故に盧植 檻車に辱められ、王允 幾ど死を論ずるに於てし、皇甫嵩 其の印綬を奪ふ。燮 忠を拒みて忠 挫く能はず、其の名を憚かりて敢て害せず、燮の德威 讋權奄而して之を制するや、大なるかな。
燮の忠を拒むや、曰く、「遇と不遇とは、命なり。功有りて論ぜざるは、時なり」と。正を守りて競はず、命を安んじて已甚の辭を為さず、坦だ夷するに天に任ぬるを以てし、而して但だ其の己に在るを盡くし、自ら雅量を以て沖懷適然於寵辱之交、而小人 能く其の際を窺ふこと莫し。其の漢陽に在るや、曰く、「吾 世の亂るるに遭ひ、浩然の志を養ふ能はず、人の祿を食み、又 其も難を避けんことを欲せんや」と。方に且つ自ら遜きて以て引身之不早、而不待引亢爽之氣以自激其必死之心。夫れ是の如きは、豈に小人の屈す可き所なるか、又 豈に小人の傷つくる可き所なるか。燮が若き者は、託するに六尺の孤を以てし、色を正して從容として危亂を鎮む。植也・儁也・允也、智勇は形はるるも中藏 淺く、固より不足以測燮之涯量矣。故に知燮の徒だ節義の士のみに非ざるなり。允なるかな其の社稷の臣為る可きは。

◆王芬の霊帝廃位の計画は董卓より杜撰
王芬 靈帝の北巡に乘じ、兵を以て諸常侍を誅し、帝を廢して合肥侯を立てんと欲す。使し其の成るや、亦た董卓なり。天下 且に亟やかに起ちて之を誅し、其の亡 且に董卓より速からん。卓 韁兵を擁して征討を專らにし、何進の召有りて內主と為り、辨を廢して協を立て、大位 未だ定まらざるの初に在りて、協は慧にして之を立てんと欲するは、又 靈帝の志なり。然るに且に踵を旋さずして關東 問罪の師を興す。芬 斗筲の文吏なるを以て、猝かに起ること一旦にして、二十二年に位に安たるの天子を劫し、之を廢して疏族を立つ。力は卓より弱く、名は卓より逆たり。人の罪を問ふや、豈に徒だ卓の如きなるのみや。況んや其の輕躁にして狂動なれば必ず成す能はざるなるか。曹操は其の敗を料り、以て其の廢立の妄を止む、其の智の人に過ぐるに非ざるなり。皎然是非禍福之殊途、有心有目無不能辨也。
夫れ芬の狂は、何を以て迷ひて覺らざるや。陳蕃の子の逸 從臾之、而して襄楷 其の術を以て之に惑ふなり。故有積憤者、不可與圖萬全之術。挾技術者、不可與謀休咎之常。陳逸有不戴天之恨、身與俱碎而不恤、閔其志可也、而不可從也。若襄楷者、昂首窺天而生覬覦、君子之遠之也夙矣。此擇交定謀者之不可不知也。

董卓よりも杜撰な廃立計画が成功するわけがないだろうが。


◆袁隗・楊彪の政治判断はつたない
何進 輔政するや、而れども袁隗を引きて錄尚書事を同にす。隗の望は重く、位は尊く、權は盛なり。紹及び術 進と與に同に宦官を誅せんと謀り、而れども隗 任ずる能はず。進 董卓を召し、曹操・陳琳・鄭泰・盧植 皆 必ず亂るるを知り、而れども隗 止むる能はず。董卓 弘農を廢して陳留を立て、以て議して隗に示し、而れども隗 議が如く報ゆ。猶然として位を尸して大臣と為り、廉恥の心 蕩然たり。然れども且に終に卓の手に死して其の家を滅す。故に夫れ恥有る者は、智を以てするに非ず、而れども智は莫智於知恥。恥を知りて後に己有るを知る。己有るを知りて後に物の輕きを知る。知物之輕、而後知人之不可與居、而事之不可以不斷。故利有所不專、位有所不受、功有所不分、禍有所不避。不知恥而避禍、是夜行見水而謂之石、不濡其足不止也。以疲老荏弱之情、內不能知子弟之桀鷙、外不知姦賊之雄猜、自倚族望之隆、優游而圖免、而可謂有生人之氣乎。東漢の袁氏有ると楊氏有るや、皆 德望の巨室にして、世々公輔と為る。而れども隗 彪と與に終に以て位を貪りて其の恥心を捐つ。叔孫豹曰く、「世々祿するや、朽ちざるに非ざるなり」と。信なるかな。不朽に三有り、唯だ恥有る者は之を能くし、隗と彪とは、其れ朽久なり。

◆何進が宦官に負けた七つの原因
輕重の勢、若し返す可からざれば、之を返すに幾ど正に是に在るや、而れども人 知る能はざるなり。宦寺の禍、彌々東漢に延び、靈帝に至りて蔑以加矣。黨人 力めて之に抗して死し、竇武 之を誅せんと欲して死し、陽球 之を擊たんと力めて死し、後に孰か敢て身を以て水火を蹈みて姑く嘗試を為すか。然れども天下の盜 蠭起し、之を指數して挾むに以て名と為す。四海 窮民、受其の子弟の賓黨 濫大官大邑以朘削無餘者、皆詛咒而望其速亡。誅殺禁錮之子孫宗族、不與共戴天日而願與並命者、日含憤以求一旦之報。士大夫茍非其黨、不獲已而俯出其下者、畜惡怒以俟天誅之期。桀・紂・幽・厲以聖帝明王之塚裔、正位為天下君、而卒至隕滅、況此無賴之刑人、其能長此而無患乎。故極重而必返、夫人而可與知也。
夫れ既に夫人而可與知、則一旦撲之、如烈風吹將盡之鐙、甚速而易、必矣。陳琳曰く、「此猶鼓洪鑪燎毛髮」と。一曹操曰、「其の元惡を誅さば、一獄吏あらば足りん」と。而れども何進 若し持方寸之刃以擬猛虎、其呼將助也不擇人、其撓敗也無快志。袁紹 豪傑を以て自ら命じ、進の謀主と為り、且憂危展轉而無能為計。而遣鮑信募泰山之甲、丁原舉孟津之火、甚且召董卓以犯宮闕。進之心膽失據、而紹無能輔也。曹操笑而袁紹憂、其智計之優劣、於斯見矣。
所以然者、進 外戚を以て宦官を攻め、人 竇氏の禍に懲り、為に心を傾くる無きは、一なり。進の恃む所の者は何后なり、動を舉げて后を待ちて後に敢行す。以婦人而敵宦官、智計不及、而多為之蠱、二也。袁隗身為大臣、而疲庸尸位、無能以社稷自任、三也。鄭泰・盧植初起於田間、任淺望輕、弗能為益、楊彪・黃琬、無以大殊於袁隗、四也。袁紹兄弟、包藏禍心、乘時搆亂、而無戮力王室之誠、五也。曹操 識之明・持之定、而志懷叵測、聽王室之亂、居靜以待動、何進の迷を視て、而れども但だ一笑を以て之に當たる、六なり。皇甫嵩・蓋勛 名義を顧みて不欲狂逞、進 躁迫して不倚以為腹心、七也。此の七敗の形勢を具へて以て宦者を誅す、而して固より其の堪ふる所に非ず、雖欲禍之不中於宗社、其將能乎。
夫れ內に奪柄の心を懷き、外に正人の助無く、何進の若き者は、不足論已。已往の覆轍は、將て來鑒と為らん。凡そ皇天の予せざる所、志士仁人の予せざる所、天下之民受制於威、受餌於利、人心所不戴以為尊親、而苛暴淫虐、日削月靡、孤人子、寡人妻、積以歲月而淫逞不收、若此者、其滅其亡皆旦夕之間、河決魚爛而不勞餘力。智者靜以俟天、勇者決以自任、勿為張皇迫遽而驚為回天轉日之難也。存乎其人而已矣。彼の曹操なる者は、固より亦た嘗て晏坐して之を笑へり。況んや其の道を秉りて以て匡夫不為操者乎。

◆蔡邕のすぐれた振る舞い
史は董卓の蔡邕を辟するを紀し、邕 疾と稱して就かず。卓 怒りて曰く、「我れ人を族する能ふ」と。邕 懼れて命に應ず。此れ殆ど邕の才を惜み、為之辭以文其過、非果然也。 卓の始めて國柄を執るや、亟やかに名に於て賢者を借りて以て天下を動かす、蓋し汲汲焉たり。公卿の子弟を除して郎と為し、以て宦官に代へ、陳・竇を弔祭し、黨人の爵位を復し、申屠蟠を征して、推して黃琬・楊彪・荀爽を進めて三公と為し、分任韓馥・劉岱・孔伷・張邈為州郡、力返桓・靈宦豎之政、竊譽以動天下。蔡邕首被徵、豈其禮辭不就而遽欲族之哉。故以知卓之未必有此言也。且使卓而言此矣、亦其粗獷不擇・一時奰發之詞、而亦何足懼哉。申屠蟠不至、晏然而以壽終矣。袁紹橫刀揖出、掛節上東門、而弗能迫殺之矣。盧植力沮弘農王之廢、而止於免官、逌然以去矣。鄭泰沮用兵之議、巽辭而解矣。朱儁・黃琬不欲遷都、而皆全身以退矣。邕以疾辭、未至如數子之決裂、而何為其族邪。狂夫の言、一たび怒りて餘無く、卓の暴、市井に亡賴の讕言なり。何ぞ懼るるに足るや。
邕の始めて議郎と為るや、程璜の毒、陽球の酷、指顧を以て人を殺す可けれども、邕 懼れず。累は叔質に及び、幾ど同に駢首して以て死すれども、懼れず。何ぞ其の壯なるや。是に至り餒なり。江海に亡命すること十二年にして、固より貞人志士義命自居之安土也。宦官の怨 憤積し、而れども快志於一朝。髠鉗之危辱深、而圖安於晚歲。非懼禍也、誠以卓能矯宦官之惡、而庶幾於知己也。於是而其氣餒矣。以身殉卓、貽玷千古、氣一餒而即於死亡、復誰與恤其當年之壯志哉。
君子之立身、期於潔己。其出而事君也、期於靖國。恩怨去就、非有定也。禍在宮闈、則宮闈吾所亟違也。禍在閹宦、則閹宦吾所亟違也、禍在權姦、則權姦吾所亟違也。推而至於僭竊之盜賊・攘奪之夷狄、皆冰炭之乍投而沸・薰猶之逆風而辨也。所疾惡者在此、而又在彼矣。氣運移而貞邪忽易、違之於此、而即之於彼、是逃虎而抱蛇・舍砒而舍鴆也。能終始數易而不染者、其唯執志如一而大明於義之無方者乎。而邕不能也。始終之怨毒、宦豎而已、此外而篡弒之巨憝不辨矣。非不辨也、己私未忘、而寵辱之情移於衰老也。則一往之勁直、烏足以定人之生平哉。易曰、「介于石、不終日」。介於石、貞之至也。不終日、見幾而無執一之從違、乃以保其貞也。邕勿論矣。欲養浩然之氣、日新其義而研之以幾、其尚以邕為戒乎。

◆申屠蟠
申屠蟠征而不至、論者謂之知幾。幾者、事之微、吉兇之先見者也。漢之亡、天下之亂、董卓之不可與一日居、有目者皆見、有耳者皆聞、自非蔡邕之衰老惛迷、孰不知者、而何謂之幾邪。乃若蟠之不可及也、則持志定而安土之仁不失也。卓之徵名賢也、蔡邕畏之矣、荀爽畏之矣。人勸蟠以行、蟠笑而不荅、人不可與語也、志不自白也。夷然坦然而險阻消、蟠豈中無主而能然哉。故知其志定而安土之仁不失也。
士茍貞志砥行以自尚、於物無徇焉、於物無侮焉、則虎狼失其暴、蝮蛇失其毒。天下之穰穰而計禍福者、皆足付一笑而已。故莊子曰、「大浸稽天而不溺、大旱金石流而不熱」。豈有神變不測者存乎。貧而安、犯而不校、子孫不累其心、避就不容其巧。當世之安危、生民之疾苦、心念之而不嘗試與謀。文章譽望、聽之後世而不亟於自旌。其止如山、其涵如水、通古今・參萬變以自純、則物所不得而辱矣。此安土之仁、所謂即體以為用者也、蟠庶幾矣。何以知之。以其笑而不荅知之也。而淺人猶謂之曰知幾、若邕與爽、其僅謂之不知幾也與。

後漢の献帝

◆三国政権の成立に関する論評
詭譎鷙悍の才有りて、下位に在りて速やかに非望を覬する者は、其れ滅亡 必ず速からん。故に王莽・董卓・李密・朱泚 俱に踵を旋さずして殄ぶ。又 其の下なる者は、則ち張角・黃巢・方臘の妄を為し、以て自ら殲するのみ。其の大位を得て、奪ふと雖も僭しうると雖も、而猶可以為數十年人民之天下之禍亂為己任。君長は、之を子孫に傳へ、無道にして亡に後ぶ。則ち必ず其の始めて起るや、未だ嘗て神器を窺竊するの心有らず、而奮志戮力以一至於功立威震、上無駕馭之主、然後萌不軌之心、以不終其臣節而獵大寶、得天下而不可以一日居、未有或爽者也。
關東の兵を起こして以て董卓を誅するは、袁紹より始まる。紹の卓に抗するや、曰、「天下健者、豈惟董公」。其の志 知る可きなり。及其集山東之兵、聲震天下、董卓畏縮而劫帝西遷以避之、使乘其播遷易潰之勢、速進而撲之、卓其能稽天討乎。乃諸州郡之長、連屯於河內・酸棗、躊躇而不進。其巽懦無略者勿論也。袁紹 術と與に、始め志は銳にして當たる可からざるも、而れども猶然とし棲遲なること此の若く、無他、早懷覬覦之志、內顧卓而外疑群公、且つ幸漢之亡於卓而己得以逞也。
斯の時に於けるや、蹶起して以て卓と死生を爭ふは、曹操・孫堅なるのみ。操曰く、「董卓未亡之時、一戰而天下定」。使一戰而天下定、操其能獨有天下乎。既敗於滎陽、且勸張邈等勿得遲疑不進、失天下望、而邈等不用、操乃還軍。當斯時、操固未有擅天下之心可知也。以操為早有擅天下之心者、因後事而歸惡焉爾。孫堅の始めて起つや、許生を斬りて功は已に著はれ、張溫の軍事に參じて、邊章を討ちて名 已に立ち、非不可傑立而稱雄也。奮起誅卓、先群帥而進屯陽人、卓憚之而與和親、乃曰、「不夷汝三族懸示四海、吾死不瞑目」。獨以孤軍進至雒陽、埽除宗廟、修塞諸陵、不自居功、而還軍魯陽。當斯時也、可不謂皎然於青天白日之下而無慚乎。故天下皆舉兵向卓、而能以軀命與卓爭生死者、堅而已矣。其次則操而已矣。豈袁紹等之力不逮操與堅哉。操與堅知有討賊而不知有他、非紹・術挾姦心以養寇、而冀收刺虎持蚌之情者所可匹也。故に他日は、天下を三分し、而して操は其の一を得て、堅は其の一を得て、堅の子孫 且に操に後れて亡ぶ。堅の正は、猶ほ愈於操之速易其心者多矣。
故天下非可以一念興而疾思弋獲者也。漢高之入關中、思亡秦而王關中耳、項羽弒義帝、而後有一天下之心。刱業之永、天所佑也。董卓 死して、李・郭 亂し、袁紹 河北を擅にして帝室を忘れ、袁術 竊み、劉表 僭し、獻帝 馭する能ふ莫く、而る後に曹操の篡志 生ず。曹操 天子を挾し、袁紹を夷し、劉琮を降し、而る後に孫權の割して據定す。是れ操の漢を攘するは、袁紹 之を貽せり。堅の子孫 江南に僭號するは、曹操 之を貽せり。謂操與堅懷代漢之心於起兵誅卓之日、論者已甚之說。豈諒人情・揆天理・知興廢成敗之定數者乎。以詭譎之智・鷙悍之勇、乘間抵巇、崛起一朝而即思天位、妄人之尤者爾、而何足以臨臣民・貽子孫邪。
孟子曰、「五霸、假之也」。假之云者、非己所誠有、假借古人之名義・信以為道之謂、非心不然而故竊其迹也。無其學、無其德、則假矣。名與義生於乍然之心者、固非偽也。王莽之於周公、張角之於老耼、不可謂之假也。曹操 驍騎校尉の職を受けず、東歸して眾を合し、進みて滎陽に戰ひ、而して孫堅 兵を長沙に起し、進みて魯陽に屯し、卓を拒みて和親するの日に當たり、而して以て神器を窺竊すの罪に坐す。則ち張角・黃巢・方臘創業を以て子孫に貽す可く、而して安祿山・朱泚・苗傅・劉正彥尤優為之矣。誅非其の罪而徒だ以て姦を長し、深文之害世教、烈矣哉。

◆蔡邕の愚に対する評価
蔡邕の愚は、不亡身而不止。愚而寡所言動者、困窮而止。愚而欲與人家國神人之大、則人怒神恫而必殺其軀。邕之應董卓召而歷三臺、此何時也。帝后弒、天子廢、大臣誅夷、劫帝而遷、宗廟燒、陵寢發、人民駢死於原野、邕乃建議奪孝和以後四帝之廟號、舉三代興革之典禮於國危如線之日、從容而自衒其學術、何其愚也。
而不但愚也。漢之宗社岌岌矣、諸廟之血食將斬矣。夫茍痛其血食之將斬、諱先祖之惡而揚其美、以昭積功累仁之允為元后也、猶恐虛名之無補。乃亟取和帝之涼德不足稱宗者而播揚之、是使姦雄得據名以追咎曰、是皆不可以君天下者、而漢亡宜矣。此則人怨神恫、陷大惡而不逭者也。
情理を以て之を推すに、邕 豈に但だ愚なるのみや。邕之髠鉗而亡命、靈帝使之然也。四帝可宗、則靈帝亦可宗矣。邕蓋欲修怨於靈帝、而豫窒其稱宗之路、邕於是而無君之心均於董卓、王允誅之、不亦宜乎。董卓曰、「為當且爾、劉氏種不足復遺」。邕 固より曰く「劉氏の祖考 復た尊ぶに足らず」と。其の情 一なり。故に曰、邕 但だ愚なるのみに非ず。然り雖も、神 其れ欺く可きか、神 其れ恫す可きか。則ち亦た愚なるのみ。

11 三 12 韓馥・袁紹奉劉虞為主、是項羽立懷王心・唐高祖立越王侑之術也。虞秉正而明於計、豈徇之哉。王芬欲立合肥侯而廢靈帝、合肥侯愚而曹操拒之、合肥以免。劉虞之賢必不受、操知之矣。故但自伸西向之志、而不待為虞計。於是而知操之視紹、其優劣相去之遠也。操非果忠於主者、而名義所在、昭然繫天下之從違、固不敢犯也。未有犯天下之公義、而可以屈群雄動眾庶者也。 13 或曰、馥・紹之議、亦惡乎非義哉。春秋之法、君弒而為弒君者所立、則正其為篡。梁冀弒質帝而桓立、董卓弒弘農王而獻立、獻不正乎其為君、則關東諸將欲不奉獻為主而立虞、惡乎不可。 14 曰、執春秋之法以議桓帝之不正其始、得矣。帝方以列侯求婚於梁氏、趨國門而承其隙、未嘗無覬覦之心焉、則與與聞乎弒者同乎賊。使有仗大義以誅冀者、桓帝服罪而廢焉、宜也。且順・桓之際、漢方無事、而不亟於求君也。若獻帝之立、年方九歲、何進之難、徒步郊野、漢不可一日而無君、帝自以明了動卓之欽仰、弘農廢、扳己以立、未能誓死以固辭、幼而不審、無大臣以匡之、而卓之凶燄、且固曰、「劉氏種不復留」。則舍己以延一線之祀、是亦義也、而況其在幼沖乎。袁紹遷董卓之怨以怒帝、其為悖逆也明甚。操知之審、而曰、「我自西向」。知帝之可以系人心、劉虞雖賢、無能遙起而奪之也。桓帝之誅冀、以嬖寵之怨、而不忌其弒主之逆。董卓之誅、則已正名之為賊矣、以賊討卓、則弘農之大讐已復、獻帝可無慚於踐阼矣。視晉景・魯定而尤正焉、而何容苛責之也。 15 四 16 所謂雄桀者、雖懷不測之情、而固可以名義馭也。明主起而馭之、功業立、而其人之大節亦終賴以全。惟貪利樂禍不恤名義者為不可馭之使調良、明主興、為彭越・盧芳以自羅於誅而已。不然、則亂天下以為人先驅、身殪家亡而國與俱敝。曹操可馭者也、袁紹不可馭者也。 17 起兵誅卓之時、操與孫堅戮力以與卓爭生死、而紹晏坐於河內。孫堅收復雒陽、乘勝以攻卓、在旦晚之間也、而紹若罔聞。關東諸將連屯以偕處、未有釁也、而紹首禍而奪韓馥之冀州。先諸將而內訌者、無賴之公孫瓚也、而紹誘之以首難。然則昔之從臾何進以誅宦官、知進之無能為而欲乘之以偪漢爾、進不死、紹固不容之、而陳留又豈得終有天下乎。鮑信曰、「袁紹自生亂、是復有一卓也」。孫堅曰、「同舉義兵、將救社稷、逆賊垂破而各若此、吾將誰與戮力」。雖有漢高・光武、欲收紹而使效奔走、必不得也。李密之所以終死於叛賊也。 18 自其後事而觀之、則曹操之篡成、罪烈於紹、而操豈紹比哉。諸將方爭據地以相噬、操所用力以攻者、黑山白繞也、兗州黃巾也、未嘗一矢加於同事之諸侯。其據兗州自稱刺史、雖無殊於紹、而得州於黃巾、非得州於劉岱也。擊走金尚者、王允之賞罰無經有以召之也。然則獻帝而能中興、操固可以北面受賞、而不獲罪於朝廷、而不軌之志戢矣。 19 紹擁兵河北以與操爭天下、而操乃據兗州以成爭天下之勢。紹導之、操乃應之。紹先之、操乃乘之。微紹之逆、操不先動。雖操之雄桀智計長於紹哉。抑操猶知名義之不可自我而干、而紹不知也。然則雖遇高・光之主、紹亦為彭越・盧芳而終不可馭、身死家滅而徒為人先驅。貪利樂禍、習與性成、非一朝一夕之故矣。 20 五 21 孫堅之因袁術也、猶先主之因公孫瓚也、固未可深責者也。漢高帝嘗因項梁矣、唐高祖下李密而推之矣、以項氏世為楚將、而密以蒲山公之後、為天下所矜也。天下之初亂也、人猶重虛名以為所歸、故種師道衰老無能為、而金人猶憚之。袁氏四世五公之名、烜赫宇內、孫堅崛起、不能不藉焉。彼公孫瓚之區區、徒擁眾梟張耳、昭烈且為之下、而況術乎。 22 夫堅豈有術於心中者哉。賊未討、功未成、以長沙疏遠之守、為客將於中原、始繇術以立大勛、而速背之、則術必懷惎毒以撓堅之為。進與卓為敵、而退受術之掣、劉虞懷忠義而死於公孫瓚、職此繇也。使堅不死、得自達於長安、肯從術以逆終而為亂賊之爪牙乎。劉表之收荊州也、卓之命也、眾皆討卓而表不從、表有可討之罪焉。因袁術之隙而為之討表、實自討也。若堅者、雖不保其終之戴漢、而固未有瑕也、與術比而姑從之、惡足以病堅哉。 23 六 24 管寧在遼東、專講詩書・習俎豆、非學者勿見、或以寧為全身之善術、豈知寧者哉。王烈為商賈以自穢、而逃公孫度長史之辟命、斯則全身之術、而寧不為也。天下不可一日廢者、道也。天下廢之、而存之者在我。故君子一日不可廢者、學也。舜・禹不以三苗為憂、而急於傅精一。周公不以商・奄為憂、而慎於踐籩豆。見之功業者、雖廣而短。存之人心風俗者、雖狹而長。一日行之習之、而天地之心、昭垂於一日。一人聞之信之、而人禽之辨、立達於一人。其用之也隱、而搏捖清剛粹美之氣於兩間、陰以為功於造化。君子自竭其才以盡人道之極致者、唯此為務焉。有明王起、而因之敷其大用。即其不然、而天下分崩・人心晦否之日、獨握天樞以爭剝復、功亦大矣。 25 繇此言之、則漢末三國之天下、非劉・孫・曹氏之所能持、亦非荀悅・諸葛孔明之所能持、而寧持之也。寧之自命大矣、豈僅以此為禍福所不及而利用乎、邴原持清議、而寧戒之曰、「潛龍以不見成德」。不見而德成、有密用也。區區當世之得失、其所矜而不忍責・略而不足論者也。白日之耀、非鐙燭之光也。寧誠潛而有龍德矣、豈僅曰全身而已乎。 26 七 27 王允誅董卓、而無以處關東諸將、雖微李傕・郭氾、漢其能存乎。首謀誅卓者袁紹、是固有異志焉、而不可任者也。曹操獨進滎陽、雖敗而志可旌。孫堅首破卓而復東都、糞除宗廟、修治陵園、雖死而其子策可用也。急召而錄其功以相輔於內、傕・氾失主而氣奪、安敢側目以視允乎。區區一宋翼・王弘、傕・氾且憚之、而不敢加害於允、而況操與策也。允之倚翼與弘、皆其所私者也、操與策非其所能用者也、而又以驕氣乘之、不亡何待焉。 28 或曰、操非可倚以安者、允而召操、則與何進之召卓也何以異。此又非也。進不能誅宦官而倚卓、進客而卓主矣。允之誅卓、無假於操、而威大振。操雖姦、賞之以功、旌之以能、綏之以德、束之以法、操且熟計天下而思自處。故王芬之謀、劉虞之議、必規避之、而不敢以身為逆。當此之時、眾未盛、威未張、允以談笑滅賊之功臨其上而駕御之、操抑豈敢蹈卓之覆軌乎。策方少、英銳之氣、誘掖之以建忠勳也尤易、而奚患召之為後害哉。允非其人也、智盡於密謀、而量不足以包英雄而馴擾之、加以驕逸、而忘無窮之隱禍、其周章失紀而死於逆臣、不能免矣。 29 東召孫・曹而西屬涼州之兵於皇甫嵩、則二袁・劉表・公孫瓚不足以逞。二袁・劉表・公孫瓚不逞、而曹操亦無藉以啟跋扈之心。天下可定也、況李傕・郭氾之區區者乎。 30 〖八〗 31 馬日磾・趙岐之和解關東也誰遣之。於時李傕・郭氾引兵向闕、種拂戰死、天子步出宣平門、王允・宋翼・王弘駢死闕下、宮門之外皆仇敵也、而暇念及於袁・劉・公孫不輯於千里之外邪。故知非獻帝遣之、傕・氾遣之也。關東諸將之起、以誅卓起。傕・氾、卓之部曲也、其引兵犯闕、以報卓之讐為辭、呂布東走、而傕・氾安能不憂誅卓之師浸加於己哉。欲求款於關東而恐其見拒、則姑以天子之詔為和解之迂說、亦其雖為卓報仇、而於關東則均為王臣、無異志也、此不款和而妙為款和者也。劉表則自刺史而牧矣、曹操上書而優而使之歸矣、征朱儁為太僕矣、皆傕・氾以求免於關東之善術也。嗚呼。日磾・岐為漢之大臣、而受賊之羈絡以聽其頤指、其頑鄙而不知恥、亦至是哉。 32 夫與賊同立於朝、所難者不能自拔耳。二子者、幸而得銜命以出、是溫嶠假手以圖王敦之機會也。紹・術・瓚・表雖懷異志、而朱儁・曹操・劉虞・孫策、夫豈不可激厲入援以解天子之困厄。而命之曰和解、則以和解畢事、曾不知有問及中朝者、二子將何辭以答也。故遣日磾・岐者、傕・氾也。奔走於諸將之間、靦顏以嚅囁者、為傕・氾效也。為天下賤、不亦宜乎。 33 九 34 曹操父見殺而興兵報之、是也。坑殺男女數十萬人於泗水、徧屠城邑、則慘毒不仁、惡滔天矣。雖然、陶謙實有以致之也。謙別將掩襲曹嵩而殺之、謙可謝過曰不知、然使執殺嵩者歸之於操、使臠割而甘心焉、則操亦無名以逞。乃視嵩之死、若獵人之射麏、分食其肉而不問所從來、亦何以已暴人之怒哉。 35 且操之擊謙也、以報私讐、而未嘗無可託之公義也。李傕・郭氾稱兵向闕、殺大臣、脅天子、人得而誅者也。謙首唱誅逆之謀、奉朱儁以伐逆而戴主、傕・氾以太僕餌儁、以牧餌謙、其力弱而畏我也可見矣。知其弱、懼其餌、儁雖志義不終、而謙自可奮興以致討。乃聽王朗之謀、邀寵於賊臣、而受州牧之命、則欲辭黨逆之誅而無所逭。操執此以告天下、而天下孰為謙援者乎。蓋謙之為謙也、貪利賴寵、規眉睫而迷禍福者也。然則曹嵩之輜重、謙固垂涎而假手於別將耳。吮鋒端之蜜、禍及生靈者數十萬人、貪人之毒、可畏也夫。 36 一○ 37 國家積敗亡之道以底於亂、狡焉懷不軌之志、思獵得之者眾矣、而尚有所忌也。天子不成乎其為君、大臣不成乎其為相、授天下以必不可支之形、而後不軌者公然軋奪無所忌。 38 關東起兵以誅卓、而無效死以衛社稷之心、然固未敢逞其攘奪也。至於卓既伏誅、王允有專功之心、而不與關東共功名、可收以為用者勿能用、可制之不為賊者弗能制、而關東之心解矣。允以無輔而亡、李傕・郭氾以無憚而訌、允死、而天下之心遂為之裂盡。李・郭殺大臣、脅人主、關東疾視而不問、馬日磾・趙岐之庸鄙、受二凶之意旨以和解行、而實為逆賊結連衡之好、然後關東始堅信漢之必亡。於是而曹操上書之情、非復滎陽之志矣。孫堅即不死、而不保其終、策以孤立之少年、走劉繇、逐王朗、殺許貢、跳躑於江東矣。張邈・陶謙・呂布・劉備互相攻而不戢矣。二袁之思移漢鼎以歸己、又顯著其跡矣。環視一獻帝而置之若存若亡之間、以無難紾其臂而奪之。嗚呼。遲之十餘年、而分崩之勢始成。天下何嘗亡漢、而漢自亡、尚孰與憐之、而興下泉苞稂之思者乎。 39 王允非定亂之人也、馬日磾・趙岐、則手授天下於群雄者也、漢之終亡、終於此也。 40 一一 41 亂天下者、託於名以逞其志。故君子立誠以居正、而不競以名、則託於名者之偽露以敗、而君子伸。亂天下者、並其名而去之不忌、則能顧名以立事者、雖非其誠而志欲伸、無可為名者、莫能勝也。管・蔡內挾孺子・外挾武庚以為名、非無名也、自不可敵周公之誠也。項羽立義帝而弒之、並其名而去之矣。漢高為帝發喪、名而已矣、而天下戴之以誅羽之不義。使義帝而存、漢高之能終事之也、吾不敢信、然而以討項羽則有餘。故胡氏曰、「與其名存而實亡、愈於名實之俱亡」。此三代以下之天下、名為之維持也大矣。 42 袁紹不用沮授之策、聽淳于瓊而不迎天子於危困之中、授曰、「必有先之者」。而曹操果聽荀彧迎帝以制諸侯。夫無君之心、操非殊於紹也、而名在操、故操可以制紹、而紹不能勝操。操之勝也、名而已矣。 43 雖然、名未易言也。名而可以徒假與、則紹亦何憚而不假。淳于瓊曰、「今迎天子、動則表聞、從之則權輕、違之則拒命」。故曹操遷許以後、外而袁紹恥太尉之命、內而孔融陳王畿之制、董承・劉備・伏完・金禕交起而思誅夷之。入見殿中、汗流浹背、以幾幸於免。與紹之恣睢河北唯意欲為而莫制者、難易之勢、相懸絕也。茍不恤其名、而唯利是圖、則淳于瓊之言、安知其不長於荀彧哉。假令衣帶詔行、曹操授首於董承・伏完・金禕之手、則授・或之謀、豈不適為瓊笑。而非然也、出天子於棘籬饑困之中、猶得奉宗廟者二十餘年、不但以折群雄之僭、即忠義之士、懷憤欲起、而人情之去就、尚且疑且信而不決於從也。瓊之情唯利是圖、受天下之惡名而不恤、紹是之從、欲不亡也、得乎。 44 名與利、相違者也。實與名、末相違而始相合也。舉世騖於名、而忠孝之誠薄。舉世趨於利以舍名、而君臣父子之秩敍、遂永絕於人心。故名者、延夫人未絕之秉彞於三代之下者也。夫子於衛輒父子之際、他務未遑、而必先正名、蓋有不得已焉耳。 45 一二 46 劉先主之刺豫州、因陶謙也。其兼領徐州、亦因陶謙也。二袁・曹操、皆受命於靈帝之末、呂布・劉表、亦拜爵王廷而出者、唯先主未受命也、而不得不因人以興。始因公孫瓚、繼因陶謙、周旋於兩不足有為者之左右、而名不登於天府、是以屢出而屢敗。孔北海知之已夙、而何為不颺於王廷。北海之疏也。敗於呂布而歸許、然後受命而作牧、望乃著於天下。以義揆之、則受陶謙之命兼領二州、其始不正、故終不足以動天下而興漢、亦始謀之不臧哉。 47 及其為左將軍、受詔誅操而出奔、乃北奔於袁紹、託非其人矣、而非過也。何也。既已受命誅操、則許都之命制自操者、義不得而受也。結孫權而分荊、奪劉璋以收益、可以不受命矣。可不受命而制自己、故雖不足以興漢、而終奄有益州、以成鼎足之形。 48 使其於陶謙授徐之日、早歸命宗邦、誅傕・氾以安獻帝、紹與操其孰能禦之。而計不及此、孔北海亦莫之贊焉、徒與袁術・呂布一彼一此、爭衡於徐・豫之間、惜哉。 49 一三 50 張巡守睢陽、食盡而食人、為天子守以抗逆賊、卒全江・淮千里之命、君子猶或非之。臧洪怨袁紹之不救張超、困守孤城、殺愛妾以食將士、陷其民男女相枕而死者七八千人、何為者哉。張邈兄弟黨呂布以奪曹操之兗州、於其時、天子方蒙塵而寄命於賊手、超無能恤、彼其於袁・曹均耳。洪以私恩為一曲之義、奮不顧身、而一郡之生齒為之並命、殆所謂任俠者與。於義未也、而食人之罪不可逭矣。 51 天下至不仁之事、其始為之者、未必不託於義以生其安忍之心。洪為之、巡效之而保其忠、於是而朱粲之徒相因以起。浸及末世、凶歲之頑民、至父子・兄弟・夫妻相噬而心不戚、而人之視蛇蛙也無以異、又何有於君臣之分義哉。 52 若巡者、知不可守、自刎以徇城可也。若洪、則姑降紹焉、而未至喪其大節。憤興而憯毒、至不仁而何義之足云。孟子曰、「仁義充塞、人將相食」。夫楊・墨固皆於道有所執者、孟子慮其將食人而亟拒之、臧洪之義、不足與於楊・墨、而禍烈焉。君子正其罪而誅之、豈或貸哉。 53 一四 54 董承潛召曹操入朝、操至而廷奏韓暹・楊奉之罪、誅罪賞功、矜褒死節、而漢粗安。惜哉、承之行此也晚、而王允失之於先也。 55 當斯時也、漢之大臣、死亡已殆盡矣。天子徒步以奔、而威已殫矣。從官采梠餓死、而士大夫之氣已奪矣。故董昭謀遷帝於許、尚懼眾心之不厭、而卒無有一言相抗者。若當董卓初誅之日、廷猶有老成之臣、人猶堅戴漢之心、劉虜懷忠於北陲、孫堅立功於雒陽、相制相持、而允之忠勛非董承從亂之比、操亦何敢遽睥睨神器・效董卓之狂愚乎。 56 王允坐失之、董承不得已而試為之。為之已晚、而無救於漢之亡、然而天下亦自此而粗定。觀於此而益為允惜、誠可惜而已矣。 57 一五 58 范增之欲殺沛公、孫堅之欲殺董卓、為曹操謀者之欲殺劉豫州、王衍之欲殺石勒、張九齡之欲殺安祿山、自事後而觀之、其言驗矣。乃更始殺伯升而國終亡。司馬氏殺牛金而家終易。故郭嘉之說曹操、勿徒受害賢之名、而曹操笑曰、「君得之矣」。有識者之言、非凡情可測也。 59 人之欲大有為也、在己而已矣、未有幸天下之不肖、而己可攘賢而自大者也。茍可以大有為、則雖有英雄、無能為我難也。茍未可以有為、則何知天之生豪傑者不再生也。待獺以敺魚、待鸇以敺雀、此封建之天下為然爾。起於紛亂之世而欲成大業、非能屈天下之英雄、不足以建非常之業。忌英雄而殺之、偷勝天下之庸流以為之雄長、則氣先苶。而忽有間起之英豪乘之於意外、則神沮志亂而無以自持。若此者、曹操之所不屑為、而況明主之以道勝而容保無疆者乎。盡己而不憂天下之我勝、君子之道、而英雄繇之。不能仿佛於君子之道而足為英雄者、未之有也。 60 一六 61 劉表無戡亂之才、所固然也、然謂曹操方挾天子・擅威福、將奪漢室、而表不能興勤王問罪之師、徒立學校・修禮樂、為不急之務、則又非可以責表也。 62 表雖有荊州、而隔冥阨之塞、未能北向以爭權、其約之以共滅曹氏者、袁紹也、紹亦何愈於操哉。紹與操自靈帝以來、皆有兵戎之任、而表出自黨錮、固雍容諷議之士爾。荊土雖安、人不習戰、紹之倚表而表不能為紹用、表非戡亂之才、何待杜襲而知之。表亦自知之矣。躊躇四顧於袁・曹之間、義無適從也、勢無適勝也、以詩書禮樂之虛文、示間暇無爭而消人之忌、表之為表、如此而已矣。中人以下自全之策也。不為禍先而僅保其境、無袁・曹顯著之逆、無公孫贊樂殺之愚、故天下紛紜、而荊州自若。迨乎身死、而子琮舉土以降操、表非不慮此、而亦無如之何者也。 63 杜襲之語繁欽曰、「全身以待時」。襲所待者曹操耳、欽與王粲則邀官爵醼樂之歡於曹丕者也、夫豈能鄙表而不屑與居者哉。諸葛公僑居其土、而云「此中足士大夫遨遊」。亦唯表之足以安之也。天下無主、而徒以責之表乎。 64 一七 65 呂布不死、天下無可定亂之機、昭烈勸曹操速殺之、此操所以心折於昭烈也。 66 當時之競起者眾矣。孫堅、以戡亂為志者也。劉焉妄人也、而偷以自容。劉表文土也、而無能自立。袁紹雖疏而有略、其規恢較大矣。狂愚而逞者袁術、而猶飾偽以自尊。頑悍而樂殺者公孫瓚、而猶據土以自全。若夫倏彼倏此、唯其意之可奰發、旦暮狂馳而不能自信、唯呂布獨也。而有驍勁之力以助其惡、嗾之斯前矣、激之斯起矣、觸之斯閧矣、蹂躪於中夏而靡所底止、天下未寧而布先殪、其自取之必然也。呂布殪、而天下之亂始有乍息之時、亂人不亡、亂靡有定、必矣。 67 嗚呼。布之惡無他、無恆而已。人至於無恆而止矣。不自信而人孰信之。不自度而安能度人。不思自全、則視天下之糜爛皆無足恤也。故君子於無恆之人、遠之唯恐不速、絕之唯恐不早、可誅之、則勿恤其小惠・小勇・小信・小忠之區區而必誅之、而後可以名不辱而身不危。與無恆者處、有家而家毀、有身而身危、乃至父子・兄弟・夫婦之不能相保。論交者通此義以知擇、三人行、亦必慎之哉。 68 一八 69 漢武・昭之世、鹽鐵論興、文學賢良競欲割鹽利以歸民為寬大之政、言有似是而非仁義之實者、此類是也。夫割利以與民、為窮民言也。即在瀕海瀕池之民、茍其貧弱、亦惡能食利於鹽以自潤、所利者豪民大賈而已。未聞割利以授之豪民大賈而可云仁義也。鹽猶粟也、人不可一日無者、而有異。粟則徧海內而生、勤者獲之、惰者匱之。鹽則或懸絕於千里之外、而必待命於商賈。上司其輕重、則雖苛而猶有制。一聽之豪民大賈、居贏乘虛、其以厚取於民者無制、而民不得不償、故割利以與豪民大賈而民益困。王者官山府海以利天下之用而有制、以不重困於民、上下交利之善術也、而奚為徇寬大之名以交困國民邪。與其重徵於力農之民、何如取給於天地之產。鹽政移於下、農民困於郊、國計虛於上、財不理、民非不禁、動浮言以談仁義者、亦可廢然返矣。 70 衛覬曰、「鹽、國之大寶也」。置鹽官賣鹽、以其直市犂牛給民、勤耕積粟、行之關中而民以綏、強敵以折。施及後世、司馬懿拒守於秦・蜀之交、諸葛屢匱而懿常裕、皆此為之本也。覬之為功於曹氏、與棗祗均、而覬尤大矣。 71 一九 72 韓高、智而狡者也。劉表舊與袁紹通、而曹操方挾天子以為雄長、紹之不敵操也、人皆知之、故杜襲・繁欽・王粲之徒、日夕思歸操以取功名。嵩亦猶是而已矣。高之勸表以歸操、明言袁・曹之勝敗、而論者謂其奉戴漢室、過矣。 73 嵩之欲詣許也迫、而固持之以緩、其與表約曰、「守天子之命、義不得為將軍死」。先為自免之計、以玩弄表於股掌之上、堅辭不行、而待表之相強、得志以歸、面折表而表不能殺、亦陳珪之故智、而嵩持之也尤堅。表愚而人去之、操巧而人歸之、以中二千石廣陵守遂珪之志、以侍中零陵守遂嵩之志、珪與嵩之計得、而呂布・劉表之危亡系之矣。二子者、險人之尤也、豈得以歸漢為忠而予之。 74 二○ 75 董承受衣帶詔、與先主謀誅曹操、乘操屯官渡拒袁紹之日、先主起兵徐州、勢孤而連和於袁紹。勿論待人者不足以興、即令乘間而誅操、紹方進而奪漢之權、先主・董承其能制紹使無效操之尤而彌甚乎。不能也。然則此舉也、亦輕發而不思其反矣。董承者、與亂相終始、無定慮而好逞其意計者也。前之召操、與今之連紹、出一軌而不懲、弗責矣。先主亦慮不及此、而輕為去就、何以為英雄哉。 76 夫先主之於此、則固有其情矣。其初起也、因公孫瓚、因陶謙、雖為州牧、而權藉已微、固不能與袁・曹之典兵於靈帝之世、與於誅賊之舉者齒。故旋起旋躓、而姑託於操。及其受左將軍之命、躬膺天子之寵任、而又承密詔以首事、先主於是乎始得乘權而正告天下以興師。曹操之必篡、心知之矣。袁紹之為逆、亦心知之矣。脫於操之股掌、東臨徐・豫、孤倡義問以鼓人心、乘機而興、不能更待、紹不可達而連之、姑使與操相持、己因得以收兵略地為東向之舉、而有餘以制群雄、先主之志、如此而已。初末嘗倚紹以破操、而幸紹之能戴漢以復興也。董承・種輯亦惡足以知其懷來哉。 77 故許先主以純臣、而先主不受也。其於獻帝、特不如光武之於更始、而豈信其可終輔之以盪群凶乎。故連和於紹而不終、未嘗恃紹也。操即滅、紹即勝、先主亦且出於事外而不屑為紹用。先主之東操心悔之而不懼、紹遙應之而不堅、亦已知之矣。他日稱尊於益州、此為權輿。特其待操之篡而後自立焉、故不得罪於名教、而後世以正統加之、亦可勿媿焉。 78 二一 79 曹操東攻先主、田豐說紹乘間舉兵以襲其後、紹以子疾辭豐而不行、紹雖年老智衰、禽犢愛重、豈至以嬰兒病失大計者。且身即不行、命大將統重兵以躡之、亦詎不可。而紹不爾者、紹之情非豐所知也。操東與先主相距而紹乘之、操軍必驚駭潰歸、而先主追躡之、操且授首。先主誅操入許而擁帝、紹之逆不足以逞、而遽與先主爭權。故今日弗進、亦猶昔者擁兵冀州、視王允之誅卓而不為之援、其謀一也。 80 豈徒紹哉。先主亦固有此情矣。紹之興兵而南、眾未集、兵未進、雖承密詔與董承約、抑可姑藏少待也。待紹之進黎陽・圍白馬、操戰屢北、軍糧且匱、土山地道交攻而不容退、乃徐起徐・豫之兵、亟向許以拒曹之歸、操且必為紹禽。而先主遽發以先紹者、亦慮操為紹禽、而己擁天子之空質、則紹且梟張於外而逼我、孤危將為王允之續矣。惟先紹而舉、則大功自己以建、而紹之威不張。紹以此制先主、先主亦以此制紹、其機一也。 81 夫先主豈徒思誅操而縱紹以橫者乎。兩相制、兩相持、而曹操之計得矣。急攻先主而緩應紹、知其陽相用而陰相忌、可無俟其合而迫應其分。先主惡得而不敗。紹惡得而不亡。此其機先主與紹緘之於心、非董承之所察、而田豐欲以口舌爭之、不亦愚乎。 82 二二 83 張魯妖矣、而卒以免於死亡、非其德之堪也。聽閻圃之諫、拒群下之請、不稱漢寧王、衛身之智、足以保身、宜矣。嗚呼。亂世之王公、輕於平世之守令。亂世之將相、賤於平世之尉丞。顧影而自笑、夢覺而自驚、人指之而嗤其項背、鬼瞰之而奪其精魂、然而汲汲焉上下相蒙以相尊、愚矣哉。 84 陳嬰・周市之所弗為、張魯能弗為、張魯之所不為、而呂光・杜伏威・劉豫・明玉珍汲汲焉相尊以益其驕、駢首就戮而悔之無及、以死亡易一日之虛尊、且自矜也、人之愚未有如是之甚者也。 85 二三 86 袁紹之自言曰、「吾南據河、北阻燕・代、兼戎狄之眾、南向以爭天下」。起兵之初、其志早定、是以董卓死、長安大亂、中州鼎沸、而席冀州也自若、紹之亡決於此矣。 87 夫欲有事於天下者、莫患乎其有恃也。已恃之矣、謀臣將帥恃之矣、兵卒亦恃之矣、所恃者險也、而離乎險、則喪其恃而智力窮。坎之象曰、「王公設險以守其國」。險不可久據、而上六出乎險矣。智非所施、力非所便、徽纆之系、叢棘之置、非人困之矣。山國之人、出乎山而窮於原。澤國之人、離乎澤而窮於陸。失所恃而非所習、則如蝸牛之失其廬而死於蟻。故袁紹終其身未嘗敢跬步而涉河、非徒紹之不敢、其將帥士卒睨平原廣野川陸相錯、而目眩心熒、莫知所措也。 88 曹操曰、「任天下之智力、以道御之、無所不可」。在山而用山之智力、在澤而用澤之智力、己無固恃、人亦且無恃心、而無不可恃、此爭天下者之善術、而操猶未能也。西して赤壁に至り、東して懦須に至り、長江の浩瀁に臨みて氣 奪はる。則ち猶ほ山陸の材がごとく、而れども非無不可者也。何ぞや。操の天下の智力を任ずる所以は、術なり、道に非ざるなり。術とは、可なる所有り、可ならざる所有り。可者契合、而不可者弗能納、則天下之智力、其不為所用者多矣。其終彊而奪漢者、居四戰之地、恃智恃力、而無河山之可恃以生其驕怠也。
89 然則諸葛勸先主據益州天府之國、亦恃險矣、而得以存、又何也。先主之時、豫・兗・雍・徐已全為操之所有、而荊・揚又孫氏三世之所綏定、舍益州而無託焉、非果以夔門・劍閣之險、肥沃鹽米之藪、為可恃而恃之也。李特睨劍閣而歎曰、「劉禪有此而不知自存」。夫特亦介晉之亂耳、使其非然、則亦趙韙・李順而已。董璋・王建皆乘亂也、豈三巴巖險之足以偷安兩世哉。 90 二四 91 荀悅・仲長統立言於紛亂之世、以測治理、皆矯末漢之失也、而統為愈。悅之言專以繩下、而操之巳亟、申・韓之術也、曹操終用之以成乎嚴迫之政、而國隨亡。統則專責之上、而戒慆淫以清政教之原、故曰統為愈也。 92 悅之言曰、「教化之廢、推中人而墜於小人之域、教化之行、引中人而納於君子之途」是也。顧其所云正俗者、聽言責事、舉名察實、則固防天下之胥為小人而督之也。故口申・韓之術也。統切切焉以犇私嗜・騁邪欲・宣淫固惡為戒、誠戒此矣、越軌改制之俗、上無與倡、而下惡淫蕩哉。漢之亡也、積順・桓・靈帝三君之不道、而天下相效以相怨、非法制督責之所可救、而悅河僅責之於末也。 93 雖然、統知懲當時之弊而歸責於君、亦不待深識而知其然者也。而推論存亡迭代、治亂周復、舉而歸之天道、則將使曹氏思篡之情、亦援天以自信而長其逆。故當紛亂之世、未易立言也。憤前事之失、矯之易偏。避當時之忌、徇之不覺。非超然自拔於危亂之廷、其言未有不失者也。悅為侍中矣、統為尚書郎矣、而且得有言乎哉。 94 二五 95 諸葛公之始告先主也、曰、「天下有變、命一上將將荊州之軍以向宛・雒、將軍身率益州之眾出於秦川」。其後先主命關羽出襄・樊而自入蜀、先主沒、公自出祁山以圖關中、其略定於此矣。是其所為謀者、皆資形勢以為制勝之略也。蜀漢之保有宗社者數十年在此、而卒不能與曹氏爭中原者亦在此矣。 96 以形勢言、出宛・雒者正兵也、出秦川者奇兵也、欲昭烈自率大眾出秦川、而命將向宛・雒、失輕重矣。關羽之覆於呂蒙、固意外之變也。然使無呂蒙之中撓、羽即前而與操相當、羽其能制操之死命乎。以制曹仁而有餘、以敵操而固不足矣。宛・雒之師挫、則秦川之氣枵、而惡能應天下之變乎。 97 乃公之言此也、以宛・雒為疑兵、使彼拒我於宛・雒、而乘間以取關中、此又用兵者偶然制勝之一策、聲東擊西、搖惑之以相牽制、乘倉猝相當之頃、一用之而得志耳。未可守此以為長策、規之於數年之前、而恃以行之於數年之後者也。敵一測之而事敗矣。謀天下之大、而僅恃一奇以求必得、其容可哉。善取天下者、規模定乎天全、而奇正因乎時勢。故曹操曰、「任天下之智力、以道馭之、無所不可」。操之所以自許為英雄、而公乃執一可以求必可、非操之敵矣。 98 且形勢者、不可恃者也。荊州之兵利於水、一踰楚塞出宛・雒而氣餒於平陸。益州之兵利於山、一踰劍閣出秦川而情搖於廣野。恃形勢、而形勢之外無恃焉、得則僅保其疆域、失則祗成乎坐困。以有恃而應無方、姜維之敗、所必然也。當先主飄零屢挫・托足無地之日、據益州以為資、可也。從此而書宛・雒・秦川之兩策、不可也。陳壽曰、「將略非其所長」。豈盡誣乎。 99 〖二六〗 100 身任天下之重、舍惇信而趨事會、君子之所賤、抑英雄之所恥也、功隳名辱而身以死亡、必矣。欲合孫氏於昭烈以共圖中原者、魯肅也。欲合昭烈於孫氏以共拒曹操者、諸葛孔明也。二子者守之終身而不易。子敬以借荊資先主、被仲謀之責而不辭。諸葛欲諫先主之東伐、難於盡諫、而歎法正之死。蓋吳則周瑜・呂蒙亂子敬之謀、蜀則關羽・張飛破諸葛之策、使相信之主未免相疑。然二子者、終守西弔劉表東乞援兵之片言、以為金石之固於心而不能自白、變故繁興之日、微二子而人道圮矣。 101 且以大計言之、周瑜・關羽競一時之利、或得或喪、而要適以益曹操之凶。魯・葛之謀、長慮遠顧、非瑜與羽徼利之淺圖所可測、久矣。兵之初起也、群雄互角、而操挾天子四面應之而皆碎。此無異故、呂布倏彼倏此而為眾所同嫉、袁術則與袁紹離矣、袁紹則與公孫瓚競矣、袁譚・袁尚則兄弟相讎殺矣、韓遂則與馬超相疑矣、劉表雖通袁紹、視紹之敗而不恤矣、皆自相滅以授曹氏之滅之也。今所僅存者孫・劉、而又相尋於干戈、其不內潰以折入於曹操也不能。則魯・葛定交合力以與操爭存亡、一時之大計無有出於此者。晉文合宋・齊以敗楚、樂毅結趙・魏以破齊、漢高連韓・彭・英布而摧項、已事之師、二子者籌之熟而執之固。瑜與羽交起而亂之、不亦悲乎。 102 二七 103 仲謀之聽子敬、不如其信瑜・蒙、先主之任孔明、而終不違關・張之客氣、天下之終歸於曹氏也、誰使之然也。 104 或曰、操漢賊也、權亦漢賊也、拒操而睦權、非義也。夫茍充類至盡以言義、則紛爭之世、無一人之不可誅矣。權逆未成、視操之握死獻帝於其掌中、則有間矣。韓信請王齊之日竇融操遲疑之志、亦奚必其皎皎忠貞如張睢陽・文信國而後可與共事。使覈其隱微以求冰霜之操、則昭烈不與孔北海同死、而北奔袁紹、抑豈以純忠至孝立大節者乎。 105 故孫・劉之不可不合、二子之見義為已審也。其信也、近於義而可終身守者也。先主沒、諸葛遽修好於吳、所惜者、肅先亡耳、不然、尚其有濟也。乃其無濟矣、二子之惇信、固以存人道於變故繁興之世者也。 106 二八 赤壁の戰は、操の必ず敗れ、瑜の必ず勝つ、一端に非ざるなり。騎を舍てて舟するは、既に長を棄てて短を爭ふなり。操の兵 眾く、眾ければ則ち驕る。瑜の兵 寡けく、寡ければ則ち奮ふ。故に韓信 以能多將自詫、而謂漢高之不己若也、此其一也。操乘破袁紹之勢以下荊・吳、操之破紹、非戰而勝也、固守以老紹之師而乘其敝也、以此施之於吳則左矣。吳憑江而守、矢石不及、舉全吳以饋一軍、而糧運於無慮之地、愈守則兵愈增・糧愈足、而人氣愈壯、欲老吳而先自老、又其一也。北來之軍二十萬、劉表新降之眾幾半之、而恃之以為水軍之用、新附之志不堅、而懷土思散以各歸其故地者近而易、表之眾又素未有遠征之志者也、重以戴先主之德、懷劉琦之恩、故黃蓋之火一爇而人皆駭散、荊土思歸之士先之矣、此又其一也。積此數敗、而瑜之明足以見之。即微火攻、持之數月、而操亦為官渡之紹矣。知此、而兵之所己、與敵之足畏與否也、皆可預料而定也。 108 二九 109 黃權・王累・嚴顏・劉巴之欲拒先主也、智在一曲而不可謂智、忠在一曲而不可謂忠。奚以明其然也。 110 張松曰、「曹公兵無敵於天下、因張魯以取蜀、誰能禦之」。諸欲拒先主者、曾有能保蜀而不為操所奪乎。亡有術也。鐘繇之兵已向張魯、危在旦夕、而璋以柔懦待之、奪於曹必矣。與其奪於曹、無如奪於先主、則四子者、料先主之必見奪以為智、知其一曲而不知其大全也、非智也。 111 四子之於劉焉、豢屬耳、非君臣也。焉雖受命作牧、而漢之危亡、風波百沸、焉勿問焉。割土自擅、志士之所不屑事者也。先主雖不保為漢室之忠輔、而猶勤勤於定亂、視焉而愈也多矣。戴非其主而怙之、相依為逆而失名義之大、非忠也。 112 然則張松・法正其賢乎。而愈非也。璋初迎昭烈、二子者遽欲於會襲之、忍矣哉。君子於此、勸璋以州授先主而保全之、則得矣、其他皆不忠不智之徒也。 113 三○ 114 論治者言得言失、古今所共也。而得不言其所自得、失不言其所自失、故牘滿冊府、而聽之者無能以取益。張紘將死、遺牋吳主曰、「人情憚難而趨易、好同而惡異、故與治道相反」。斯言抉得失之機於居心用情之際、聞之者而能悟焉、反求之寸心、而聽言用人立政之失焉者鮮矣。 115 夫人之情、不耽逸豫、天下無不可進之善。不喜諛悅、天下無不可納之忠。然而中人之於此、恆諱之也。樂逸豫矣、而曰圖難者之迂遠而無益也。喜諛悅矣、而曰責善者之失理而非法也。反諸其心而果然乎哉。偷安喜諛、一婦人孺子之愚、而遠大之猷去之。諱其偷安喜諛之情、則利害迫於身而不知避。其迹剛愎者、其情荏苒。急取其柔情而砭之於隱、然後振起其生人之氣。而圖治有本、非汎言得失者、令人迷其受病之源、而聽之若忘也。奮恥自強、而矯其情之所流、雖聖王之修身立政、又何以加焉。 116 三一 117 荀彧拒董昭九錫之議、為曹操所恨、飲藥而卒、司馬溫公許之以忠、過矣。乃論者譏其為操謀篡、而以正論自詭、又豈持平之論哉。彧之智、算無遺策、而其知操也、尤習之已熟而深悉之。違其九錫之議、必為操所不容矣、姑托於正論以自解、冒虛名、蹈實禍、智者不為、愚者亦不為也、而彧何若是。夫九錫之議興、而劉氏之宗社已淪。當斯時也、茍非良心之牿亡已盡者、未有不惻然者也。彧亦天良之未泯、發之不禁耳、故雖知死亡之在眉睫、而不能自已。於此亦可以征人性之善、雖牿亡而不喪、如之何深求而重抑之。 118 彧之失、在委身於操而多為之謀耳。雖然、初起而即委身於操、與華歆・王朗之為漢臣而改面戴操者、抑有異矣。楊彪世為公輔、而不能亡身以憂國。邴原以名節自命、而不能辭召以潔身。蜀漢之臣、惟武侯不可苛求焉、其他則皆幸先主為劉氏之胤、而非其果能與漢存亡者也。然則彧所愧者管寧耳。當紛紜之世、舍寧而無以自全、乃彧固以才智見、而非寧之流亞久矣。季路・冉有、聚斂則從、伐顓臾則為之謀、旅泰山則不救、而子曰、「弒父與君、亦不從也。一至於大惡當前、而後天良之存者不昧、禍未成而荏苒以為之謀、聖人且信其不與於篡弒、善惡固有不相掩矣。 119 且彧之為操謀也、莫著於滅袁紹。紹之為漢賊也、不下於操、為操謀紹、猶為紹而謀操也。漢之賊、滅其一而未嘗不快、則彧為操謀、功與罪正相埒矣。若其稱霸王之圖以歆操、則懷才亟見、恐非是而不為操所用也、則彧之為操謀也、亦未可深辠也。試平情以論之、則彧者、操之謀臣也、操之謀臣、至於篡逆而心怵焉其不寧、左掣右曳以亡其身、其天良之不昧者也。並此而以為詭焉、則誣矣。 120 三二 121 春秋之法、諸侯失國則名之、賤之也。失國而又降焉、賤甚矣。此三代封建之侯國則然、受之先王、傳之先祖、天子且不得而輕滅焉、為臣子者、有死而無降、義存焉耳。劉焉之牧益州、漢命之。命之以牧、未嘗命之以世。焉死、璋偷立乎其位、益州豈焉所可傳子、而璋有宗社之責哉。 122 先主圍成都、璋曰、「父子在州二十餘年、無恩德以加百姓、攻戰三年、肌膏草野、以璋故也、何心能安」。猶長者之言也。論者曰、「劉璋暗弱」。弱者弱於強爭、暗者暗於變詐、而豈果昏孱之甚乎。其不斷者、不能早授州於先主、而多此戰爭耳。韓馥之於袁紹、璋之於先主、自知不逮而引退以避之、皆可謂保身之智矣。其屬吏悻悻以爭氣矜之雄、以毒天下、何足尚哉。 123 三三 124 吳・蜀之好不終、關羽以死、荊州以失、曹操以乘二國之離、無忌而急於篡、關羽安能逃其責哉。羽守江陵、數與魯肅生疑貳、於是而諸葛之志不宣、而肅亦苦矣。肅以歡好撫羽、豈私羽而畏昭烈乎。其欲並力以抗操、匪舌是出、而羽不諒、故以知肅心之獨苦也。 125 羽爭三郡、貪忿之兵也、肅猶與相見、而秉義以正告之、羽無辭以答、而婞婞不忘、豈盡不知肅之志氣與其苦心乎。昭烈之敗於長阪、羽軍獨全、曹操臨江、不能以一矢相加遺。而諸葛公東使、魯肅西結、遂定兩國之交、資孫氏以破曹、羽不能有功、而功出於亮。劉錡曰、「朝廷養兵三十年、而大功出一儒生」。羽於是以忌諸葛者忌肅、因之忌吳。而葛・魯之成謀、遂為之滅裂而不可復收。 126 然而肅之心未遽忿羽而墮其始志也、以義折羽、以從容平孫權之怒、尚冀吳・蜀之可合、而與諸葛相孚以制操耳。身遽死而授之呂蒙、權之忮無與平之、羽之忿無與制之、諸葛不能力爭之隱、無與體之、而成謀盡毀矣。肅之死也、羽之敗也。操之幸、先主之孤也。悲夫。 127 三四 128 金禕・耿紀・韋晃欲挾天子伐魏、使其克焉、足以存漢乎。不能也。幸而不敗、又幸而殺操、爾朱兆之死、拓拔氏乃以奔竄而見奪於宇文、非但如董卓之誅、獻帝一日不能安於長安巳也。故董承之計非計、而伏完為甚、至於金禕而尤甚矣。雖然、至於金禕・耿紀・韋晃之時、更無可以全漢之策、而忠臣志士捐三族以與國俱碎、雖必不成、義憤之不容已、亦烈矣哉。 129 於是而孫權之罪不容誅也、懷憤嫉於先主、而請降於操、操無忌矣。關羽出襄・鄧、向宛・雒、而懷忿以與孫氏爭、操知之而坐待其敗。普天之下、為漢臣者、唯三子之不恤死而誓與獻帝俱殉社稷耳、其他皆貪忿以逞者。忠臣志士無可俟之機、而又何擇焉。 130 〖三五〗 131 關羽、可用之材也、失其可用而卒至於敗亡、昭烈之驕之也、私之也、非將將之道也。故韓信之稱高帝曰、「陛下能將將」。能將將而取天下有餘矣。先主之入蜀也、率武侯・張・趙以行、而留羽守江陵、以羽之可信而有勇。夫與吳在離合之間、而恃篤信乎我以矜勇者、可使居二國之間乎。定孫・劉之交者武侯也、有事於曹、而不得復開釁於吳。為先主計、莫如留武侯率雲與飛以守江陵、而北攻襄・鄧。取蜀之事、先主以自任有餘、而不必武侯也。然而終用羽者、以同起之恩私、矜其勇而見可任、而不知其忮吳怒吳、激孫權之降操、而魯肅之計不伸也。 132 然則先主豈特不能將羽哉。且信武侯而終無能用也。疑武侯之交固於吳、而不足以快己之志也。故高帝自言能用子房者、以曹參之故舊百戰之功、而帷幄之籌、唯子房得與焉。不私其舊、不驕其勇、韓・彭且折、況參輩乎。先主之信武侯也、不如其信羽、明矣。諸葛子瑜奉使而不敢盡兄弟之私、臨崩而有「君自取之」之言、是有武侯而不能用、徒以信羽者驕羽、而遂絕問罪曹氏之津、失豈在羽哉。先主自貽之矣。

三国

國之亡、有自以亡也、至於亡、而所自亡之失昭然眾見之矣。後起者、因鑒之・懲之、而立法以弭之。然所戒在此、而所失在彼、前之覆轍雖不復蹈、要不足以自存。漢亡於宦官外戚之交橫、曹氏初立、即制宦者官不得過諸署令、黃初三年、又制后家不得輔政、皆鑒漢所自亡而懲之也。然不再世、而國又奪於權臣。立國無深仁厚澤之基、而豫教不修、子孫昏暴、撲火於原、而燄發於烓竃、雖厚戒之無救也。 3 自其亡而言之、漢之亡也、中絕復興、暴君相繼、久而後失之。魏之亡也不五世、無桀・紂之主而速滅。以國祚計之、漢為永矣。乃自順帝以後、數十年間、毒流天下、賢士駢首以就死、窮民空國以胥溺、盜賊接跡而蔓延。魏之亡也、禍不加於士、毒不流於民、盜不騁於郊。以民生計之、魏之民為幸矣。故嚴椒房之禁、削掃除之權、國即亡而害及士民者淺、仁人之澤、不易之良法也。 4 乃昏主則曰、外戚宦官、內侍禁闥、未嘗與民相接、惡從而朘削之。且其侈靡不節、間行小惠、以下施於貧乏、何至激而為盜。其剝民以致盜者、士大夫之貪暴為之也。夫惡知監司守令之毒民有所自哉。紈褲之子、刑餘之人、知諛而已、知賄而已。非諛弗官也、非賄弗諛也、非剝民之膚弗賄也、則毒流四海、填委溝壑、而困窮之民無所控告。猶栩栩然曰、吾未嘗有損於民、士大夫吮之以為利、而嫁禍於我以為名。相激相詆、挾上以誅逐清流、而天下箝口結舌、視其敗而無敢言。漢・唐・宋之浸敗而浸亡、皆此繇也。其能禁此矣、則雖有奪攘之禍、而民不被其災。故司馬篡曹、潛移於上而天下不知。勿曰防之於此、失之於彼、魏之立法無裨於敗亡也。 5 二 6 魏從陳群之議、置州郡中正、以九品進退人才、行之百年、至隋而始易、其於選舉之道、所失亦多矣。人之得以其姓名與於中正之品藻者鮮也、非名譽弗聞也、非華族弗與延譽也。故晉宋以後、雖有英才勤勞於國、而非華族之有名譽者、謂之寒人、不得與於薦紳之選。其於公天爵於天下、而獎斯人以同善之道、殊相背戾、而帝王公天下之心泯矣。 7 然且行之六代而未嘗不收人才之用、則抑有道焉。人之皆可為善者、性也。其有必不可使為善者、習也。習之於人大矣、耳限於所聞、則奪其天聰。目限於所見、則奪其天明。父兄熏之於能言能動之始、鄉黨姻亞導之於知好知惡之年、一移其耳目心思、而泰山不見、雷霆不聞。非不欲見與聞也、投以所未見未聞、則驚為不可至、而忽為不足容心也。故曰、「習與性成」。成性而嚴師益友不能勸勉、醲賞重罰不能匡正矣。 8 是以古之為法、士之子恆為士、農之子恆為農、非絕農人之子於天性之外也、雖欲引之於善、而曀霾久蔽、不信上之有日、且必以白晝秉燭為取明之具、聖人亦無如此習焉何也。故曰、「民可使由之、不可使知之」。不可使知矣、欲滌除而拂拭之、違人之習、殆於拂人之性、而惡能哉。則靳取之華胄之子・清流之士・以品隲而進退之、亦未甚為過也。父母者、乾坤也、即以命人之性者也。師友交游者、臭味也、即以發人之情者也。見聞行習者、造化也、即以移人之氣體者也。知此、則於是以求材焉、有所溢、有所漏、然而鮮矣。 9 唐之舉進士也、不以一日之詩賦、而以名望之吹噓、雖改九品中正之制、猶其遺意焉。宋以後、糊名易書、以求之於聲寂影絕之內、而此意殆絕。然而學校之造士也夙、而倡優隸卒之子弟必禁錮之、則固天之所限、而人莫能或亂者。伊尹之耕、傅說之築、膠鬲之賈、託以隱耳。豈草野倨侮・市井錐刀之中、德色父而詬誶母者、有令人哉。 10 三 11 以先主紹漢而系之正統者、為漢惜也。存高帝誅暴秦・光武討逆莽之功德、君臨已久、而不忍其亡也。若先主、則惡足以當此哉。 12 光武之始起也、即正討莽之義、而誓死以挫王邑・王尋百萬之眾於昆陽、及更始之必不可為君而後自立、正大而無慚於祖考也。而先主異是。其始起也、依公孫瓚・依陶謙、以與人爭戰、既不與於誅卓之謀。抑未嘗念袁紹・曹操之且篡、而思撲之以存劉氏。董承受衣帶之詔、奉之起兵、乃分荊得益而忘之矣。曹操王魏、己亦王漢中矣。曹丕稱帝、己亦帝矣。獻帝未死而發其喪、蓋亦利曹丕之弒而己可為名矣。費詩陳大義以諫而左遷矣。是豈誓不與賊俱生而力為高帝爭血食者哉。 13 承統以後、為人子孫、則亡吾國者、吾不共戴天之讎也。以苻登之孤弱、猶足以一逞、而先主無一矢之加於曹氏。即位三月、急舉伐吳之師、孫權一驃騎將軍荊州牧耳、未敢代漢以王、而急修關羽之怨、淫兵以逞、豈祖宗百世之讎、不敵一將之私忿乎。先主之志見矣、乘時以自王而已矣。 14 故為漢而存先主者、史氏之厚也。若先主、則固不可以當此也。羿篡四十載而夏復興、莽篡十五年而漢復續、先主而能枕戈寢塊以與曹丕爭生死、統雖中絕、其又何傷。尸大號於一隅、既殂而後諸葛有祁山之舉、非先主之能急此也。司馬溫公曰、「不能紀其世數」。非也。世數雖足以紀、先主其能為漢帝之子孫乎。 15 四 16 談君臣之交者、競曰先主之於諸葛。伐吳之舉、諸葛公曰、「孝直若在、必能制主上東行」。公之志能盡行於先主乎。悲哉。公之大節苦心、不見諒於當時、而徒以志決身殲遺恨終古、宗澤詠杜甫之詩而悲惋以死、有以也夫。 17 公之心、必欲存漢者也、必欲滅曹者也。不交吳、則內掣於吳而北伐不振。此心也、獨子敬知之耳。孫權尚可相諒、而先主之志異也。夫先主亦始欲自疆終欲自王、雄心不戢、與關羽相得耳。故其信公也、不如信羽、而且不如孫權之信子瑜也。疑公交吳之深、而並疑其與子瑜之合。使公果與子瑜合而有裨於漢之社稷、固可勿疑也、而況其用吳之深心、勿容妄揣也哉。先主不死、吳禍不息、祁山之軍不得而出也。迨猇亭敗矣、先主殂矣、國之精銳盡於夷陵、老將如趙雲與公志合者亡矣。公收疲敝之餘民、承愚暗之沖主、以向北方、而事無可為矣。公故曰、「鞠躬盡瘁、死而後已」。唯忘身以遂志、而成敗固不能自必也。 18 向令先主以篤信羽者信公、聽趙雲之言、輟東征之駕、乘曹丕初篡・人心未固之時、連吳好以問中原、力尚全、氣尚銳、雖漢運已衰、何至使英雄之血不灑於許・雒、而徒流於猇亭乎。公曰、「漢・賊不兩立」。悲哉其言之也。若先主、則固非有宗社存亡之戚也、強之哭者不涕、公其如先主何哉。 19 張良遇高帝而志伸、宗澤遇高宗而志沮。公也、子房也、汝霖也、懷深情而不易以告人、一也、而成敗異。公懷心而不能言、誠千秋之遺憾與。 20 五 21 楊顒之諫諸葛公曰、「為治有體、上下不可相侵」。大哉言矣。公謝之、其沒也哀之、而不能從、亦必有故矣。公之言曰、「寧靜可以致遠」。則非好為煩苛以競長而自敝者也。 22 先主之初微矣、雖有英雄之姿、而無袁・曹之權藉、屢挫屢奔、而客處於荊州、望不隆而士之歸之也寡。及其分荊據益、曹氏之勢已盛、曹操又能用人而盡其才、人爭歸之、蜀所得收羅以為己用者、江・湘・巴・蜀之士耳。楚之士輕、蜀之士躁、雖若費褘・蔣琬之譽動當時、而能如鐘繇・杜畿・崔琰・陳群・高柔・賈逵・陳矯者、亡有也。軍不治而唯公治之、民不理而唯公理之、政不平而唯公平之、財不足而唯公足之。任李嚴而嚴亂其紀、任馬謖而謖敗其功。公不得已、而察察於纖微、以為訏謨大猷之累、豈得已乎。 23 夫大有為於天下者、必下有人而上有君。而公之託身先主也、非信先主之可為少康・光武也、恥與荀彧・郭嘉見役於曹氏、以先主方授衣帶之詔、義所可從而依之也。上非再造之君、下無分猷之士、孤行其志焉耳。向令龐統・法正不即於溘亡、徐庶・崔州平未成乖散、先主推心置腹、使關羽之傲・李嚴之險、無得間焉、領袖群才、各效其用、公亦何用此營營為也。公之泣楊顒也、蓋自悼也。 24 六 25 漢・魏・吳之各自帝也、在三年之中、蓋天下之稱兵者已盡、而三國相爭之氣已衰也。曹操知其子之不能混一天下、丕亦自知一篡漢而父子之鋒鋩盡矣。先主固念曹氏之不可搖、而退息乎巖險。孫權觀望曹・劉之勝敗、既知其情之各自帝、而息相吞之心、交不足懼、則亦何弗擁江東以自帝邪。權所難者、先主之扼其肘腋耳。先主殂於永安、權乃拒魏而自尊、樂得鄧芝通好以安處於江東。繇此觀之、此三君者、皆非有好戰樂殺之情、而所求未得、所處未安、弗獲已而相為捍格也。 26 曹氏之戰亟矣、處中原而挾其主、其敵多、其安危之勢迫、故孫氏之降、知其非誠而受之。敵且盡、勢且安、甘苦自知、而殺戮為慘。亦深念之矣。孫氏 則ち赤壁の外に大戰無きなり。先主 則ち蜀を收めて荊を爭ひて姑く且に息む。是を以て三君は、猶ほ之を後裔に傳ふ可く、而して公孫・袁・呂と與に同に其の血胤を殄せず。上天の大命 有德に集ひ、其の德無しと雖も、而れども抑く殺を樂しむの心無くんば、則ち亦た之を予りて以て安全せしむ。天地の心、仁を以て復と為す、豈に信ぜざるか。
丕の逆するや、權の狡なるや、先主の愎なるや、皆 保固して爾後に天罰を降さず、以其知止而能息民也。逆與狡、違道甚矣、而惟愎尤甚。先主甫即位而興伐吳之師、毒民以逞、傷天地之心、故以漢之宗支而不敵篡逆之二國。先主殂、武侯秉政、務農殖穀、釋吳怨以息民、然後天下粗安。蜀漢之祚、武侯延之也、非先主之所克勝也。 28 七 29 蜀漢之義正、魏之勢強、吳介其間、皆不敵也、而角立不相下、吳有人焉、足與諸葛頡頏、魏得上雖多、無有及之者也。立國之始、宰相為安危之大司、而吳之舍張昭而用顧雍、雍者、允為天子之大臣者也、屈於時而相偏安之國爾。 30 曹氏始用崔琰・毛玠、以操切治臣民、而法粗立。王道息、申・韓進、人心不固、而國祚不長、有自來也。諸葛之相先主也、淡泊寧靜、尚矣。而與先主皆染申・韓之習、則且與曹氏德齊而莫能相尚。代以下之材、求有如顧雍者鮮矣。寡言慎動、用人惟其能而無適莫。恤民之利病、密言於上而不衒其恩威。黜小利小功、罷邊將便宜之策、以圖其遠大。有曹參之簡靖而不弛其度、有宋璟之靜正而不燿其廉。求其德之相若者、曠世而下、唯李沆為近之、而雍以處兵爭之世、事雄猜之主、雍為愈矣。故曰、允為天子之大臣也。 31 雍既秉國、陸遜益濟之以寬仁、自漢末以來、數十年無屠掠之慘、抑無苛繁之政、生養休息、唯江東也獨。惜乎吳無漢之正・魏之疆、而終於一隅耳。不然、以平定天下而有餘矣。 32 八 33 魏之亡、自曹丕遺詔命司馬懿輔政始。懿之初起為文學掾、豈夙有奪魏之心哉。魏無人、延懿而授之耳。懿之視操、弗能若也。操之威力、割二袁・俘呂布・下劉表・北埽烏桓、而懿無其功。操迎天子於危亂之中、復立漢之社稷、而懿無其名。魏有人、懿不能奪也。 34 魏之無人、曹丕自失之也。而非但丕之失也、丕之詔曹真・陳群與懿同輔政者、甚無謂也。子叡已長、群下想望其風采、大臣各守其職司、而何用輔政者為。其命群與懿也、以防曹真而相禁制也。然則雖非曹爽之狂愚、真亦不能為魏藩衛久矣。以群・懿防真、合真與懿・群而防者、曹植兄弟也。故魏之亡、亡於孟德偏愛植而植思奪適之日。兄弟相猜、拱手以授之他人、非一旦一夕之故矣。 35 漢高意移於趙王、唐高情貳於建成、宋祖受母命而亂與子之法、開國之初所恆有也。而曹氏獨以貽覆宗之禍。天不佑僭人、而使並峙於時以生猜制、天之道也。藉其不然、釁雖開於骨肉、必不假秉政握兵之異姓、持權以箝束懿親。漢・唐・宋爭於室而姦邪不興於外、豈有患哉。魏之自取滅亡、天邪。人邪。人之不臧者、天也。 36 九 37 兩敵相持、而有起兵於腹里者以遙相應、見為可恃、恃以夾攻內應者必敗。勿問其為義也・為賊也、皆不可恃以冒進者也。其為義也、忠臣志士、孤憤蹶起、而成敗非其所謀、且其果懷忠憤者、一二人耳、其他皆徼利無恆、相聚而不相攝者也。若其為賊也、則妄人非分之圖、假我以惑眾而亡實者耳、如之何其恃邪。 38 彭綺、亂人也、借為魏討吳以為名、而實賊也。其心恃我之援、而己歘然而興、虐民罔利、而欲恃以為應援、彼敗而我之鋒亦挫矣。彼可恃也、奚用我為。彼不可恃矣、而抑安能為我之恃乎。侯景不足以難魏、適以亡梁、擁大眾・扼爭地者且然、況烏合之一旅哉。岳侯恃兩河忠義以伐金、使無金牌之撤、亦莫保其不與俱潰也。孫資諫曹叡之應彭綺、明於料敵矣。 39 一○ 40 諸葛公出師北伐、表上後主、以親賢遠小人為戒、一篇之中、三致意焉。後主失國之繇、早見於數十年之前、公於此無可如何、而唯以死謝寸心耳。 41 賢臣之進、大臣之責也、非徒以言、而必有進之之實。公於郭攸之・費褘・董允・向寵亦既進之無遺力矣。然能進而不能必庸主之親之。庸主見賢而目欲垂、猶賢主見小人而喉欲噦也、無可如何也。雖然、尚可使之在列也。至於小人之親、而愈無可如何矣。卑其秩、削其權、不得有為焉止矣。愈抑之、庸主愈狎之。愈禁之、庸主愈私之。斂迹於禮法之下、而噂沓於帷帟之中。庸主曰、此不容於執政、而固可哀矜者也。綢繆不舍、信其無疵可摘、而蠱毒潛中於肸鄉之微。嗚呼。其將如之何哉。 42 故賢臣不能使親而猶可進、小人可使弗進而不能使弗親。非有伊尹放桐非常之舉、周公且困於流言、況當篡奪相仍之世、而先主抑有「君自取之」之亂命、形格勢禁、公其如小人何哉。歷舉興亡之繇、著其大端而已。何者為小人、不能如郭・費・董・向之歷指其人而無諱也。指其名而不得、而況能制之使勿親哉。以一死謝寸心於未死之間、姑無決裂焉足矣。公之遺憾、豈徒在漢・賊之兩立也乎。 43 一一 44 曹孟德推心以待智謀之士、而士之長於略者、相踵而興。孟德智有所窮、則荀彧・郭嘉・荀攸・高柔之徒左右之、以算無遺策。迨於子桓之世、賈詡・辛毗・劉嘩・孫資皆坐照千里之外、而持之也定。故以子桓之鄙・睿之汰、抗仲謀・孔明之智勇、而克保其磐固。 45 孔明之北伐也、屢出而無功、以為司馬懿之力能拒之、而早決大計於一言者、則孫資也。漢兵初出、三輔震驚、大發兵以迎擊於漢中、庸詎非應敵之道。乃使其果然、而魏事去矣。漢以初出之全力、求敵以戰、其氣銳。魏空關中之守、即險以爭、其勢危。皆敗道也。一敗潰而漢乘之、長安不守、漢且出關以搗宛・雒、是帝破項之故轍也、魏惡得而不危。資籌之審矣、即見兵據要害、敵即盛而險不可踰、據秦川沃野之粟、坐食而制之、雖孔明之志銳而謀深、無如此漠然不應者何也。資片言定之於前、而拒諸葛・挫姜維、收傚於數十年之後、司馬懿終始所守者此謀也。 46 魏足智謀之士、昏主用之而不危。故能用人者、可以無敵於天下。 47 一二 48 魏延請從子年谷直搗長安、正兵也。諸葛繞山而西出祁山、趨秦・隴、奇兵也。高帝舍棧道而出陳倉、以奇取三秦、三秦之勢散、拊其背而震驚之、而魏異是。非堂堂之陣直前而攻其堅、則雖得秦・隴、而長安之守自有餘。魏所必守者長安耳、長安不拔、漢固無如魏何。而迂回西出、攻之於散地、魏且以為是乘間攻瑕、有畏而不敢直前、則敵氣愈壯、而我且疲於屢戰矣。夏侯楙可乘矣、魏見漢兵累歲不出而志懈、卒然相臨、救援未及、小得志焉。彌旬淹月、援益集、守益固、即欲拔一名都也且不可得、而況魏之全勢哉。故陳壽謂應變將略非武侯所長、誠有謂已。 49 而公謀之數年、奮起一朝、豈其不審於此哉。果畏其危也、則何如無出而免於疲民邪。夫公固有全局於胸中、知魏之不可旦夕亡、而後主之不可起一隅以光復也。其出師以北伐、攻也、特以為守焉耳。以攻為守、而不可示其意於人、故無以服魏延之心而貽之怨怒。 50 秦・隴者、非長安之要地、乃西蜀之門戶也。天水・南安・安定、地險而民疆、誠收之以為外蔽、則武都・陰平在懷抱之中、魏不能越劍閣以收蜀之北、復不能繞階・文以搗蜀之西、則蜀可鞏固以存、而待時以進、公之定算在此矣。公沒蜀衰、魏果由陰平以襲漢、夫乃知公之定算、名為攻而實為守計也。 51 公之始為先主謀曰、「天下有變、命將出宛・雒、自嚮秦川」。惟直指長安、則與宛・雒之師相應。若西出隴右、則與宛・雒相去千里之外、首尾斷絕而不相知。以是知祁山之師、非公初意、主闇而敵疆、改圖以為保蜀之計耳。公蓋有不得已焉者、特未可一一與魏延輩語也。 52 一三 53 武侯之任人、一失於馬謖、再失於李嚴、誠哉知人之難也。闇者不足以知、而明察者即以明察為所蔽。妄者不足以知、而端方者即以端方為所蔽。明察則有短而必見、端方則有瑕而必不容。士之智略果毅者、短長相間、瑕瑜相雜、多不能純。察之密、待之嚴、則無以自全而或見棄、即加意收錄、而固不任之矣。於是而飾其行以無過・飾其言以無尤者、周旋委曲以免摘。言果辨、行果堅、而孰知其不可大任者、正在於此。似密似慎、外飾而中枵、惡足任哉。 54 故先主過實之論、不能遠馬謖、而任以三軍。陳震鱗甲之言、不能退李嚴、而倚以大計。則唯武侯端嚴精密、二子即乘之以蔽而受其蔽也。於是而曹孟德之能用人見矣、以治天下則不足、以爭天下則有餘。蔽於道而不蔽於才、不能燭司馬懿之奸、而荀彧・郭嘉・鐘繇・賈詡、惟所任而無不稱矣。 55 一四 56 城濮之戰、晉文不恃齊・秦也。恃齊・秦、則必令齊掠陳・蔡而南以牽之於東、秦出武關、下鄢・郢以撓之。滎陽之戰、高帝不恃彭・黥也。恃黥布、則當令布率九江之、沿淮而襲之。恃彭越、則越勝而進、越敗而退也。善用人者不恃人、此之謂大略。 57 吳人敗曹休於石亭、諸葛出陳倉之師、上言曰、「賊疲於西、又務於東、兵法乘勞、此進趨之時也」。其無功宜矣。恃吳勝而乘之、吳且退矣、失所恃而心先沮・氣先折也。蜀定吳交以制魏、此諸葛之成謀、計之善者也。雖然、吳交之必定、亦唯東顧無憂、可決於進爾。及進、而所恃者終在己也。我果奮勇以大挫魏於秦川而舉長安、吳且恃我以疾趨淮・汝、不恃吳而吳固可恃也。己未有必勝之形、而恃人以逞、交相恃、交相誤、六國之合從、所以不能動秦之毫末、其左驗已。 58 石亭之役、賈逵以虛聲怖吳而吳退、吳望蜀之乘之、蜀不能應也。陳倉之役、張郃以偏師拒蜀而蜀沮、蜀望吳之牽之、吳不能應也。兩國異心、謀臣異計、東西相距、聲響之利鈍不相及、聞風而馳、風定而止、恃人者、不敗足矣、未有能成者也。德必有鄰、修德者不恃鄰。學必會友、為學者不恃友。得道多助、創業者不恃助。不恃也、乃可恃也。故曰、「一人行則得其友」。言致一也。 59 一五 60 魏制、諸侯入繼大統者、不得謂考為皇・稱妣為后、是也。帝后之尊、天之所秩、非天子所得擅以加諸其親、則大統正而天位定也。其曰、「纂正統而奉公義、何得復顧私親」。則襲義而戕仁矣。 61 所後者以承統而致其尊、因以致其親、義也。所生者以嗣統而屈其尊、不能屈其親、仁也。親者、與心生以生其心、性之不可掩者也。故古之制服、為人後者、為所生父母期、不問與所生相去親疏、即與所後者在六世袒免之外而必期、且必正名之曰「所生父母」、未嘗概置諸伯叔之列也。抑此猶為為人後者言之。若宋英宗之後仁宗、孝宗之後高宗、固以為子而子之、則所後所生父母之名各正、而所生者並屈其親。若夫前君之生也、未嘗告宗廟・詔臣民・而正其為後。嗣子之嗣也、未嘗修寢門視膳之儀、立國儲君副之位、臣民推戴而大位歸焉。則亦如光武之於南頓、位號不可僭、而天倫不可忘、何得遽謂之私親而族人視之也哉。 62 天下所重者、統也。人子所不可背者、親也。為天下而不敢干其統、則天下之義重、而已之恩輕。雖有天下、而不可沒其生我之恩、則天下敝屣、而親為重。導諛者、獻追尊之僭。矯異者、沒父母之名。折衷以順天理之固然、豈一偏之說所可亂哉。 63 一六 64 國政之因革、一張一弛而已。風俗之變遷、一質一文而已。上欲改政而下爭之、爭之而固不勝。下欲改俗而可抑之、抑之而愈激以流。故節宣而得其平者、未易易也。 65 東漢之中葉、士以名節相尚、而交游品題、互相持以成乎黨論、天下奔走如騖、而莫之能止。桓・靈側聽奄豎、極致其罪罟以摧折之、而天下固慕其風而不以為忌。曹孟德心知摧折者之固為亂政、而標榜者之亦非善俗也、於是進崔琰・毛玠・陳群・鐘繇之徒、任法課能、矯之以趨於刑名、而漢末之風暫息者數十年。琰・玠殺、孟德歿、持之之力窮、而前之激者適以揚矣。太和之世、諸葛誕・鄧颺浸起而矯孟德綜實之習、結納互相題表、未嘗師漢末之為、而若或師之。且刓方向圓、崇虛墮實、尤不能如李・杜・范・張之崇名節以勵俗矣。乃遂以終魏之世、迄於晉而不為衰止。然則孟德之綜核名實也、適以壅已決之水於須臾、而助其流溢已耳。故曰抑之而愈以流也。 66 名之不勝實・文之不勝質也、久矣。然古先聖人、兩俱不廢以平天下之情。獎之以名者、以勸其實也。導之以文者、以全其質也。人之有情不一矣、既與物交、則樂與物而相取、名所不至、雖為之而不樂於終。此慈父不能得之於子、嚴師不能得之於徒、明君不能得之於臣民者也。故因名以勸實、因文以全質、而天下歡忻鼓舞於敦實崇質之中、以不蕩其心。此而可杜塞之以域民於矩矱也、則古先聖人何弗圉天下之躍冶飛揚於鉗網之中也。以為拂民之情而固不可也。情者、性之依也、拂其情、拂其性矣。性者、天之安也、拂其性、拂其天矣。志鬱而勃然以欲興、則氣亦蝹蜦屯結而待隙以外洩。迨其一激一反、再反而盡棄其質以浮蕩於虛名。利者爭託焉、偽者爭托焉、激之已極、無所擇而唯其所汎濫。夏侯玄・何晏以之亡魏、王衍・王戎以之亡晉、五胡起、江東僅存、且蔓引以迄於陳・隋而不息、非崇質尚實者之激而豈至此哉。 67 桓雲激之矣、奄豎激之矣、死亡接踵而激猶未甚、桓・靈・奄豎不能掩其名也。孟德・琰・玠並其名而掩之、而後詭出於玄虛、橫流於奔競、莫能禁也。以傅咸・卞壼・陶侃之公忠端亮、折之而不勝、董昭欲以區區之辨論、使曹叡持法以禁之、其將能乎。聖王不作、禮崩樂壞、政暴法煩、祗以增風俗之浮蕩而已矣。 68 一七 69 魏伐遼東、蜀征南中、一也、皆用乒謀國之一道也。與隋煬之伐高麗・唐玄之伐雲南、異矣。隋・唐當天下之方寧、貪功而圖遠、涉萬里以徼幸、敗亡之釁、不得而辭焉。諸葛公之慎、司馬懿之智、舍大敵而勤遠略、其所用心者未易測矣。 70 兩敵相持、勢相若而不相下、固未得晏然處也。而既不相為下矣、先動而躁、則受其傷、弗容不靜以俟也。靜以俟、則封疆之吏習於固守、六軍之士習於休息、會計之臣習於因循。需之需之、時不可徼而兵先弛。技擊奔命・忘生趨死之情、日以翱翔作好而墮其氣。則靜退之禍、必伏於不覺。一旦有事、張皇失措、驚尤肭朒縮、而國固不足以存、況望其起而制人、收長驅越險之功哉。魏之東征、蜀之南伐、皆所以習將士於戰而養其勇也。先主殂、蜀未可以圖中原、孟德父子繼亡、魏未可以并吳・蜀、兵不欲其久安而忘致死之心、諸葛之略、司馬之智、其密用也、非人之所能測也。 71 或曰、習士於戰、有訓練之法、而奚以遠伐為。嗚呼。此坐而談兵、誤人家國之言耳。步伐也、系刺也、束伍也、部分也、訓練而習熟者也。兩軍相當、飛矢雨集、白刃拂項、趨於死以爭必勝、氣也、非徒法也。有其法不作其氣、無輕生之情、而日試於旌旗金鼓之間、雍容以進退、戲而已矣。習之愈久而士愈無致死之心、不亡何待焉。訓練者、戰餘而教之也、非數十年之中、目不見敵、徒修其文具之謂也。 72 一八 73 武侯遺令魏延斷後、為蔣琬・費褘地也。李福來請、公已授蜀於琬・褘。而必不可使任蜀者、魏延也。延權亞於公、而雄猜難御、琬未嘗與軍旅之任、而威望不隆、延先入而挾孱主、琬固不能與爭、延居然持蜀於掌腕矣。唯大軍退而延不得孤立於外、楊儀先入而延不得為主於中、雖憤激而成乎亂、一夫之制耳。 74 延之亂也、不北降魏而南攻儀、論者謂其無叛心。雖然、豈可保哉。延以偏將孤軍、主帥死而乞活於魏、則亦司馬懿之屬吏而已矣、南轅而不北駕、不欲為懿下也。使其操全蜀之兵、制朝權而唯其意、成則攘臂以奪漢、不成將舉三巴以附魏、司馬懿不得折箠而馭之、其降其否、亦惡可諒哉。 75 楊儀福小之器耳、其曰「吾若舉軍就魏、寧當落度如此」。是則即為懿屈而不慚者。令先歸而延與姜維持其後、蔣琬談笑而廢之、非延匹也。於是而武侯之計周矣。故二將訌而於國無損。不然、將爭於內、敵必乘之、司馬懿之智、豈不能間二亂人以捲蜀、而何為斂兵以退也。 76 一九 77 武侯之言曰、「淡泊可以明志」。誠淡泊矣、可以質鬼神、可以信君父、可以對僚友、可以百姓、無待建鼓以亟鳴矣。且夫持大權・建大功、為物望所歸、而懷不軌之志者、未有不封殖以厚儲於家者也。以示豆區之恩、以收百金之士、以餌腹心之蠹、以結藩鎮之歡、胥於財而取給。季氏富於周公、而魯昭莫能制焉、曹・馬・劉・蕭、皆祖此術也。誠淡泊矣、競利名者之所不趨、而子孫亦習於儒素、不問其威望之重輕、而固知其白水盟心・衡門歸老之夙圖矣。 78 乃武侯且表於後主曰、「成都有級八君株、薄田十五頃、死之日、不使內有餘帛・外有贏粟、以負陛下」。一若志晦不章・憂讒畏譏之疏遠小臣、屑屑而自明者。嗚呼。於是而知公之志苦而事難矣。後主者、未有知者也、所猶能持守以信公者、先主之遺命而已。先主曰、「子不可輔、君自取之」。斯言而入愚昧之心、公非剖心出血以示之、豈能無疑哉。身在漢、兄弟分在魏・吳、三國之重望、集於一門、關・張不審、挾故舊以妬其登庸、先主之疑、蓋終身而不釋。施及嗣子之童昏、內而百揆、外而六軍、不避嫌疑而持之固、含情不吐、誰與諒其志者。然則後主之決於任公、屈於勢而不能相信以道、明矣。公乃諄諄然取桑田粟帛・竭底蘊以告、無求於當世、其孤幽之忠貞、危疑若此、而欲北定中原・復已亡之社稷也、不亦難乎。 79 於是而知先主之知人而能任、不及仲謀遠矣。仲謀之於子瑜也・陸遜也・顧雍也・張昭也、委任之不如先主之於公、而信之也篤、豈不賢哉。先主習於申・韓而以教子、其操術也、與曹操同、其宅心也、亦徬佛焉。自非司馬懿之深奸、則必被制曳而不能盡展其志略。故曰公志苦而事難也。不然、公志自明、而奚假以言明邪。 80 二○ 81 得直諫之士易、得憂國之臣難。識所不及、誠所不逮、無死衛社稷之心、不足與於憂國之任久矣。若夫直諫者、主德之失、章章見矣。古之為言也、仁慈恭儉之得、奢縱苛暴之失、亦章章見矣。習古之說而以證今之得失、不必深思熟慮、殷憂鬱勃、引休戚於躬受、而斟酌以求寧、亦可奮起有言而直聲動天下矣。 82 魏主睿之後、一傅而齊王芳廢、再傅而高貴鄉公死、三傅而常道鄉公奪。青龍・景初之際、禍胎已伏、蓋岌岌焉、無有慮此為睿言者、豈魏之無直臣哉。睿之營土木・多內寵・求神僊・察細務・濫刑賞也、舊臣則有陳群・辛毗・蔣濟、大僚則有高堂隆・高柔・楊阜・杜恕・陳矯・衛覬・王肅・孫禮・衛臻、小臣則有董尋・張茂、極言無諱、不避喪亡之謗詛、至於叩棺待死以求伸。睿雖包容勿罪、而諸臣之觸威以抒忠也、果有身首不恤之忱。漢武・唐宗不能多得於群臣者、而魏主之廷、森森林立以相繩糾。然而阽危不救、旋踵國亡。繇是觀之、直諫之臣易得、而憂國之臣未易有也。 83 高堂隆因鵲巢之變、陳他姓制御之說。問陳矯以司馬公為社稷之臣、而矯答以未知。然則魏之且移於司馬氏、禍在旦夕、魏廷之士或不知也、知而或不言也。隆與矯知之而不深也、言之而不力也。當其時、懿未有植根深固之黨、未有榮人・辱人・生人・殺人之威福、而無能盡底蘊以為魏主告。無他、心不存乎社稷、浮沈之識因之不定、未能剖心刻骨為曹氏徘徊四顧而求奠其宗祏也。逮乎魏主殂、劉放・孫資延大姦於肘掖之後、雖灼見魏之必亡而已無及矣。 84 以社稷為憂者、如操舟於洪濤巨浸、脈察其磧岸洑渦之險易、目不旁瞬而心喻之。則折旋於數十里之外而避危以就安也、適其所泊而止。豈舟工之智若神禹哉。心壹於是而生死守之爾。若夫雒陽・崇華銅人土山之縱欲勞民、與夫暴怒刑殺・聽小臣毀大臣・躬親細務而陵下不君、此皆見之聞之、古雒明訓、而依道義以長言之、則不必有體國之忠、而但有敢言之氣、固可無所畏避而唯其敷陳者也。抑豈足恃為宗社生民之託哉。 85 二一 86 陳群上封事諫魏主、輒削其草。楊阜觸人主之威以直諫、與人言未嘗不道。袁宏贊群之忠、而譏阜之播揚君惡。夫阜激而太過、誠然矣。以群之削草為忠臣之極致、又奚得哉。宏曰、「仁者愛人、施之君謂之忠、施之親謂之孝」。非知道之言也。 87 君父均也、而事之之道異。禮曰、「事親有隱無犯、事君有犯無隱」。隱者、知其惡而諱之也。有隱以全恩、無隱以明義、道之準也。君之有過也、諫之而速改、改過之美莫大焉。稱其前之過以表其後之改、固以揚其美之大者也。諫而不聽、君過成矣。即不言、而臣民固已知之矣。導諛之臣、方且為之飾非為是、弭在廷之口。而諫者更為之掩覆、於是而導諛之臣益無所忌、而唯其欲為。且己諫而不聽、庶幾人之繼進也。小臣疏遠、望近臣之從違以為語默。近臣養君之慝而蔽下之知、則疏遠欲言之士、且徘徊疑沮、而以柔巽揄揚為風尚。勸忠之道、喪於唯諾之習、孤鳴無和、雖造膝而為痛哭、亦無如怙過之主何矣。 88 韓愈氏非知道者、擬文王之詩曰、「臣罪當誅兮、天王聖明」。文王而為此言也、則飛廉・惡來且援為口實以惑紂、而信比干之死為當其辜矣。亦何憚而不殫其斮脛炮烙之慘乎。若群者、以全身於暴主之側、孔光溫樹之故智也、謂之曰忠、而同君父於一致、袁宏惡知忠臣之極致哉。 89 二二 90 魏主睿之詔曰、「漢承秦亂、廢無禘禮、曹氏世系、出自有虞、以舜配天、以舜妃配地」。其亢地於天、離妣於祖、亂乾坤高卑之位、固不足道矣。妄自祖虞而以廢禘譏漢、尤不知禘者也。 91 自漢以下、禘之必廢也無疑也。三代而上、君天下者、數姓而已、天子之支庶、分封為侯、各受命而有社稷。其後一族衰微、則一族之裔孫以德而復陟帝位、無有不繇諸侯祖天子而崛起者也。推創業之主而上之、始受命而有社稷者、其始祖也、商之契・周之稷是也。又推而上之、則固有天下者也、而高辛是也、是為始祖所自出之帝也。世有社稷而為君、代相承而譜牒具存、雖歷數十世而雲仍不絕、則所自出之帝雖遠、亦猶父子之相授、淵源不昧。而後此之有天下者、仍還其前此有天下之故業、以示帝位之尊、不越神明之胄、非是者不得而乾焉。此封建未墜之天下、道固然也。 92 秦雖無德、而猶柏翳之裔、受封西土、可以繼三代而王、使追所自出之帝而禘焉、得矣。至於漢興、雖曰帝堯之苗裔、而不可考也。陶唐之子孫受侯封者、國久滅而宗社皆亡、帝堯之不祀、久已忽諸。高帝起田間為亭長、自以滅秦夷項之功而有天下、徵家世於若存若亡之餘、懸擬一古帝為祖、將誰欺。欺天乎。自漢以下之不禘、豈不允哉。 93 漢曰祖堯也、王莽・曹氏曰祖舜也、唐曰祖皋陶也・老耼也、攀援不可致詰之聖賢以自張大者也。澤所已斬、道所不嗣、誠所不至、以名屬之、以文修之、漢乎其不相及久矣。當其側微、不知其有所祖也、序其譜系、不知其必為祖也、且遠引而祖之、仁人孝子之事其先、如是而已哉。郭崇韜垂涕汾陽之墓、梁師成追訟眉山之誣、為姍笑而已。魏主睿其何以異於是。 94 二三 95 任人任法、皆言治也、而言治者曰、任法不如任人。雖然、任人而廢法、則下以合離為毀譽、上以好惡為取舍、廢職業、徇虛名、逞私意、皆其弊也。於是任法者起而摘之曰、是治道之螙也、非法而何以齊之。故申・韓之說、與王道而爭勝。乃以法言之、周官之法亦密矣、然皆使服其官者習其事、未嘗懸黜陟以擬其後。蓋擇人而授以法、使之遵焉、非立法以課人、必使與科條相應、非是者罰也。 96 法誠立矣、服其官、任其事、不容廢矣。而有過於法之所期者焉、有適如其法之所期者焉、有不及乎法之所期者焉。才之有偏勝也、時之有盈詘也、事之有緩急也、九州之風土各有利病也。等天下而理之、均難易而責之、齊險易豐兇而限之、可為也而憚於為、不可為也而強為塗飾以應上之所求、天下之不亂也幾何矣。上之所求於公卿百執郡邑之長者、有其綱也。安民也、裕國也、興賢而遠惡也、固本而待變也、此大綱也。大綱圮而民怨於下、事廢於官、虛譽雖騰、莫能揜也。茍有法以授之、人不得以玩而政自舉矣。故曰擇人而授以法、非立法以課人也。 97 論官常者曰、清也、慎也、勤也。而清其本矣。弗慎弗勤而能清也、詘於繁而可以居要、充其至可以為社稷臣矣。弗清而不慎不勤、其罪易見、而為惡也淺。弗清矣、而慎以勤焉、察察孳孳以規利而避害、夫乃為天下之巨奸。考課以黜陟之、即其得而多得之於勤慎以墮其清、況其所謂勤者非勤、而慎者非慎乎。是所謂孳孳為利、蹠之徒矣。清議者、似無益於人國者也、而國無是不足以立。恐其亡實而後以法飭之、周官・周禮・關雎・麟趾之精意所持也。京房術數之小人、何足以知此哉。盧毓・劉邵師之以惑魏主、不能行焉必也。雖不能行、而後世功利刑名之徒、猶師其說。張居正之毒、所以延及百年而不息也。 98 二四 99 魏主睿授司馬懿以輔政、而懿終篡也、宜哉。法紀立、人心固、大臣各得其人、則臥赤子於天下之上而可不亂、何庸當危病昏瞀之時、委一二人、錫以輔政之名、倒魁柄而授之邪。 100 周公之輔成王也、王幼而未有知識、且公之至德、曠古一人、而武王之信公也、以兩聖而相知也。然使無輔政之名、則二叔亦無釁以搆難、而沖人晏然矣。漢武之任霍・金・上官也、上官逆、霍氏不終矣。輔政之名、由此而立、而抑安足師乎。先主之任諸葛、而諸葛受命、當分爭之世、而後主不足有為也、兩俱弗獲已而各盡其心耳。先主不能舍後主而別有所立、則不能不一委之諸葛以壹後主之心。 101 若夫魏主睿、無子而非有適長之不可易也、宗室之子、唯其所擇以為後。當其養芳與詢為子之日、豈無賢而可嗣者、慎簡而豫教之。迨其將殂、芳之為子已三歲矣、可否熟知、而教訓可夙、何弗擇之於先、教之於後令可君國而勿墜、而使劉放・孫資得乘其篤疾以晉姦雄於負扆哉。為天下得人者、得一人爾。得其人而宰輔百執無不得焉。己既無子、唯其意而使一人以為君、不審其勝任與否、而又別委人以輔之、則胡不竟授以天下而免於篡弒乎。漢之自旁支入繼者、皆昏庸之器、母后權奸之為之也、非若睿之自擇而養之也。彼憒憒以死、無意於宗社而委之婦人者、無責耳矣、而魏主叡何為若也。 102 宋仁宗之授英宗、高宗之授孝宗、一旦嗣立而太阿在握。有二君之慎、豈至忍死以待巨姦而付以童昏也哉。故宋二宗之立嗣、允為後世法也。輔政者危亡之本、惡得託周公之義以召禍於永世哉。 103 二五 104 史稱何晏依勢用事、附會者升進、違忤者罷退、傅嘏譏晏外靜內躁、皆司馬氏之徒、黨邪醜正、加之不令之名耳。晏之逐異己而樹援也、所以解散私門之黨、而厚植人才於曹氏也。盧毓・傅嘏懷寵祿、慮子孫、豈可引為社稷臣者乎。藉令曹爽不用晏言、父事司馬懿、而唯言莫違、爽可不死、且為戴莽之劉歆。若逮其篡謀之已成、而後與立異、劉毅・司馬休之之所以或死或亡、而不亦晚乎。爽之不足與有為也、魏主睿之不知人而輕托之也。乃業以宗臣受顧命矣、晏與畢軌・鄧颺・李勝不與爽為徒而將誰與哉、或曰、圖存社稷者、智深勇沈而謀之以漸。晏一旦蹶起而與相持、激懿以不相下之勢、而魏因以亡。 105 夫曹芳以暗弱之沖人孤立於上、睿且有「忍死待君相見無憾」之語、舉國望風而集者、無敢踰司馬氏之閫閾、救焚拯溺而可從容以待乎。懿之不可託也、且勿論其中懷之叵測也。握通國之兵、為功於閫外、下新城、平遼東、卻諸葛、撫關中、將吏士民爭趨以傚尺寸、既赫然矣。惡有舉社稷之重、付孺子於大將之手、而能保其終者哉。王敦無邊徼之功、故溫嶠得制之於衰病。桓溫有枋頭之敗、故王・謝得持之以從容。奪孤豚於猛虎之口、雅十無所容其靜鎮、智者無所用其機謀、力與相爭而不勝、天也、非人之所能為也。 106 當是時、同姓猜疏而無權、一二直諒之臣如高堂隆・辛毗者、又皆喪亡、曹氏一線之存亡、僅一何晏、而猶責之已甚、抑將責劉越石之不早附劉淵、文宋瑞之不亟降蒙古乎。嗚呼。惜名節者謂之浮華、懷遠慮者謂之銛巧、三國志成於晉代、固司馬氏之書也。後人因之掩抑孤忠、而以持祿容身・望風依附之逆黨為良圖。公論沒、人心蠱矣。 107 二六 108 蔣琬改諸葛之圖、欲以舟師乘漢・沔東下、襲魏興・上庸、愈非策矣。魏興・上庸、非魏所恃為巖險、而其贅餘之地也。縱克之矣、能東下襄・樊北收宛・雒乎。不能也。何也。魏興・上庸、漢中東迤之餘險、士卒所憑以阻突騎之重突、而依險自固、則出險而魂神已惘、固不能踰閫限以與人相搏也。且舟師之順流而下也、逸矣。無與遏之而戒心弛、一離乎水而衰氣不足以生、必敗之道也。先主與吳共爭於水而且潰、況欲以水為勢、而與車騎爭於原陸乎。魏且履實地・資宿飽、坐而制之於丹・淯之湄、如蛾赴燄、十撲而九亡矣。 109 劉裕之河・渭以入關中、王鎮惡等以步騎馳擊、而舟師為其繼、非恃舟師以爭人於陸也。姚泓恃拓拔氏為之守、拓拔氏不為泓守、而泓弛其防、故獲利焉、非獨倚舟師之利攻人於千里之外也。諸葛之出祁山、以守為攻、即以攻為守、知習於險者之不利於夷、且自固以待時變、特不欲顯言之以怠眾志耳。琬移屯而東西防遂弛、鄧艾陰平之禍、自琬始矣。琬疾動而不能行、司馬懿方謀篡而未暇、故蜀猶以全。不然、此一舉而蜀亡不旋踵矣。 110 二七 111 曹孟德始屯田許昌、而北制袁紹、南折劉表。鄧艾再屯田陳・項・壽春、而終以吞吳。此魏・晉平定天下之本圖也。屯田之利有六、而廣儲芻糧不與焉。戰不廢耕、則耕不廢守、守不廢戰、一也。屯田之吏十據所屯以為己之樂土、探伺密而死守之心固、二也。兵無室家、則情不固、有室家、則為行伍之累、以屯安其室家、出而戰、歸而息、三也。兵從事於耕、則樂與民親、而殘民之心息、即境外之民、亦不欲凌轢而噬齕之、敵境之民、且親附而為我用、四也。兵可久屯、聚於邊徼、束伍部分、不離其素、甲胄器仗、以暇而修、卒有調發、符旦下而夕就道、敵莫能測其動靜之機、五也。勝則進、不勝則退有所止、不至駭散而內訌、六也。有此六利者、而粟米芻槀之取給、以不重困編氓之輸運、屯田之利溥矣哉。諸葛公之於祁山也、亦是道也。姜維不能踵之、是以亡焉 112 雖然、有其地、有其時矣。許昌之屯、乘黃巾之亂、民皆流亡、野多曠士也。兩淮之屯、魏・吳交爭之地、棄為甌脫、田皆蕪廢也。五丈原之屯、秦・隴・階・文之間、地廣人稀、羌・胡據山澤而棄平土、數百里而皆艸萊也。非是者、可屯之地、畸零散布於民田之間、而分兵以屯之、則一散而不可猝收矣。奪民熟壤以聚屯、民怨而敗速矣。此屯之必以其地也。 113 屯之於戰爭之時、壓敵境而營疆場、以守為本、以戰為心、而以耕為餘力、則釋耒耜・援戈矛、兩不相妨以相廢。若在四海蕩平之後、分散士卒、雜處民間、使食利於耕、而以戰守為役、則雖有訓練鉗束之法、日漸月靡於全軀保室・樸鈍偷安之習、而天下於是乎無兵。故唯棗祗・鄧艾・諸葛可以行焉、而後此之祖以安插天下之兵、是弭兵養懦之術也、故陵夷衰微而無與衛國。此屯之必以其時也。 114 法有名同而實異、事同而效異、如此者多矣。謀國者不可不審也。 115 二八 116 史稱管寧高潔而熙熙和易、因事而導人以善。善於傅君子之心矣。 117 世之亂也、權詐興於上、偷薄染於下、君不可事、民不能使、而君子仁天下之道幾窮。窮於時、因窮於心、則將視天下無一可為善之人、而拒絕唯恐不夙、此焦先・孫登・朱桃椎之類、所以道窮而仁亦窮也。夫君子之視天下、人猶是人也、性猶是性也、知其惡之所自熏、知其善之所自隱、其熏也非其固然、其隱也則如宿艸霜凋而根荄自潤也。無事不可因、無因不可導、無導不可善、喻其習氣之橫流、即乘其天良之未喪、何不可與以同善哉。此則盎然之仁、充滿於中、時雨灌注而宿艸榮矣。惜乎時無可事之君、而寧僅以此終。非然、將與伊・傅而比隆矣。 118 嗚呼。不得之於君、可得之於友、而又不可得矣。不得之薦紳、可得之於鄉黨、而又不可得矣。不得之父老、可得之童蒙、而又不可得矣。此則君子之抱志以沒身、而深其悲閔者也。友之不得、君錮之。鄉黨之不得、薦紳熒之。童蒙之不得、父老蔽之。故寧之仁、終不能善魏之俗。君也、薦紳也、父老也、君子之無可如何者也。吾盡吾仁焉、而道窮於時、不窮於己、亦奚忍為焦先・孫登・朱桃椎之孤傲哉。 119 二九 120 形可以征神乎。曰、未嘗不可也。神者、天德之函於地者也。形者、地德之成乎天者也。相函相成而不相舍、神之靈、形受之。形之靈、神傅之。非神孤盪其靈於虛而形頑處也。譬之笙竽然、器洪而聲洪、器纖而聲纖矣。譬之盂水然、器方而水方、器囨而水囨矣。造化者以其神之靈搏造形質、而氣以舒斂焉。榮、隨氣而華、隨氣而黯。衛、隨氣而理、隨氣而亂。內而藏府之精粗、外而筋骸之勁脃、動靜語默各如其量、而因以發用。則明於察形者、可以征神、固矣。管輅之評鄧颺・何晏而言皆屢中、知此而已矣。 121 然則神可以化形乎。曰、奚為其不可也。其始也天化之、天之道也。其後也人化之、人之道也。其之道、亭之毒之、用其偶然、故媺惡偏全・參差而不齊。人之道、熏之陶之、用其能然、則惡可使媺、偏可使全、變化而反淳。人莫難於御其神、而形其易焉者。昧者不知、曰、「一受其成型、而與之終古」。其不知道也久矣。孟子曰、「居移氣、養移體」。榮衛隨養以移、而內而藏府・外而筋骸、隨之以移。況動止語默、因心而縱斂、因習而率循者哉。 122 鄧颺之躁、徵於形之躁也、不可驟息、而息之以靜者、颺可得而主也。何晏之幽、徵於形之幽也、不可驟張、而張之以明者、晏可得而主也。豈有他哉。一旦而知躁與幽之為不善、操之縱之、懲艾於俄頃。習之制之、熏成於漸次。則二子者、金錫圭璧之章、再見而驚非其故、輅又安能測之哉。乃若二子者、終成乎幽躁、而使輅言之終驗、其蔽一也。一者何也。曰、驕也。老・莊者、驕天下而有餘者也、絕學以無憂、與天而為徒、而後形之不善、一受其成型、而廢人道之能然、故禍至而不知其所自召也。地承天而受化、形順神而數移、故管輅之術、君子節取焉、而不怙之以為固然。人之有道也、風雨可使從欲、元氣可使受治、況在躬之榮衛藏府筋骸、與從心之動止語默哉。 123 三○ 124 王淩可以為魏之忠臣乎。蓋欲為司馬懿而不得者也。為懿不得、而懿愈張矣。齊王芳、魏主睿之所立也、懿殺曹爽而制芳於股掌、其惡在懿、其失在睿、而芳何尤焉。使霍光而有操・懿之心、漢昭亦無如之何、而可責之芳乎。淩誠忠於魏而思存其社稷、正懿閉門拒主・專殺宗臣・覬覦九錫之罪、抗表而入討、事雖不成、猶足以鼓忠義之氣、而懿不能駕禍於楚王以錮曹氏之宗支、使斂迹而坐聽其篡奪。而淩欲廢無過之主以別立君、此其故智、梁・隋之季多效之者、而終以盜鈴。則使淩得志、楚王彪特其掩耳之資、操此心也、惡足以惑人心而使效順哉。 125 名義者、邪正存亡之大司也、無義不可以為名、無名不可以為義、忠臣效死以爭之、姦雄依附而抑必挾之。以曹操之不軌也、王芬欲立合肥侯以誅宦官、而操審其必敗、勿從也。袁紹欲立劉虞以誅董卓、而操惡其徒亂、勿從也。名正而義因以立、豈特操之智遠過於淩乎。天下未解體於弱主、而己先首禍、心之所不安、烖之所必逮也。劉虞賢矣、袁紹弗能惑也。合肥侯聽曹操而安、楚王彪聽王淩而死、非獨自殺、且以啟禍於宗室、胥入司馬之阱中、亦烈矣哉。嗚呼。亂人假義而授人以名、義乃永墮而禍生愈速、如是而許之以忠也、則沈攸之・陳霸先皆忠矣。王淩之心、路人知之、無以異於司馬氏、而益以愚者也。 126 三一 127 曹操之篡也、迎天子于危亡之中而措之安士。二袁・呂布・劉表・劉焉群起以思移漢祚、獻帝弗能制、而操以力勝而得之。劉裕之篡、馘桓玄、夷盧循、東滅慕容超、西俘姚泓、收復中國五十餘年已覆之士宇、而修晉已墟之陵廟、安帝愚暗、不能自存也。若夫二蕭・陳霸先、功不逮操・裕而篡焉、則不成乎其為君而不延其世。由此言之、雖篡有天下、而豈易易哉。 128 司馬懿之於魏、掾佐而已、拒諸葛於秦川、僅以不敗、未嘗有尺寸之功於天下也。受魏主睿登床之託、橫翦曹爽、遂制孱君・脅群臣、獵相國九錫之命、終使其子孫繼世而登天位、成一統之業。其興也不可遏、而抑必有道焉、非天下之可妄求而得也。曹氏之敺兆民・延人而授之也久矣。 129 漢之延祀四百、紹三代之久長、而天下戴之不衰者、高帝之寬、光武之柔、得民而合天也。漢衰而法弛、人皆恣肆以自得。曹操以刻薄寡恩之姿、懲漢失而以申・韓之法鉗網天下。崔琰・毛玠・鐘繇・陳群爭附之、以峻削嚴迫相尚。士困於廷、而衣冠不能自安。民困於野、而寢處不能自容。故終魏之世、兵旅亟興、而無敢為萑葦之寇、乃蘊怒於心、思得一解網羅以優游卒歲也、其情亟矣。司馬懿執政、而用賢恤民、務從寬大、以結天下之心。於是而自搢紳以迄編甿、乃知有生人之樂。處空穀者、聞人聲而囅然、欒盈之汰、人且歌泣以願為之死、況懿父子之謀險而小惠已周也乎。王淩之子廣曰、「懿情雖難量、事未有逆」。可謂知言矣。故曰、「得乎邱民為天子」。逆若司馬、解法網以媚天下、天且假之以息民。則乘苛急傷民之後、大有為之君起而蘇之、其為天祐人助、有不永享福祚者乎。三國鼎立、曹・劉先亡、吳乃繼之。孫氏不師申・韓之報也。曹操不足道、諸葛公有道者也、而學於申・韓、不知其失、何也。 130 三二 131 蔣琬死、費褘刺、蜀漢之亡必也、無人故也。圖王業者、必得其地。得其地、非得其險要財賦之謂也、得其人也。得其人、非得其兵卒之謂也、得其賢也。巴蜀・漢中之地隘矣、其人寡、則其賢亦僅矣。故蔣琬死、費褘刺、而蜀漢無人。 132 雖然、嘗讀常璩華陽國志、其人之彬彬可稱者不乏。張魯妖盜而有閻圃、劉焉驕怠而有黃權、王纍・劉巴、皆國士也。先主所用、類皆東州之產、耄老喪亡、而固不能繼。蜀非乏才、無有為主效尺寸者、於是知先主君臣之圖此也疏矣。勤於耕戰、察於名法、而於長養人才・涵育熏陶之道、未之講也。蔣・費亡而僅一姜維、維亦北士也、舍維而國無與託。敗亡之日、諸葛氏僅以族殉、蜀士之登朝參謀議者、僅一姦佞賣國之譙周、國尚孰與立哉。 133 管仲用於齊、桓公死而齊無人。商鞅用於秦、始皇死而秦無人。無以養之也。寬柔溫厚之德衰、人皆跼蹐以循吏之矩矱、雖有英特之士、摧其生氣以即於瓦合、尚奚恃哉。諸葛公之志操偉矣、而學則申・韓也。文王守百里之西土、作人以貽百年之用、鳶飛魚躍、各適其性以盡其能、夫豈申・韓之陋所與知哉。 134 三三 135 何晏・夏侯玄・李豐之死、皆司馬氏欲篡而殺之也。而史斂時論之譏非、以文致其可殺之罪、千秋安得有定論哉。當時人士所推而後世稱道弗絕者、傅嘏也・王昶也・王祥也・鄭小同也。數子者、以全身保家為智、以隨時委順為賢、以靜言處錞為道、役於亂臣而不怍、視國之亡・君之死、漠然而不動於心、將孔子所謂賊德之鄉原、殆是乎。風尚既然、禍福亦異、天下之圖安而思利者、固必褰裳而從之、祿位以全、家世以盛、而立人之道幾於息矣。嗚呼。此無道之世、所以崩風壞俗而不可挽也。 136 雖然、有未可以過責數子者存焉。魏之得天下也不以道、其守天下也不以仁、其進天下之士也不以禮。利啗之、法制之、奴虜使之、士生其時、不能秉耒而食、葛屨而履霜也。無管寧之操、則抑與之波流、保其家世已耳。故昶與祥皆垂裔百年而享其名位、兢兢門內之行、自求無過、不求有益於當時。士之不幸、天所弗求全也。狂狷罣於網羅、容容獲其厚福、是或一道也。不可以漢・唐・宋數百年戴天履地栽培長育之人才、忘軀捐妻子以扶綱常者責之也。施及宋・齊以降、君屢易而士大夫之族望自若也、皆此焉耳。歐陽永叔傷五代無死節之臣、而不念所事之何君也、亦過矣。王彥章之忠、匹夫之諒而已矣、況余闕乎。 137 三四 138 諸葛誕之起兵討司馬昭也、疑賢於王淩・母丘儉、而實未見其愈也。儉與誕、皆以夏侯玄之死不自安、而徼幸以爭權、使其克捷、其不為劉裕之誅桓玄、不能保也。且誕之討昭、何為也哉。無抑不欲魏社之移於司馬氏矣乎。魏而亡、亡於司馬、亡於吳、無以異也、吳豈為魏惜君臣之義、誅權姦以安其宗社者哉。誕遣其子靚稱臣於吳以起兵、則昭未篡而己先叛。以叛臨篡、篡者未形而叛者已著。其志悖、其名逆、授司馬昭以討叛之名、而惡得不敗邪。使其成也、司馬昭之族甫糜、曹氏之社早屋矣。悲夫。借敵兵以討賊者之亡人家國也、快一朝之忿而流禍無窮、誕實作俑、司馬楚之・劉昶・蕭寶寅相繼以逞、而可許之為忠乎。 139 三五 140 人知馮道之惡、而不知譙周之為尤惡也。道、鄙夫也、國已破、君已易、貪生惜利祿、弗獲已而數易其心。而周異是、國尚可存、君尚立乎其位、為異說以解散人心、而後終之以降、處心積慮、唯恐劉宗之不滅、憯矣哉。讀周仇國論而不恨焉者、非人臣也。 141 姜維之力戰、屢敗而不止、民胥怨之、然其志苦矣。民憚於勞、而不知君父之危、所賴以啟其惰心而振其生氣者、士大夫之公論耳。其論曰、「既非秦末鼎沸之時、實有六國並據之勢」。顯然以秦予魏、以韓・燕視蜀、坐待其吞噬、唯面縛輿櫬之一途耳。夫漢之不可復興、天也。蜀之不可敵魏、勢也。無可如何者也。故諸葛身殲而志決、臣子之道、食其祿、終其事、志不可奪、烈於三軍之帥。且使人心不靡於邪說、兵力不銷於荒惰、延之一日、而忠臣志士之氣永於千秋。周而無人之心哉。無亦括囊以聽、委之天而弗助其虐之為咎尚淺乎。夫民之不息、誠不容已於閔恤矣、譬之父母積疢、僕妾勞於將養、則亦酒食以勞之、和煦以拊之、使鼓舞而忘怨已耳。若恤僕妾之疲、廢藥食而聽其酣寢、有人之心者、以是為惻隱哉。 142 當周之時、黃皓・陳祇蠱庸主而不顧百姓之疾苦。誠念民也、則亦斥姦佞、勸節儉、飭守令以寬廉、使民進而戰餫、退而休息、可也。周塞目箝口、未聞一讜言之獻、徒過責姜維、以餌愚民・媚奄宦、為司馬昭先驅以下蜀、國亡主辱、己乃全其利祿。非取悅於民也、取悅於魏也、周之罪通於天矣。服上刑者唯周、而馮道末減矣。 143 三六 144 王沈刺豫州、下教、「陳長吏得失者、給穀五百斛。言刺史寬猛者、給穀千斛」。規己寬猛之宜、而賜之穀、猶之可爾。陳長吏之得失而賜之穀、險士猾民、競起而誣訐其守令、禍可勝言哉。蓋沈者、司馬氏之私人也、司馬氏以好士恤民之虛名、收辨士而要民譽、每下不情之令、行溢賞以誘天下、而沈為之役、故其教令如是之濫、未容深責也。陳廞・褚入白沈曰、「拘介之士、憚賞而不言。貪昧之人、慕利而妄舉」。韙哉言乎。可推以盡明主用人聽言之道矣。 145 拒諫者、古今之所謂大惡也。亟取人言、而貪廣聽之名、其惡隱而難知。乃公孫疆因之以亡曹、主父偃因之以亂漢。宋之中葉、上書言因革者、牘滿公府、而政令數易、朋黨爭衡、熙・豐・元・紹之間、棼如亂絲、而國隨以敝。近者民本輕達、賤士乘以希榮、姦相資之肆惡、一夫遽登省掖、而天下亟亡。嗚呼。以賞勸言之害、較拒諫而尤烈、抑如此哉。 146 然則瑱纊之塞、與明聰之達、聖人兼用以應天下、抑何道也。曰、善聽言者、必其善於擇人者也。人而善與。言雖未得、有善者存矣。人而不善與。言雖得、有不善者存矣。唐・虞之廷、或吁或咈、交相弼違者・唯其為禹・皋・稷・契也。夫禹臬・稷・稷・契、視君之失、若疢疾之攻於心。視民之病、若水火之迫於肌。而視言入而受祿也、若穢惡之加於鼻也、何俟於賞以勸之邪。故君子之聽言、先舉其人而後採其言、必不以利祿辱賢者之操、而導不肖者以猖狂無忌也。 147 察吏有常法、劾吏有常職、不獲已而登斥姦訟枉之言、然非害切於國民而痛切其肌膚、則告訐之宵人耳、誅之可矣。一興一廢、一張一弛、進臣民而酌其可否、既已無疑矣。而猶為異說焉、斥之可矣。言雖甚當、不授以官。其效雖登、必進以禮。大臣坐論、日侍於燕間。諫諍有官、各責以言職。非是者、雖或兼容並包、而必厚防其生事啟釁之傷。自匪僉人、惡有舍閨門子弟之職、置四民耕讀之恆、棄官守慎修之紀、旦揣夕摩、作為皦皦炎炎之論、以動人主、而僥幸顯名之與厚實哉。舜之耕稼陶漁而取人為善、人無所利於耕稼陶漁之夫、而言之不善者鮮矣。其為帝也、以耕稼陶漁之聽聽天下之言、則唯禹・皋・稷・契無私利之心、如深山之野人、而後決於從也。故其戒禹曰、「無稽之七、使以」。而豈以利情誘嘵嘵之士、使以訐為直乎。 148 鬻口舌以希利賴者、小人也、塾師也、禍福唯其妄測、文義唯其割裂、得利焉面情盡矣。此求治者所必遠、為學者所必拒也。人君正己以涖下、節嗜欲・遠宦寺・勤學問・公好惡、則小人之利病・國事之得失、觸之而自知。非不待言也、抑非恃人言而遂足以治也。賞之而政刑亂・朋黨興・廉恥喪・風俗靡、自非姦雄之媚眾以竅國、幾何事此而不亡。此治亂之樞機、不可不審也。 149 三七 150 後主失德而亡、非失險也、恃險也、恃則未有不失者也。君恃之而棄德、將恃之而棄謀、士卒恃之而棄勇。伏弩飛石、恃以卻敵。危石叢薄、恃以全身。無致死之心、一失其恃、則匍伏奔竄之恐後。扼以於蹊徑、而淩峭壁以下攻、則首尾不相顧而潰。故謂後主信巫言而失陰平之守以亡國、非也。陰平守、而亙數百里之山厓谿谷、皆可度越、陰平一旅、亦贅疣而已。李特過劍閣而歎劉禪之不能守、艸竅之智、乘晉亂以茍延爾。譙縱・王建・孟知祥・明玉珍蹶然而起、熸然而滅、恃險愈甚、其亡愈速矣。 151 然則諸葛公曰、「益州天府之國」。其言非乎。彼一時也、先主擁寡弱之資而無尺土、舍益州而無自立之地。乃其規畫之全局、則西出秦川、東向宛・雒、皆與魏爭於平原、而非倚險以固存也。迨乎關羽啟釁於吳、先主忿爭而敗、吳交不固、仲謀已老、宛・雒之師不能復出、公乃率孤旅以嚮秦川、事難而心苦矣。況蔣琬據涪城、姜維據漢樂、顛當守戶、而天日莫窺、不亡奚待焉。 152 漢高起自漢中、旋下三秦、急出成皋、是以瀕危而終勝。光武定都雒陽、曹操中據兗州、皆以無險為險也。周公營雒、至計存焉、而或為之說曰、「無德易以亡」。聖人既無私天下之心、抑豈欲其子孫之速亡乎。周遷雒、而不絕之系、其亡尤難於夏・殷。亡之難易、不在險之有無、明矣。 153 三八 154 司馬昭進爵為王、荀顗欲相率而拜、王祥曰、「王・公相去一階爾、安有天子三公可拜人者」。驟聞其言、未有不以為岳立屹屹、可以為社稷臣者。馮道之勞郭威曰、「侍中此行不易」。亦猶是也。炎篡而祥為太保於晉、威篡而道為中書令於周、則其亢矯以立名、而取合於新主、大略可知矣。昭謂祥曰、「今日然後知君見顧之深」。祥所逆揣而知其必然也。矜大臣之節、則太保之重任、終授之己也無疑。歷數姓而終受瀛王之爵、道固遠承衣盋於祥也。不吝於篡、而吝於一拜。不難於北面為臣、而難折節於未篡之先。天下後世不得以助逆之名相加、萬一篡奪不成如桓玄、可以避責全身、免於佐命之討、計亦狡矣。 155 以此推之、汲黯揖衛青、而曰、「使大將軍有揖客、豈不重乎」。黯之情亦見矣。欲以此求重於權臣、而可謂之社稷臣乎。司馬昭・郭威雖逆、而固非朱溫之暴、可以理奪者也。使汲黯而遇梁冀、王祥・馮道而遇朱溫、抑豈能爾哉。若夫社稷臣者、以死衛主、而從容以處、期不自喪其臣節、如謝安之於桓溫、狄仁傑之於武氏、亦豈矯矯自矜以要權奸之知遇乎。

西晋の武帝

魏 宗室を削りて權臣 篡し、晉 同姓を封して骨肉 殘ひ、故に法者非所以守天下也。而懷・愍陷沒、瑯邪復立國於江東者幾百年、則晉為愈矣。天下者、非一姓之私也、興亡之修短有恆數、茍易姓而無原野流血之慘、則輕授他人而民不病。魏之授晉、上雖逆而下固安、無乃不可乎。然而三代王者建親賢之輔、必欲享國長久而無能奪、豈私計哉。 3 人之所以異於禽獸者、非其利病生死之知擇也。則君子之為天下君以別人於禽獸者、亦非但恤其病而使之利、全其生而使無死也。原於天之仁、則不可無父子。原於天之義、則不可無君臣。均是人而戴之為君、尊親於父、則旦易一主、夕易一主、稽首匍伏、以勢為從違而不知恥、生人之道蔑矣。以是而利、不如其病之。以是而生、不如其死之也。先王重不忍於斯民、非姑息之仁、以全軀保妻子・導天下於魚蟲之聚者、慮此深矣。然則晉保社稷於百年、而魏速淪亡於三世、其於君天下之道、得失較然矣。 4 晉武之不終也、惠帝之不慧也、懷・愍之不足以圖存、元帝之不可大有為也。然其後王敦・蘇峻・桓溫相踵以謀逆、桓玄且移天步以自踞、然而遲之又久、非安帝之不知飢飽、而劉裕功勛赫奕、莫能奪也。謂非大封同姓之有以維系之乎。宋文帝寵任諸弟、使理國政・牧方州、慮亦及此。而明帝誅夷之以無遺、蕭道成乃乘虛而攘之。嗣是而掇天位者如拾墜葉、臣不以易主為慚、民不以改姓為異。垂及唐・宋、雖權臣不作、而盜賊夷狄進矣。然則以八王之禍咎晉氏之非、抑將以射肩請隧咎文昭武穆之不當裂土而封乎。法不可以守天下、而賢於無法。亦規諸至仁大義之原而已。 5 二 6 諫必有專官乎。古之明王、工瞽・庶人皆可進言於天子、故周官無諫職、以廣聽也。諫之有官、自漢設諫議大夫始。晉初立國、以傅玄・皇甫陶為之、唐之補闕拾遺、宋之司諫、皆放此而立也。諫有專官、而人臣之得進言於君僅矣。雖然、古今之時異、而廣聽之與慎聽也、不得不殊。進言之跡同、而受益之與防邪也、亦各有道。未可以一概論也。 7 古之民樸矣、農・工・商・賈各世其業。士之游於庠序者、亦各有常學、不能侈聞見・飾文詞以動當世。迨及戰國、教衰而人自為學、揣摩當世之務者、競尚其說、縱之以言、則偏私逞而是非亂。則必擇其忠直而達治理者任之、而後無稽之言、不敢破聖道・紊綱紀、以熒主聽。則專官之任、亦未可謂盡非、時使然也。 8 諫官專立、職專諫矣。然非專諫於其官、而禁外此者之諫也。不淫聽於辨言、而不塞聰於偏聽。茍得忠直知治者司其是非之正、則懷忠樂進者相感以興。乃若聽之之道、群言競奏、而忠佞相殽、存乎君之辨之、不徒在言者也。諫者以諫君也。邇聲色、殖貨利、狎宦戚、通女謁、怠政事、廢學問、崇佛老、侈宮室、私行遊、媟威儀、若此者諫官任之。大小群臣下逮於庶人、茍有言焉、則固天子所宜側席而聽者也。即言之過、而固可無尤也。外此、人與政其亟矣。然而人之賢不肖、銓衡任之。政之因革、所司任之。雖君道之所必詳、而清諸其源、則是非著而議論一。爭於其流、則議論繁而朋黨興。貞邪利害、各從其私意、辨言邪說、將自此以起、固不可不慎防之。而廣聽適以召奸、尤明主所深懼也。 9 以要言之、言而譏非乎我者、雖激雖迂、而不可忽也。言而褒貶於人・辨說乎事者、辨雖詳、辭雖切、而未可信也。士之受規於朋友者且然、而況君天下者乎。然則選忠直知治者任諫職於上、而主意昭宣、風尚端直、則群言博採、而終弗使主父偃・息夫躬之流、矜文采以讎其姦邪。慎之也、即所以廣之也。又何必執周官之不設諫臣以下訪芻蕘哉。 10 近者分諫職於臺省、聽亦廣矣。而六科司抄發之任、十三道司督察之權、糾劾移於下、而君德非所獨任、故詭隨忿戾、迭相進退、而國是大亂、則廣之適以廢之。黨人交爭、勞臣掣肘、將諫官之設、以諫下而非諫君乎。拂其立諫之經、而予以譖言之徑、乃至僉人游士獻邪說以為用人行政之蝥賊。不專不慎、覆軌已昭、後世尚知鑒哉。 11 三 12 晉始建國、立七世之廟、除五帝之座、罷圜丘方澤之祀、合之於郊、皆宗王肅而廢鄭玄也。於是而知王肅之學、醇正於鄭玄遠矣。後世經學傳鄭氏、肅之正義、沒而不傳、則賈公彥・孔穎達之怙專師而晦道也。 13 周之祀典、組紺以上不廢也。而限天子之廟於五世、合兩世室而始為七、玄之託於義而賊仁也。周禮合樂於圜丘方澤者、非祭也、所以順陰陽・合律呂而正樂也。而謂郊之外有圜丘方澤之大祀、玄之淫於樂以亂禮也。其尤妖誣而不經者、為上帝之名曰耀寶魄、又立靈威仰・赤熛怒・白招矩・葉光紀之名、為四方之帝、有若父名而賓字之者、適足以資通人之一哂。而以之釋經、以之議禮、誣神媟天、黷祀惑民、玄之罪不容貸矣。託之於星術、而實傳之於讖緯、夫且誣為孔氏之書。正肅氏起而辨之、晉武因而絀之、於是禁星氣讖緯之學、以嚴邪說之防、肅之功大矣哉。惜乎世遠俗流、師承道圮、而肅學不傳也。如其傳、則程・朱興起、尚有所資以闢鄭氏之淫辭與。 14 四 15 三代以下、用兵以道、而從容以收大功者、其唯羊叔子乎。祖逖之在雍邱、宗澤之在東京、屹立一方以圖遠略、與叔子等。乃逖卒而其弟稱兵以犯順、澤卒而部眾瓦解以為盜、皆求功已急而不圖其安、未嘗學於叔子之道以弭三軍之驕氣、驕則未有能成而不亂者也。 16 或曰、叔子之時、晉盛而吳衰、擁盛勢以鎮之、則敵亡可以坐待。而逖與澤抗方張之虜、未可以理折、則時異而不可相師矣。 17 曰、叔子之可以理服、而逖・澤不能者、遇陸抗耳。若夫敵國之氓、信其仁厚而願歸附之、則逖與澤之鄰壤、猶晉・宋之遺黎。而叔子則晉・吳異主、義不相下者也。使逖與澤以此臨之、不愈效乎。夫陸抗亦智深謀遠不與叔子爭一日之利耳、使其狂逞如石勒・女直之為、則其亡愈速。是遇陸抗者、兩碁逢敵之難、而非易制於石勒・女直也。石勒雖驍、而志不及於江・淮、且未幾而國內大亂、甚於孫皓之猶安處也。女直雖競、而斡離不・撻嬾・兀術各懷猜忌、豕突鹿奔、無有能如陸抗之持重以相制者。使二子以道御兵、以信撫民、以緩制敵、垂之數十年、趙有冉閔之亂、金有完顏亮之變、以順臨逆、以靜待動、易於反掌矣。叔子之功、亦收之身後者也、何至於子弟為梟獍以伏誅、部曲竄萑葦而僨起哉。故曰逖與澤求之已急而未圖其安也。逖有雍邱之可據、而郭默・邵續之流、皆相倚以戴晉。澤有東京之可恃、而兩河忠義、皆相待以效功。與為憤興、而不與為固結、二子之志義尚矣、惜乎其不講於叔子之道也。 18 五 19 用人與行政、兩者相扶以治、舉一廢一、而害必生焉、魏・晉其驗已。雖無佞人、而亟行苛政以鉗束天下、而使亂不起。然而人心早離、樂於易主、而國速亡。政不苛而用佞人、其政之近道、足以羈縻天下使不叛、然而國是亂、朋黨交爭、而國速以亂。 20 曹孟德懲漢末之緩弛、而以申・韓為法、臣民皆重足以立。司馬氏乘之以寬惠收人心、君弒國亡、無有起衛之者。然而魏氏所任之人、自謀臣而外、如崔琰・毛玠・辛毗・陳群・陳矯・高堂隆之流、雖未聞君子之道、而鯁直清嚴、不屑為招權納賄・驕奢柔諂猥鄙之行、故綱紀粗立、垂及於篡、而女謁宵小不得流毒於朝廷、則其效也。 21 晉武之初立、正郊廟、行通喪、封宗室、罷禁錮、立諫官、徵廢逸、禁讖緯、增吏俸、崇寬弘雅正之治術、故民藉以安。內亂外逼、國已糜爛、而人心猶繫之。然其所用者、賈充・任愷・馮勗・荀紞・何曾・石苞・王愷・石崇・潘岳之流、皆寡廉鮮恥貪冒驕奢之鄙夫。即以張華・陸機錚錚自見、而與邪波流、陷於亂賊而愍不畏死。雖有二傅・和嶠之亢直、而不敵群小之翕訿。是以彊宗妒后互亂、而氏・羯乘之以猖狂。小人濁亂、國無與立、非但王衍輩清談誤之也。 22 是用人行政、交相扶以圖治、失其一、則一之僅存者不足以救。古今亂亡之軌、所以相尋而不舍也。 23 以要言之、用人其尤亟乎。人而茍為治人也、則治法因之以建、而苛刻縱弛之患兩亡矣。魏之用人、抑茍免於邪佞爾、無有能立久長之本、建弘遠之規者也。孟德之智、所知者有涯。能別於忠佞之分、而不能虛衷以致高朗宏通之士。爭亂之餘、智術興、道德墜、名世之風邈矣。僅一管寧、而德不足以相致也。晉承魏之安處、時非無賢、而獎之不以其道、進之不以其誠、天下頹靡、而以老・莊為藏身之固、其法雖立、文具而已。使二代之君、德修而勤於求治、天下群趨於正、而豈患法之不立乎。宋太祖・太宗之所以垂統久長、而天下懷其德於既亡之餘、庶幾尚已。 24 六 25 杜預欲短太子之喪、而曰、「君子之於禮、存諸內而已」。安得此野人之言而稱之哉。今有人焉、心不忘乎敬父、而坐則倨以待。情不恝乎愛兄、而怒則紾其臂。亦將曰存諸內而已乎。內外交相維・交相養者也、既飾其外、必求其內、所以求君子之盡其誠。欲動其內、必飭其外、所以導天下而生其心也。今使衰麻其衣、疏糲其食、倚廬其寢處、然而馳情於淫侈以忘其哀慕者、鮮矣。耳目制之、心不得而動也。藉令錦其衣、肉其食、藻井綺疏金樞玉戶其寢處、雖有哀慕之誠、不蕩而忘者、鮮矣。耳目移而心為之蕩也。故先王之制喪禮、達賢者之內於外、以安其內、而制中材之外、以感其內。故曰、直情徑行、戎狄之道也。夫鳥獸之啾啁以念死、內非不哀、而外無所飾、則未幾而忘之矣。野人之內存而外不著見者、亦如是而已矣。 26 杜預之於學也亦博矣、以其博文其不仁、六經之旨、且以之亂。諒闇者、梁菴也、有梁無柱、茅芐垂地之廬也、而誣之曰心喪。叔向之譏景王曰、「有三年之喪二」。謂之有喪矣、非謂存諸內者之徒戚也、而誣之曰不譏除喪、而譏其燕樂之已早。預之存諸內者、誣聖欺天、絕人而禽之、猶曰君子之於禮、存諸內而已乎。故曰、「以禮制心」。心有不存、而禮制之。其外無別、則內之存與不存、又奚以辨哉。邪說逞、人道息。凡今之人、皆曰、臣忠・子孝・兄友・弟恭、求其心而已。而心之不可問者多矣。不仁哉杜預之言、以賊天下有餘也。 27 七 28 嵇紹可以仕晉乎。曰、不可。仕晉而可為之死乎。曰、仕而惡可弗死也。仕則必死之、故必不可仕也。父受誅、子讎焉、非法也。父不受誅、子不讎焉、非心也。此猶為一王之下、君臣分定、天子制法、有司奉行、而有受誅不受誅者言也。嵇康之在魏、與司馬昭俱比肩而事主、康非昭之所得殺而殺之、亦平人之相賊殺而已。且康之死也、以非湯・武而見憚於昭、是晉之終篡、康且遺恨於泉下、而紹戴之以為君、然則昭其湯・武而康其飛廉・惡來矣乎。紹於是不孝之罪通於天矣。 29 沈充以逆伏誅、而子勁為晉效死。蔡仲之命曰、「爾尚蓋前人之愆。一沈勁克當之矣。紹蓋前人之美、而以父母之身、糜爛而殉怨不共天之亂賊、愚哉其不仁也。湯陰之血、河不灑於魏社為屋之日、何不灑於叔夜赴市之琴、而灑於司馬氏之衣也。 30 八 31 魏・晉之際、有貞士曰范粲、較管寧・陶潛而尤烈、而稱道絕於後世。士之湮沒而志不章者、古今不知凡幾也。寧以行誼著、潛以文采傳、粲無他表見、而孤心隱矣。乃其亢志堅忍、則二子者未之逮焉。送魏主芳而哀動左右、三十六年佯狂不言、卒於車中、子喬侍疾、足不出邑里、父子之志行、誠末世之砥柱矣。文采行誼無所表見、志不存焉耳。寧之不若此也、寧未仕漢、而粲已受祿於魏也。潛之不若此也、知晉之將亡而去之、不親見篡奪之慘也。故二子無妨以文行表見、而粲獨不可。難哉其子之賢也。晉賜祿以養疾、賜帛以治喪、而不受。嵇紹聞之、尚為仇讎之子孫捐父母之身、人之賢愚相去有若此哉。粲之所為、難能也。非但難能也、其仁矣乎。 32 九 33 晉詔諸王大國置三軍、次國二軍、小國一軍、其所依倣之名曰周制也。古之諸侯、皆自有兵、周弗能奪、而非予之也。其自周始建之國、各使有兵、彼有而此不得獨無也。郡縣之天下、兵皆統於天子、州郡不能自有其人民、獨假王侯以兵、授以相競之資、何為也哉。夫晉豈果循周制以追三代之久安長治也乎。懲魏之虧替宗室、而使權臣乘之耳。乃魏之削諸侯者、疑同姓也。晉之授兵宗室以制天下者、疑天下也。疑同姓而天下乘之、疑天下而同姓乘之、力防其所疑、而禍發於所不疑、其得禍也異、而受禍於疑則同也。 34 嗚呼。以疑而能不召亂亡之禍者無有。天下皆以為疑己矣、而孰親之。其假以防疑者、且幸己之不見疑而窺其疏以乘之。無可親而但相乘、於是而庸人之疑、終古而不釋。道不足於己、則先自疑於心。心不自保、而天下舉無可信、兄弟也、臣僚也、編氓也、皆可疑者也。以一人之疑敵天下、而謂智計之可恃以防、其愚不可廖、其禍不可救矣。親親而以疑、則親非其親。尊賢而以疑、則賢非其賢。愛眾而以疑、則眾非其眾。夫何疑哉。君子樂得其道、小人樂得其欲而已矣。交君子以道、給小人之欲、孤遊於六合、而荊棘不生、無有聖賢而無豪傑之度者也。 35 一○ 36 天下惡有無故殺人而可以已亂者哉。齊王攸欲殺劉淵、王渾曰、「柰何以無形之疑殺人」。其說是也。舍殺而無以馭之也、淵之所以終亂晉而殘之也。不殺淵而淵反、則咎王渾。殺淵而胡叛、則抑且咎齊王。舍本循末、兩俱有咎、而孰能任之。曹魏之居匈奴於內地、使若淵者得以竊中國文事武備之緒餘、濟其姦而啟雄心、其禍久矣。淵即死、若聰・若曜・若猛・若宣、挾怨以求逞、能旦殺一人・夕殺一人・皆無罪而翦之乎。契丹之所以深女直之怨而激之起、豈有幸哉。 37 夫晉承魏失、固未可急驅除之矣。王濟欲任淵以平吳、縱虎自衛之術也。李憙欲發匈奴五部、假淵將軍之號征樹機能、此策之善者、而孔恂諫止之、何也。恂誠憂淵之叵測、抑必有術以制之、而但色變於談虎哉。涼者、中國之贅餘也、河・湟之閑、夷狄之所便也、淵西征而蕩平樹機能之墟、即割其地以安之、而淵之心戢矣。淵即不戢、五部之心亦戢矣。馭得其道、則且不敢竊河西而據之。即其不然、我據蕭關以距之、其極逞也、亦但如元昊而止耳。孰如近在汾・晉之閑、使我不軌之士民、教猱倀虎、河決魚爛於腹心乎。故知李憙之謀、非但以平樹機能也、實以斥淵而遠之也、此弭禍於將然之善術也。一疑之、一畏之、無可如何而姑置之。淵且自危・且自矜・尤且自信也。是召之以必反之道也。嗚呼。晉之失政、賄賂已耳、交游已耳。王渾父子得賄而保淵、孔恂・楊珧不得賄而惎淵、故李憙之深識不庸。非淵之能亡晉也、晉自亡耳。 38 一一 39 傅咸之忠、荀勗之佞、判然別矣。而其議省官也、則勗之說為長。故聽言者、不惟其人、惟其言而已矣。咸剛直而疾惡已甚、見閑曹之吏、或怠傲而廢功、或舞文以牟利、憤然曰、「焉用此為、而以費農夫之粟、空國家之帑哉」。其言非不快於一時之心、而褊衷以宰天下、天下又惡能宰哉。 40 古者方五十里之國、卿大夫士府史胥徒具、群聚以上食於公・下食於民、而不憂其乏。天下之大、庶官僅供其職、而曰「公私不足」、此翁嫗之智、不出簞豆之閑。故曰、褊衷以宰天下、天下弗能宰也。 41 古之建官以治事治民、固也。而君子野人、天秩之以其才、敘之以其類、率野人以養君子、帖然奉之而不靳、豈人為哉。王者以公天下為心、以扶進人才於君子之塗為道。故一事而分任之、十姓百家而即立之長以牧之、農人力耕而食之無媿、君不孤貴而養之必周。乃使一藝・一經・一能・一力者、皆與於君子之列、而相獎以廉恥。雖有荑稗、不盡田而芟刈、使扶良苗以長、但勿令奪苗之滋可矣。 42 官省而人之能與於選者其塗隘、力不任耕・志不安賤之士、末繇分天之祿以自表異、則且淫而為姦富、激而為盜賊。君子之塗窮、而小人之歧路百出、風俗氾濫於下、國尚孰與立哉。惟用人之塗廣、而登進之數多、則雖有詭遇於倖門者、而惜廉隅・慎出處之士、亦自優游以俟、而自不困窮以沒世。如其省官而員數減、則入仕也難。入仕難、則持選舉之權者益重。數十人而爭一軌、茍有捷徑之可趨、雖自好者、不能定情以堅忍。而秉銓茍非其人、則自尊如帝、操吉凶也如鬼、託澄汰以為壟斷、而所裁抑者類修潔之士、所汲引者皆躁佞之夫。士氣萎、官邪興、流沔而無所立、即使傅咸任之、且不能挽頹波以從綱紀、況莫保司銓之得盡如咸乎。故君子甚患夫剛直者之婞婞以忿疾當世、而欲以刻覈重抑天下之心也。 43 況其言曰、「公私不足、併官以務農」。則尤悖甚。為吏者幾何人、而廢天下幾何之頃畝。有天下而汲汲憂貧、奪天所貴重之君子、使為農圃之小人、以充府庫。非商鞅之徒、孰忍為此哉。治天下有道、非但足食而遂足以立也。荀勗曰、「清心省事」。庶幾經國之弘猷、詎可以其人而廢之。 44 一二 45 賈充之力阻伐吳也、不知其何心、或受吳賂而為之閒、或忌羊・杜・二王之有功而奪其寵、皆未可知。抑以充之積奸之情度之、不但然也。曹操討董卓・勦黃巾・平袁紹、戰功赫然、而因以篡漢。司馬懿拒諸葛・平遼東、司馬昭滅蜀漢、兵權在握、而因以篡魏。充知吳之必亡、而欲留之以為己功、其蓄不軌之志已久、特畏難而未敢發耳。乃平吳之謀始於羊祜、祜卒、舉杜預以終其事、充既弗能先焉、承其後以分功而不足以逞、惟阻其行以俟武帝之沒、己秉國權、而後曰吳今日乃可圖矣、則諸將之功皆歸於己、而己為操・懿也無難。此其情杜預・張華固已知之、憚武帝之寵充而未敢言爾。觀其納女於太子、知惠帝之愚而以甥舅畜之。曹操之妻獻帝、楊堅之妻周主、皆此術也。其謀秘、其姦伏、時無有摘發之者、而史亦略之。千載之下、有心有目、灼見其情、夫豈無故以撓大猷也哉。 46 嗚呼。晉感充之弒君以戴己、而不早為之防、求其免於亂也難矣。所幸充死七年而武帝始崩、賈謐庸才、且非血胤、不足以為司馬昭耳。不然、高貴鄉公之刃、豈有憚而不施之司馬氏乎。女子猶足以亡晉、充而在、當何如也。項羽非侯生之君也、漢高以其誑羽而遠之若蛇虺。石守信・高懷德之流、未嘗任弒君之惡也、宋太祖以其戴己而防之若仇敵。變詐凶很不知有名義者、君不可以為臣、士不可以為友。孫秀灑南向之涕、諸葛靚懷漆身之忠、晉弗能用焉、其不再傳而大亂、有以也夫。 47 一三 48 秦滅六國而銷兵、晉平吳而罷州郡兵、未幾而大亂以亡。泰誓稱武王克殷、放牛歸馬、釁甲橐弓、示天下弗用、秦・晉與周將無同道、而成敗迥異、何也。 49 紂之無道、虐加於民、而諸侯或西向歸周、或東留事紂、未嘗日尋干戈、競起為亂也。天下之志相胥以靜、而弄兵樂禍之民不興。及乎紂虐革、周政行、而皆仍故服、無與煬之、不待撲之也。戰國之爭、逮乎秦・項、凡數百年、至漢初而始定。三國之爭、逮乎隋末、凡數百年、至唐初而始定。安・史之亂、延乎五代、凡百餘年、至太平興國而始定。靖康之禍、延乎蒙古、凡二百餘年、至洪武而始定。其閒非無暫息之日若可以定者、然而支蔓不絕、旋踵復興。非但上有暴君、國有姦雄。抑亦人心風俗一動而不可猝靜、虔矯習成、殺機易發、上欲撲之而不可撲也。夫秦與晉惡能攝天下之心與氣而斂之一朝哉。故陳勝有輟耕之歡、石勒有東門之嘯、爭乘虛而思起。此兵之不可急弭者、機在下也。 50 且夫周之興也、文王受鈇鉞而專征、方有事於密・阮・崇・黎、而早已勤修文德、勤聖學、演周易、造髦士、養國老、采南國之風、革其淫亂、兒童嬉遊而掇芣苢、女子修事以採蘋蘩、未嘗投戈而始論道、息馬而始講藝也。優而柔之、以調天地和平之氣、而於兵戎之事、特不得已而姑試之、上弗之貴、而下且賤之、聖人之所以潛移人心而陶冶其性者、如此其至也。而後戎衣甫著、而弓矢旋弢、天下以為實獲我心、可澡雪以見榮於文治。秦之并六國・滅宗周、晉之篡魏而吞吳也、謀唯恐其不險、力唯恐其不競、日進陰鷙殘忍之夫、皇皇以圖弋獲、而又崇侈奔欲、以敗人倫之撿柙。其與於成功共富貴者、抑奢淫以啟天下之忌、無以滌天下之淫邪、而畜其彊狡於艸澤。幸而兵解難夷、遂欲使之屈首以奉長吏之法、未有能降心抑志以順從者也。上無豫教、而欲飾治安於旦夕、召侮而已矣。此兵之不可急弭者、教在上也。 51 陶璜・山濤力排罷兵之議、從事後而言之、驗矣。然抑豈於天下甫離水火之日、尋兵不已、而日取其民納之馳驟擊刺之中乎。盍亦求諸其本矣。故聖人作而亂不難已、商・周是也、道之馴也。聖人不作、待其敝之已極、人皆厭苦而思偃武、帝王乃因而撫之、則漢・唐以後之一統是也、幾之復也。庶幾商・周之治者、其唯光武乎。寇盜方橫、而獎道敦禮、任賢愛民、以潛消民氣之戾於擾攘之中、兵不待弭而自戢。然而黎陽之屯、固不敢藉口於放牛歸馬以自擬於周也。 52 一四 53 子曰、「不在其位、不謀其政」。夫士茍有當世之略、一言而可弭無窮之禍、雖非在位、庶幾見用而天下蒙其休、何為其祕之哉。而孰知其固不可也。言之不切、而人習以為迂遠之談而不聽。言之切而見用矣、天下測其所以然、而且以其智力與上相扞格。如其不用也、則適以啟姦邪而導之以極其凶忒矣。 54 漢・魏之際、羌・胡・鮮卑雜居塞內、漸為民患、徙之出塞、萬世之利也。雖不在秉國大臣之位、固且憂憤積中而不容已於切言之。即不用矣、後世且服其早識、而謂晉有人焉、此郭欽・江統所以慷慨言之、無所隱而論之詳也。故傳之史策、而後世誦之不衰。乃欽之言曰、「有風塵之警、胡騎自平陽・上黨不三日而至孟津、北地・西河・太原・馮翊・安定・上郡盡為夷狄之庭」。其後劉淵父子・石勒皆踐其言、而晉遂亡。嗚呼。豈非郭欽之言教猱升木乎。劉宣・張賓之謀、皆師欽之智、而灼見晉之可襲取者、非一日也。言之不用、而徒導人以亂矣。藉晉用之、因而下徙戎之令、群胡知其畏己、而己有可乘之勢、於方徙之際潰爛以逞、又將奚以制之使弭耳以聽邪。 55 故使欽而在坐論之列、與君若相密謀之內庭、則極言之而不嫌。言即不用、猶不致啟戎心以增益其惡。惡有忘屬垣之耳、揚於大庭曰、人將若何以加我、將若何以使我莫敵、我其終無如何哉。非其位也、謀不得而盡也、姑緘默以俟其變可也。雖義激於中、而不敢快於一發、誠慎之也。孔子曰、「吾其為東周乎」。所以為者不言也。聖人且慎於未可有為之日、況偶有所知者乎。 56 一五 西晉の亡は、亡於齊王攸之見疑而廢以死也。攸而存、楊氏不得以擅國、賈氏不得以逞奸、八王不得以生亂。故舉朝爭之、爭晉存亡之介也。雖然、盈廷而爭者、未得所以存晉之道也。 58 攸之不安於國、武帝初無猜忌之心、荀勗・馮紞閑之耳。勗與紞、賈充之私人、非但佞以容身、懷鬻國異姓之心久矣。忌攸者、非徒忌攸、實忌晉也。攸之賢、固足以託國、然豈果有周公之德哉。即微攸而晉固可存。漢・唐・宋之延祚數百年、亦未嘗有親賢總己以制天下於一人、而卒不可亂、無他、無奸臣之在側而已。劉放・孫資在魏主之奧窔、而司馬氏援之以攘臂。勗與紞之於賈謐・楊駿、未知其誰屬、而要其市司馬氏之宗社於人、則早作夜思以謀逞志者也。攸即廢、晉不必亡。勗・紞不除、晉無存理。修賈充之餘怨、則陰擯張華。排博士之忠言、而顯斥曹志。茍有圖存晉室者、小不惜官爵、大不惜軀命、揚於王廷、揭勗・紞之奸、迸之裔夷、則不待交章訟攸、而攸固以安、抑不待措攸於磐石之安、而晉固以存。今乃舉尊卑疏戚之口合訟攸、而強帝持天下以任攸。荀勗固曰、「陛下試詔齊王之國、必舉朝以為不可」。墮其術中而猶競以爭、尚口乃窮、攸之困、晉社之危、諸臣致之矣。 59 夫一時徇名依附之眾、不足言也。李憙・劉毅・傅咸忠直為當時之領袖、而不能取前讒後賊為宗社效驅除、晉之廷、不可謂有人矣。植君子則小人自遠、則以進賢為本、斥奸為末、此自奸邪未逞之日言也。不逐小人則君子不安、則以斥奸為本、進賢為末、此為奸邪已盤踞於內之日言也。二者互相為本未、而君子知擇焉、乃以明於人臣之義、而為社稷所賴。非然、則相激以益其亂而已矣。