いつか書きたい三国志

『三国志』巻十七 趙幼文『三国志校箋』より

『三国志』巻十七

01魏志巻十七:毛本は「魏書十七」につくる。
02張遼 楽進 于禁 張郃 徐晃:毛本は「張楽于張徐伝第十七」につくる。

張遼伝

張遼字文遠……何進遣詣河北募兵、得千餘人。還、進敗、
03還、進敗:『通志』は「而還値進敗」につくる。

乃使謂豨曰、「公有命、使遼傳之。」
04乃使謂豨曰:『通志』は「使」字の下に「人」字がある。

『傅子』今天子在許、……據之以號令四方、公之勢去矣。
05郝書は「許」の字を「焉」につくるが疑わしい。直前にすでに「許」とあるから、郝書が重複を避けてのことだろうとのこと。
06公之勢去矣:郝書は「則公之事去矣」につくる。蕭書もまた「勢」を「事」につくる。

欲以動亂人耳。」
07蕭書は「動乱」の二字は「乙」。??

遼督張郃・牛蓋等討蘭。
08盧弼は「宋本は「朱」を「牛」につくる」という。
趙幼文 案ずらく、『官本攷證』は「朱は、宋本は牛につくる」といい、紹興本も同じ。


李典等將七千餘人屯合肥。
09『太平御覧』巻三百九の引用は「七」字がない。『文選』陳孔璋「檄呉将校部曲文」の注と、『通典』兵一も同じ。


是以教指及其未合逆擊之、
11『通典』は「指」字がない。読みにくくなければ、原文のままで。

於是遼夜募敢從之士、得八百人、
13敢從之士:『太平御覧』巻三百九、巻四百三十四、『冊府元亀』巻三百九十四の引用では、「従」字をいずれも「死」につくる。『通典』も同じ。


自旦戰至日中、
14『太平御覧』巻三百九では「旦」を「朝」に作る。『通典』も同じ。「あさ」の意味で理解すれば、触れなくてもよし。

權守合肥十餘日、
15『太平御覧』、『冊府元亀』巻三百四十二では「守」を「攻」につくる。『通典』も同じ。趙幼文によると、「攻」が正しく、なぜなら合肥を守ったのは張遼・李典・楽進であり、「攻」につくることで、下文の「城不可抜」に意味が整合する。


遼率諸軍追擊
16『太平御覧』は「追撃之」と「之」が多い。『通典』も同じ。文がより整いますねというレベル。

孫盛曰……羣帥不和、
17紹興本は「羣師」につくるが誤り。底本が「羣帥」に作っていたら、触れなくてよろしい。

且彼眾我寡、必懷貪墯。
18『通典』は「堕」を「惰」につくる。郝書も同じ。

楽進伝

太祖征管承、軍淳于、遣進與李典擊之。
20盧弼は何焯を引いて、「宋本は「進」の下に「及」の字があり、あるいは「與」の字があることも」という。趙幼文曰く、紹興本は「遣進與李典擊之」につくる。底本をチェックして、意味が通じるかをチェックしてから、触れるか否かを判定。


于禁伝

及太祖領兗州、禁與其黨俱詣為都伯、屬將軍王朗。
21周寿昌によると、王朗伝では、王朗が将軍になる前である。けだし王朗は諫議大夫・参司空軍事のときのことであり、筆にまかせて「将軍」という二字を書いたのは「事実」ではない。盧弼によると、王朗伝に引く『漢晋春秋』と武帝紀によると、まだ曹操が王朗を表徴する前。このときの将軍の王朗とは同名異人であろうか。
趙幼文はいう。盧弼が正しい。『太平御覧』巻二百四十では「王朗」でなく「王服」に作り、これが正しいか。「朗」と「服」は字形が似ているため誤った可能性があると推定する。


薦禁才任大將軍。
22盧弼は「軍」を衍字とする。『御覧』『通志』には「軍」字がない。

離狐
23毛本は「狐離」を「離狐」につくる。『冊府元亀』巻三百四十二も同じ。『晋書』地理志では「離狐」につくる。底本が「離狐」であればスルー可。

「青州兵已訴君矣、宜促詣公辨之。」
24『冊府元亀』巻四百十は「辨」を「辯」につくる。

譖訴何緣。
25『通志』では「縁」の下に「而入」二字がある。これは付け加えすぎ。意味を理解するときに必要ならばカッコで補う。

「諸君不知公常令乎!圍而後降者不赦。
26『御覧』巻六百四十六では「圍」の上に「先」がある。意味を理解するときにカッコで補う程度だ。

豨雖舊友、禁可失節乎。
27『御覧』では「友」の字を「交」につくる。

自臨與豨決、隕涕而斬之。
28『御覧』ではこの下に「郡中震慄、無求不獲」の八字がある。どこから湧いてきたのでしょうか。

魏書載制曰……水災暴至、非戰之咎。
29『冊府元亀』巻一百四十九は「至」を「長」につくる。
30『御覧』巻三百二十三は「咎」の下に「也」がある。四字句がくずれている。

帝使豫於陵屋畫關羽戰克
31『御覧』巻三百七十三では「畫」を「図」につくる。『御覧』巻四百九十一は「図画関羽」云々とする。趙幼文の推測によると、この句の「画」の上に、「図」の字が脱落している疑いがある。

張郃伝

紹遣將淳于瓊等督運屯烏巢、太祖自將急擊之。
32『御覧』巻四百二十八は「急」字がない。

勢必還、此不救而自解也。」
33『冊府元亀』では「為」を「謂」につくる。

懼郭圖之譖、然後、来歸太祖、
34毛本は「然後、歸太祖」につくり、「来」字がない。底本がどっちになっているか。

別將軍圍雍奴、大破之。
35『御覧』巻一百六十一は「将」の下に「軍」がなく、郝書も同じ。趙幼文の推定によると、張遼伝に「別将徇海濱」とあり、于禁伝に「又別将破高雅於昌須」とあるように、「軍」がないのが正しい。底本に「軍」があったら省く。

從討柳城、
36盧弼によると、宋本は「後」を「従」につくるという。趙幼文によると、『冊府元亀』巻三百四十二は「後」を「従」につくり、郝書も同じ。超亮伝にも、「従征袁尚……」とあるように、「従」字が正しい。底本が「後」につくっていたら「従」に改める。

『魏略』:備曰、「當得其魁、用此何為邪」
37盧弼は、「淵為元帥、非魁邪」とする(夏侯淵は元帥であるから、劉備が夏侯淵を魁というのは誤りではないか?)。趙幼文の考えでは、魁とは官職ではなく、才能言をさすもの。上文で劉備は張郃を憚り、張郃の才が夏侯淵より優れているとした。劉備はこの戦いで、本当は張郃を殺すつもりできたが、しかし食い違って夏侯淵を殺したため、このように不満の言葉を漏らしたのである。盧弼は、劉備の思いを分かっていない。解釈のとき、魁を夏侯淵ではなく張郃を指すものとして翻訳する。

嘗薦同鄉湛經明行修、
38盧弼は「何焯校では、「卑」を「畢」につくる」という。趙幼文の推定では、『白孔六帖』巻五十二では「郷」を「郡」につくる。古には「同郷」という言葉がなく、「同郡」が正しいのではないか。『御覧』六百三十一では「卑」を「畢」につくり、郝書、『通志』、張采『三国文』もまた「畢」につくる。底本が「卑」ならば、『御覧』と何焯に基づいて、「畢」に改める。

今將軍外勒戎旅、
39『御覧』、『冊府元亀』巻四百十三では「勒」を「勤」につくる。趙幼文は「勤」が正しいとしている。

詔郃督諸將西至略陽、
40『御覧』巻三百十は「将」を「軍」につくる。改めるほどではない。

軍法、圍城必開出路、
41郝書は「軍法」を「兵法」につくる。改めるほどでない。
42『御覧』巻三百七十一は「囲城必闕」につくり、「開出路」がない。趙幼文は、「囲城必闕」が正しいとする。底本がそう作っているほうでよい。

矢中郃髀。
43『御覧』は「髀」を「髀股」と二字句にする。

徐晃伝

願公降易陽以示諸城、則莫不望風。
44『冊府元亀』巻四百二では「望風」の後に「帰矣」がある。文意は明らかになるけど、かってに補ったらダメだよね。

為軍先置、以截其裏、賊可擒也。
45『冊府元亀』巻三百六十二は「裏」を「衆」につくる。「裏」のままのほうがよいな。

漢中之險要咽喉也。
46盧弼がいうように、「咽喉」を「喉咽」にする本も。底本に従えばよい。

太祖復、遣將軍徐商・呂建等詣晃、
47盧弼は「還」を衍字では?とする。趙幼文によると、武帝紀に「軍還洛陽」とあるので、「還」の後ろに脱文があるかとする。訳すときは(洛陽に)還るととする。

自將步騎五千出戰、晃擊之、退走、
48『通志』では、「退」の上に「羽」字がある。訳すときは「関羽が退走すると」で。

「徐將軍可謂有周亞夫之風矣。」
49盧弼は、『御覧』巻七百五十七に引く『魏略』の文、「徐晃性厳……」を引く。梁商鉅は、「士不暇食」にひっかける。趙幼文によると、梁商鉅の紐付けのほうが適切。梁商鉅にひっかけて補注に引用せよ。

名亞晃等、至後將軍、
50盧弼は「等」を衍字とする。趙幼文は、張遼ら5人を指すとして、「等」を保存せよという。[現代語訳]で「等」に張遼らが含まれることを示す。

封高唐亭侯。
51盧弼は「亭」を衍字とする。注引『魏書』に「於是更封高唐侯」とあるように。趙幼文も同意しているので、盧弼の説に従い、「亭」一字を削る。

瓚將靈母弟置城上、誘呼靈。
52『御覧』巻三百八十は「将」を「以」につくる。「もって」で読む。

靈望城涕泣曰、
53『御覧』は「城上」につくる。改めるほどではない。

「冀州新兵、數寬緩、
54『冊府元亀』巻四百十七は「乗」を「承」につくる。郝書は「数乗」を「久習」につくる。「乗」か「承」かは底本のままでよい。

後將二十四騎還洛陽、
55『後漢書』鄧禹伝は、「洛陽」を「宜陽」につくる。指摘したほうがよい。

朕受天命、帝有海內、
56盧弼は「帝有」の誤りを疑う。趙幼文は、『爾雅』釈詁に、「帝は、君なり」とあることから、「帝」を誤りとしない。現代語訳のとき、帝(君主)とする。221004