いつか書きたい三国志

楊伯峻『春秋左伝注』前言より

楊伯峻『春秋左伝注』前言より

楊伯峻『春秋左伝注』前言より

1春秋の名義

『春秋』は各国の史書のこと。『国語』晋語に七つの記述があり、「羊舌肸は『春秋』に習う」、楚語にも、「教之春秋」とある。『墨子』明鬼篇にも、各国の鬼怪のことがあり、「著は周の『春秋』に在り」、「著は燕の『春秋』に在り」、宋、斉のパターンもある。
『隋書』李徳林伝に載せる「答魏収書」にも、「『墨子』は、「わたしは百国の『春秋』を見た」とある。いまこの文はなく、孫詒譲『閒詁』があつめた佚文のなかにある。

劉知幾『史通』六家篇に、春秋家は、三代より出づ。汲冢[王巣]語を按ずるに、太丁のときのことを素利し、目して『殷夏春秋』としたとある。
劉知幾によると、『春秋』がはじめて作られたのは『尚書』と同時である。ただしこの推測は説得力がなく、汲冢[王巣]語は今日では見られない。その他、劉知幾の裏づけを取るのは困難。

『墨子』によると各国の歴史書は『春秋』といわれたが、『左伝』昭公 伝二年に、「晋侯は韓宣子をつかわし……『易象』と『魯春秋』をみた」とある。『孟子』離婁下にも、「晋の『乗』は、楚では『梼杌』で、魯の『春秋』で同じものだ」とある。これによると、春秋というのは魯だけの史書の名である。

なぜ「春秋」という名なのか。四季の……はぶく。

2春秋と孔丘

『春秋』には三伝がある。『左氏伝』は、前漢で学官が立てられることはなかったが、『漢書』儒林伝によると、「漢が興ると、北平侯の張蒼、梁太傅の賈誼、京兆尹の張敞がみな『春秋左氏伝』を修めた」とある。

三伝のもっとも重要な差異は、公羊の経の魯の襄公二十一年に、「十有一月庚子、孔子生」とあり、穀梁の経に、「庚子、孔子生」とあるが、左氏の経にはこれがない。
公羊と穀梁の伝は、魯の哀公十四年の「西狩獲麟」であるが、左氏はその後も継続し、魯の哀公十六年に、「夏四月己丑、孔丘卒」とある。左氏の伝は、魯の哀公二十七年まで記しており、趙襄子と韓・魏がともに智伯を滅ぼしたところまで記載がある。
公羊と穀梁が孔子の誕生を、左氏が左氏が孔子の師を書き、『左伝』は魯の哀公が孔子を弔った言葉と、それに対する子貢の論評を載せる。

『左氏伝』で読みましたね。子貢は、「魯の哀公は、生前の孔子を登用することなく、死後にさかんに持ち上げるのは、礼に外れている」と言った。


『春秋』が孔子の編纂によると言ったのは、『左伝』作者である。僖公二十八年に、「是會也。晉侯召王。以諸侯見。且使王狩。仲尼曰。以臣召君。不可以訓。故書曰。天王狩于河陽」とある。
杜預の後序に引く『竹書紀年』によると、『竹書紀年』は、「周襄王は諸侯と河陽に会した」とあり、(『左伝』のなかで孔子が言ったように)臣下が君主を召したという文字がない。
魯の史書が、もともとどういう形であったかは分からない。『史記』晋世家によると、孔子は『史記』(魯の『春秋』あるいは晋の『乗』)を読み、文公のところに至り、「諸侯は王を召してはいけない。王が河陽で狩りをしたことを、『春秋』は諱んだ」といったとある。それならば、今本の『春秋』で「天王狩于河陽」とあるから、司馬遷は孔子が読んだ原文『春秋』の段階では、諸侯が召したという文があった、と見なしたことになる(孔子がそれを諱んで削ったと考えた)。
『竹書紀年』は『春秋』と同じではない。『竹書紀年』は、晋と魏を主体とした史書であり、おのずと魯の史書と異なる、ということはあり得る。しかし『左伝』は、あえて『春秋』が孔子の編集を経ていると見なした。

『左伝』にはほかにも、成公十四年の伝に、
「君子曰。春秋之稱微而顯。志而晦。婉而成章。盡而不汙。懲惡而勸善。非聖人誰能脩之」とある。君子いわくというのは、聖人のことで、孔丘である。公羊では「君子」という。
公羊の荘公七年の伝に、「不脩春秋曰。雨星不及地尺而復。君子脩之曰。星霣如雨。何以書。記異也」とあり、これは紀元前687年3月16日の流星群であるが、これが世界最古の天文の記録である。流星は地面に到達する前に消滅した。
『公羊伝』の作者が、「不脩春秋」というのは、魯国の史官がつくった(孔子が手を入れる前の)原本『春秋』にはこの記事が存在しなかったが、孔子が手を入れることで現在の『春秋』になったとした考えている。

公羊のいう「君子これを修む」について、王充『論衡』藝増篇と説日篇に、「君子とは、孔子なり」とある。
『孟子』滕文公下に、孔子が『春秋』を作ったとある。『左伝』と『公羊伝』は、ただ孔子が『春秋』を「脩」したとあるが、『孟子』では孔丘が『春秋』を「作」としている。孔子は自分で「述べて作らず」と述べており(『論語』述而篇)、『孟子』は孔子自身の言葉と矛盾している。

『荘子』斉物論篇に、荘周が、「春秋経世先王之志、聖人議而不辯」とあり、聖人こと孔子が「議して辯ぜず」としている云々。220408

3春秋の評価

春秋は完全には信頼できない編年史であるが、第一に、天体現象については、記述の信頼性が高い。
第二に、古代の文物の出土遺物との整合性が高い。

さらに、両晋から唐・宋の人までが引用する『竹書紀年』は、『春秋』と相互対照できるので、楊伯峻も引用した。しかし引用できたところは多くない。なぜか。

雷学淇の『竹書紀年義証』巻三十一の「八年、晋文公卒」の条に、
「『竹書紀年』は、晋・魏の史記であり、原書は晋・魏の記録について詳しい。宋初の伝本は、ただ『左氏』の経・伝と異なるところだけを書き留め、同じところを記録しなかった。唐以前の諸書が引用したのは、(『春秋』と『竹書紀年』の共通部分の場合)みな『春秋』の経・伝から取材し、『竹書紀年』からは引用しない。ゆえに『竹書紀年』が『春秋』の経・伝と同じところは、多くが後世に伝わっていない。晋の文公の覇業は、『竹書紀年』に多く記載されていたはずだが、『竹書紀年』の文が伝わっていないのは、このため(『春秋』との共通する記述と見なされたため)である。『史通』惑経篇、『唐書』劉貺(りゅうきょう)伝に引くものが、わずかに残るだけである。

楊伯峻もこの説には賛成。
杜預の後序に、「汲郡汲県で発見された古書は、その紀年篇は、ほぼ春秋経と似ている。これは、いにしえの国史の策書の常法であると分かる」とする。

汲郡汲県の文の発見により、杜預が史料批判が可能になった。

劉知幾『史通』惑経篇には、「汲冢の記す所(『竹書紀年』)は、みな魯史と符同する」とある。
これらから、『春秋』が史料として信頼できることと、孔子が『春秋』を修(筆削を加えた)ことはないし、『春秋』を作ったわけでもないと分かる。

4春秋と三伝

『左伝』は、経文を解釈した文は比較的少ない。隠公の「元年春王正月」も、『左伝』は『公羊伝』ほど細かな解釈を付けない。「即位と書かないのは、摂だから」とするだけ。司馬遷『史記』魯世家では、『左伝』を用いて、『公羊伝』と『穀梁伝』を用いていない。

必要がなければ、『左伝』は経文に対して解釈を加えないし、春秋経の本文をくり返すこともない。『左伝』には、少なからず無伝の経がある(経が放置されている)。
杜預の考える『左伝』の体例では、もし経文と伝文が似ていたら、たとえば、文公元年の伝は、「夏四月丁巳、葬僖公」とあり、経の「夏四月丁巳、葬我君僖公」と、情報量に増減がない。ここに杜預は注を付けて、「伝、皆不虚載経文」とし、経文を(虚しく、むだに)くり返し載せないとする。

杜預の認識では、文公 伝元年で後ろにある「穆伯如齊。始聘焉」が、「僖公を葬った」の文に続くものである。孔穎達の疏で、「葬り終えて喪を除き……」と文の連続性を示している。
伝の文で、「僖公を葬った」の直後にある、「王使毛伯衞來錫公命。叔孫得臣如周拜」は、僖公の葬儀が終わったという文がなければ、周王は使者に錫命を賜ることが不可能で、(僖公のつぎの)文公も錫命を受けることができないはずで、使者との答礼も成り立たなかったはずである。

同じことは、宣公十年の経と伝のあいだにも見える。
はぶく。

このことから、『春秋』は『春秋』として、『左伝』は『左伝』として、別々の本であったという説明が確認できる。
『春秋』経のところに、『左伝』を年ごとに分割してくっ付けた。それを杜預は分かっており、ゆえに杜預の序で、「経の年ごとに分けて、伝の年を対応させてくっつけ、その意味や内容を比べて、解釈をした」とある。

杜預は史書の成り立ちを、テキスト批判を通じて分析的に理解した。


『左伝』にはいくつの関連性のある経文があっても、伝では一条にまとめられていることがある。僖公三十二年~三十三年にかけて、重耳について四条があるが、『左伝』では重耳の記事をひとまとめにし、僖公三十二年と三十三年のあいだに、まとめて挿入してしまっている。

『資治通鑑』の分析で、よく見かけるパターン。


『左伝』が経文と矛盾することがある。昭公八年に、『左伝』は「夏四月辛亥、哀公(陳の哀公)縊」とある。辛亥は四月二十日。しかし経文は「辛丑」とし、四月十日。
孔頴達疏は、「経と伝が異なるのは、伝が正しく、経が誤りである」とする。
また、ふつうの日食は、伝では書かれない。しかし、襄公二十七年の経に、「十二月乙亥朔」の日食があるが、伝には、「十一月乙亥朔」とある。日食は十一月が正しく、経文の誤りである。
『左伝』は、経文を正せるものであった。

漢代には、表記の仕方に関する「附会」が流行した。他方で『左伝』は、具体的な史実を説明したり、経文の補正をすることがあった。後漢より以後に流行し、魏晋より以後は『公羊伝』『穀梁伝』を圧倒した。220408