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『旧唐書』巻七十九 李淳風伝

『旧唐書』巻七十九 李淳風伝

中華書局本を見ておらず、固有名詞や書名などの判定を誤っている可能性が高いです。和刻本などを見ておらず、天文や暦法の歴史および用語、唐代の制度などをあまり知らないため、不適切な点が多いと思います。


李淳風、岐州雍人也。其先自太原徙焉。父播、隋高唐尉、以秩卑不得志、棄官而為道士、頗有文學、自號黃冠子。注老子、撰方志圖、文集十卷、並行於代。淳風幼俊爽、博涉羣書、尤明天文・曆算・陰陽之學。
貞觀初、以駁傅仁均曆議、多所折衷、授將仕郎、直太史局。尋又上言曰、「今靈臺候儀、是魏代遺範。觀其制度、疏漏實多。臣案虞書稱、舜在璿璣玉衡、以齊七政。則是古以混天儀考七曜之盈縮也。周官大司徒職、以土圭正日景、以定地中。此亦據混天儀日行黃道之明證也。暨于周末、此器乃亡。漢孝武時、洛下閎復造混天儀、事多疏闕。故賈逵・張衡各有營鑄、陸績・王蕃遞加修補、或綴附經星、機應漏水、或孤張規郭、不依日行、推驗七曜、並循赤道。今驗冬至極南、夏至極北、而赤道當定於中、全無南北之異、以測七曜、豈得其真?黃道渾儀之闕、至今千餘載矣。」

李淳風、岐州雍の人なり。其の先 太原より焉に徙(うつ)る。父の播、隋の高唐尉なり、秩の卑きを以て志を得ず、官を棄てて道士と為り、頗る文學有り、自ら黃冠子と號す。老子に注し、方志圖を撰し、文集十卷、並びに代(よ)に行はる。淳風 幼にして俊爽なり、博く羣書を涉り、尤も天文・曆算・陰陽の學に明るし。
貞觀の初、以て傅仁均の曆議を駁し、多く折衷する所あり、將仕郎を授け、太史局に直たり。尋いで又 上言して曰く、「今 靈臺の候儀、是れ魏代の遺範なり。其の制度を觀るに、疏漏 實に多し。臣 虞書の稱を案ずるに、舜は璿璣玉衡在り、以て七政を齊す。則ち是れ古は混天儀を以て七曜の盈縮を考ふるなり。周官の大司徒の職、土圭を以て日景を正し、以て地中を定む。此れ亦た混天儀に據りて日は黃道を行くの明證なり。周末に暨び、此の器 乃ち亡ぶ。漢の孝武の時、洛下の閎に復た混天儀を造り、事 疏闕多し。故に賈逵・張衡 各々營鑄有り、陸績・王蕃 遞(かはる)々修補を加へ、或いは經星を綴附し、機は漏水に應じ、或いは規郭を孤張し、日行に依らず、七曜を推驗し、並びに赤道に循ふ。今 冬至の極南、夏至の極北を驗し、而れども赤道 當に中に定むべし、全く南北の異無く、以て七曜を測り、豈に其の真を得るか。黃道の渾儀の闕、今に至るまで千餘載なり」と。

歴代の天文に関する問題意識が、李淳風の特徴。研究成果を踏まえて、器具を製作した。


太宗異其說、因令造之、至貞觀七年造成。其制以銅為之、表裏三重、下據準基、狀如十字、末樹鼇足、以張四表焉。第一儀名曰六合儀、有天經雙規、渾緯規、金常規、相結於四極之內、備二十八宿、十干、十二辰、經緯三百六十五度。第二名三辰儀、圓徑八尺、有璿璣規、黃道規、月遊規、天宿矩度、七曜所行、並備于此、轉於六合之內。第三名四遊儀、玄樞為軸、以連結玉衡遊筩而貫約規矩。又玄樞北樹北辰、南距地軸、傍轉於內。又玉衡在玄樞之間而南北遊、仰以觀天之辰宿、下以識器之晷度。時稱其妙。又論前代渾儀得失之差、著書七卷、名為法象志以奏之。太宗稱善、置其儀於凝暉閣、加授承務郎。十五年、除太常博士。尋轉太史丞、預撰晉書及五代史、其天文・律曆・五行志皆淳風所作也。又預撰文思博要。二十二年、遷太史令。

太宗 其の說を異とし、因りて之を造らしめ、貞觀七年に至りて造成す。其の制は銅を以て之を為り、表裏は三重、下は準基に據り、狀は十字の如く、末に鼇足を樹て、以て四表を張る。第一儀は名を六合儀と曰ひ、天經雙規・渾緯規・金常規有り、相 四極の內に結び、二十八宿・十干・十二辰を備へ、經緯は三百六十五度なり。第二は三辰儀と名づけ、圓は徑八尺・璿璣規・黃道規・月遊規・天宿矩度有り、七曜の行く所、並びに此に備へ、六合の內に轉ず。第三は四遊儀と名づけ、玄樞もて軸と為し、連結玉衡遊筩を以て規矩を貫約す。又 玄樞は北に北辰を樹て、南に地軸を距て、傍に內に轉ず。又 玉衡 玄樞の間に在りて南北に遊び、仰ぎて以て天の辰宿を觀て、下して以て器の晷度を識る。時に其の妙を稱ふ。又 前代の渾儀の得失の差を論じ、書七卷を著し、名づけて法象志と為して以て之を奏す。太宗 稱善し、其の儀を凝暉閣に置き、加へて承務郎を授く。(貞観)十五年、太常博士に除す。尋いで太史丞に轉じ、晉書及(と)五代史を撰ずるに預(かかは)り、其の天文・律曆・五行志 皆 淳風の作る所なり。又 預りて文思博要を撰す。二十二年、太史令に遷る。

初、太宗之世有祕記云、「唐三世之後、則女主武王代有天下。」太宗嘗密召淳風以訪其事。淳風曰、「臣據象推算、其兆已成。然其人已生、在陛下宮內、從今不踰三十年、當有天下、誅殺唐氏子孫殲盡。」帝曰、「疑似者盡殺之、如何?」淳風曰、「天之所命、必無禳避之理。王者不死、多恐枉及無辜。且據上象、今已成、復在宮內、已是陛下眷屬。更三十年、又當衰老、老則仁慈、雖受終易姓、其於陛下子孫、或不甚損。今若殺之、即當復生、少壯嚴毒、殺之立讎。若如此、即殺戮陛下子孫、必無遺類。」太宗善其言而止。

初め、太宗の世に祕記有りて云はく、「唐の三世の後、則ち女主武王 代はりて天下を有つ」と。太宗 嘗て密かに淳風を召して以て其の事を訪ぬ。淳風曰く、「臣 象に據り算を推すに、其の兆 已に成れり。然るに其の人 已に生まれ、陛下の宮內に在り、今より三十年を踰えず、當に天下を有ち、唐氏の子孫を誅殺すこと殲盡なるべし」と。帝曰く、「疑似する者あらば盡く之を殺す、如何」と。淳風曰く、「天の命ずる所、必ず禳避の理無し。王者 死せず、多く枉 無辜に及ぶことを恐る。且つ上象に據るに、今 已に成り、復た宮內に在り、已に是れ陛下の眷屬なり。更に三十年、又 當に衰老すべし、老ふれば則ち仁慈たり、受終し易姓すると雖も、其の陛下の子孫に於て、或いは甚だしくは損ぜず。今 若し之を殺さば、即ち當に復た生ずべし、少壯にして嚴毒なり、之を殺さば讎を立つ。若し此の如くんば、即ち陛下の子孫を殺戮し、必ず遺類無し」と。太宗 其の言を善しとして止む。

淳風每占候吉凶、合若符契、當時術者疑其別有役使、不因學習所致、然竟不能測也。顯慶元年、復以修國史功封昌樂縣男。
先是、太史監候王思辯表稱五曹、孫子十部算經理多踳駁。淳風復與國子監算學博士梁述・太學助教王真儒等受詔注五曹、孫子十部算經。書成、高宗令國學行用。龍朔二年、改授祕閣郎中。時戊寅曆法漸差、淳風又增損劉焯皇極曆、改撰麟德曆奏之、術者稱其精密。咸亨初、官名復舊、還為太史令。年六十九卒。所撰典章文物志、乙巳占、祕閣錄、并演齊民要術等凡十餘部、多傳於代。
子諺、孫仙宗、並為太史令。

淳風 每に吉凶を占候し、合ひて符契が若く、當時の術者 其の別に役使有り、學習して致る所に因らざるを疑ひ、然るに竟に測ること能はざるなり。顯慶元年、復た國史を修むるの功を以て昌樂縣男に封ぜらる。
是より先、太史監候の王思辯 表して五曹を稱し、孫子十部算經の理 踳駁多し。淳風 復た國子監算學博士の梁述・太學助教王真儒らと與に詔を受けて五曹、孫子十部算經に注す。書 成り、高宗 國學をして行用せしむ。龍朔二年、改めて祕閣郎中を授く。時に戊寅曆の法 漸く差あり、淳風 又 劉焯の皇極曆を增損し、改めて麟德曆を撰して之を奏し、術者 其の精密なるを稱ふ。咸亨の初め、官名 舊に復し、還りて太史令と為る。年六十九にして卒す。撰する所の典章文物志、乙巳占、祕閣錄、并びに演齊民要術ら凡そ十餘部、多く代に傳はる。
子の諺、孫の仙宗、並びに太史令と為る。210122

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『新唐書』巻二百四 方技 李淳風伝

『新唐書』巻二百四 方技 李淳風伝の訓読

李淳風、岐州雍人。父播、仕隋高唐尉、棄官為道士、號黃冠子、以論譔自見。淳風幼爽秀、通羣書、明步天曆算。貞觀初、與傅仁均爭曆法、議者多附淳風、故以將仕郎直太史局。制渾天儀、詆摭前世得失、著法象書七篇上之。擢承務郎、遷太常博士、改太史丞、與諸儒脩書、遷為令。

李淳風、岐州雍の人なり。父の播、隋に仕へて高唐尉なるも、官を棄てて道士と為り、黃冠子と號し、論譔を以て自ら見(あら)はる。淳風 幼くして爽秀なり、羣書に通じ、步天曆算に明るし。貞觀の初、傅仁均と曆法を爭ひ、議者 多く淳風に附き、故に將仕郎を以て太史局に直す。渾天儀を制め、前世の得失を詆摭し、法象書七篇を著して之を上(たてまつ)る。承務郎に擢せられ、太常博士に遷り、太史丞に改め、諸儒と與に書を脩め、遷りて令と為る。

太宗得祕讖、言、「唐中弱、有女武代王」。以問淳風、對曰、「其兆既成、已在宮中。又四十年而王、王而夷唐子孫且盡。」帝曰、「我求而殺之、奈何?」對曰、「天之所命、不可去也、而王者果不死、徒使疑似之戮淫及無辜。且陛下所親愛、四十年而老、老則仁、雖受終易姓、而不能絕唐。若殺之、復生壯者、多殺而逞、則陛下子孫無遺種矣!」帝采其言、止。

太宗 祕讖を得るに、言はく、「唐 中ごろに弱し、女武有りて王に代はらん」と。以て淳風に問ふに、對へて曰く、「其の兆 既に成れり、已に宮中に在り。又 四十年にして王たり、王にして唐の子孫を夷すこと且に盡なり」と。帝曰く、「我 求めて之を殺さば、奈何」と。對へて曰く、「天の命ずる所、去る可からず、而るに王者 果して死せず、徒らに之を疑似せしめて戮淫 無辜に及ばん。且つ陛下の親愛する所、四十年にして老ひ、老ひれば則ち仁なり、受終し易姓すると雖も、而れども唐を絕つこと能はず。若し之を殺さば、復た壯なる者生じ、多く殺して逞たり、則ち陛下の子孫 遺種無からん」と。帝 其の言を采りて、止む。

淳風於占候吉凶、若節契然、當世術家意有鬼神相之、非學習可致、終不能測也。以勞封昌樂縣男。奉詔與算博士梁述・助教王真儒等是正五曹・孫子等書、刊定注解、立於學官。撰麟德曆代戊寅曆、候者推最密。自祕閣郎中復為太史令、卒。所撰典章文物志・乙巳占等書傳於世。子該、孫仙宗、並擢太史令。

淳風 占候吉凶に於て、若節契然(?)、當世の術家の意 鬼神有りて之を相(み)、學習して致る可きに非ず、終に測ること能はず。勞を以て昌樂縣男に封ぜらる。詔を奉り算博士の梁述・助教の王真儒らと與に五曹・孫子らの書を是正し、刊定し注解して、學官を立つ。麟德曆を撰して戊寅曆に代へ、候者 最密なるを推す。祕閣郎中より復た太史令と為り、卒す。撰ずる所の典章文物志・乙巳占らの書 世に傳はる。子の該、孫の仙宗、並びに太史令に擢せらる。210122

『旧唐書』のほうが情報量が多かったし、天文の研究史をふりかえる上奏があったので、『旧唐書』のほうが参考になりそう。


唐初言曆者惟傅仁均。仁均、滑州人、終太史令。

唐初の曆を言ふ者は惟だ傅仁均のみ。仁均、滑州の人にして、終に太史令たり。

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『晋書』巻十一 天文志上 序文の訓読

『晋書』巻十一 天文志上 序文の訓読

昔在庖犧、觀象察法、以通神明之德、以類天地之情。可以藏往知來、開物成務。故易曰、「天垂象、見吉凶、聖人象之。」此則觀乎天文以示變者也。尚書曰、「天聰明自我人聰明。」此則觀乎人文以成化者也。是故政教兆於人理、祥變應乎天文、得失雖微、罔不昭著。然則三皇邁德、七曜順軌、日月無薄蝕之變、星辰靡錯亂之妖。黃帝創受河圖、始明休咎、故其星傳尚有存焉。降在高陽、乃命南正重司天、北正黎司地。爰洎帝嚳、亦式序三辰。唐虞則羲和繼軌、有夏則昆吾紹德。年代緜邈、文籍靡傳。至于殷之巫咸、周之史佚、格言遺記、于今不朽。其諸侯之史、則魯有梓慎、晉有卜偃、鄭有裨竈、宋有子韋、齊有甘德、楚有唐昧、趙有尹皋、魏有石申夫、皆掌著天文、各論圖驗。其巫咸、甘・石之說、後代所宗。暴秦燔書、六經殘滅、天官星占、存而不毀。及漢景武之際、司馬談父子繼為史官、著天官書、以明天人之道。其後中壘校尉劉向、廣洪範災條、作皇極論、以參往之行事。及班固敘漢史、馬續述天文、而蔡邕・譙周各有撰錄、司馬彪採之、以繼前志。今詳眾說、以著于篇。

昔在(むかし) 庖犧、象を觀て法を察し、以て神明の德に通じ、以て天地の情を類す。以て往を藏し來を知り、物を開き務を成す可し。故に易に曰く、「天 象を垂れて、吉凶を見す、聖人 之に象す」と。此れ則ち天文を觀て以て變を示す者なり。尚書に曰く、「天の聰明 我が人の聰明自(よ)りす」と。此れ則ち人文を觀て以て化を成す者なり。是の故に政教 人理に兆して、祥變 天文に應じ、得失 微なりと雖も、昭著ならざる罔し。然れば則ち三皇 德を邁(おこな)はば、七曜 軌に順ひ、日月は薄蝕の變無く、星辰は錯亂の妖靡(な)し。黃帝 創めて河圖を受け、始めて休咎を明らかにし、故に其の星傳 尚ほ存すること有り。降りて高陽在り、乃ち南正に命じて重に天を司らしめ、北正に黎に地を司らしむ。爰に帝嚳に洎びて、亦た式て三辰を序す。唐虞に則ち羲和 軌を繼ぎ、有夏に則ち昆吾 德を紹ぐ。年代 緜邈にして、文籍 傳ふること靡し。殷の巫咸、周の史佚に至り、格言 遺記し、今に朽ちず。其の諸侯の史、則ち魯に梓慎有り、晉に卜偃有り、鄭に裨竈有り、宋に子韋有り、齊に甘德有り、楚に唐昧有り、趙に尹皋有り、魏に石申夫有り、皆 掌りて天文を著はし、各々圖驗を論ず。其の巫咸、甘・石の說、後代の宗とする所なり。暴秦 書を燔きて、六經 殘滅すれども、天官の星占、存して毀たず。漢の景武の際に及び、司馬談の父子 繼ぎて史官と為り、天官の書を著し、以て天人の道を明らかにす。其の後 中壘校尉の劉向、洪範の災條を廣め、皇極論を作りて、以て往(いにしへ)の行事に參ず。及び班固 漢史を敘し、馬續 天文を述し、而して蔡邕・譙周 各々撰錄有り、司馬彪 之を採り、以て前志を繼ぐ。今 眾說を詳らかにして、以て篇を著はす。

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藪内清『中国の科学』、『晋書』天文志の解説

藪内清『中国の科学』(中央公論社、一九七五年)

正史における天文p56

歴代の正史で、天文をとりあげたのは、『史記』天官書が最初。星座の記述があり、すべて官署の名をとっている。星座は百をはるかに超えるが、まだ完備していない。
時代に国内が混乱したことを述べ、「天の兆候や星の動き、雲気を観察することが火急のこととされたのである」とみえ、戦争や不安の要求によって、占星術が発展したとわかる 。
『史記』天官書は、星座の知識のほかに、太陽・月・惑星・流星・彗星と、大気中の現象と思われる雲気の一般的記載と、それに対する占星術的意味を述べる。

天官書を受けたのが、『漢書』天文志で、これ以後、「天文志」という言葉が定立した。ここには、天官書の文章をほとんど受け継いでいるが、それとならんで、前漢における天体観測の具体例をあげることで、新例をひらいた。
これにつづく『後漢書』天文志は、こうした前例を受け継ぎ、いっそう多くの天体観測とそれに対する占星術の見解を集めている。

『三国志』には天文志の部分がなかったが、『晋書』天文志は三国時代の天体現象にも及び、よほど詳しい記録を集めている。暦法を除く中国天文学を詳しく述べており、前代正史の記載に比べてはるかに内容が豊富になっているだけでなく、後世正史「天文志」と比較してもきわめて特色のあるものとなっている。!

『晋書』天文志の編纂とその内容

唐の太宗の貞観年間(六二七~六四九年)に、勅命により多くの学者官僚が集まってできあがった。天文・律暦の分野は、当時の専門家の李淳風(六〇二~六七〇年)であった。
李淳風の電気は、『新唐書』巻二〇四 方技伝にみえる。若年より群書を読み、天文暦算の学に明るく、太史局(国立天文台)の仕事にたずさわった。太史令となり、高宗の麟徳二(六六五)年から、麟徳暦の撰者となった。この暦法は、日本では儀鳳暦とよばれ、飛鳥時代におこなわれた。
李淳風は、『九章算術』その他、古典数学書に注釈を加えた。『乙巳占』とよぶ占いを著述し、疑似科学の面で有名であり、そのために方技伝に収録された。
『晋書』天文志は、上中下に分かれ、小項目に分割される。
上巻は、天体・儀象・天文経星・二十八舎・二十八宿・外星・天漢起没・十二次度数・州郡躔次。中巻は、七曜・雑星気・客星・流星・雲気・十煇・雑気・天変・史伝事験。下巻は、月五星犯列舎・経星変附見・妖星客星・星流隕・雲気をおさめる。

中巻の「天変」は衍字と思われる。

巻中の雑気までは、占星術をふくめた中国天文学の一般論。巻中の史伝事験からは、それぞれの年月日における天文現象の観測と、それに対する占星術的判断を掲げている。

中国の宇宙論―蓋天説

天文学的な宇宙論には、二種がある。宇宙創造論と、宇宙構造論である。古代には、前者はほとんど見るべきものがない。
宇宙構造論は、中国においてかなり発達したが、晋代以降には展開をみせていない。したがって、『晋書』において宇宙構造論はもっとも詳しく述べられている。
漢代もしくはそれ以前から行われた宇宙構造論には、「天文志」のはじめに、「古、天をいうもの三家あり、一を蓋天といい、二を宣夜といい、三を渾天という」とあるとおり、三派の説があった。蓋天と渾天が、中国の代表的宇宙論。さらに、蓋天説は、漢以前の天文学説をも含んだ『周ヒ算経』に説かれた、最古の宇宙論である。

蓋天と渾天両説の争い

前漢時代に、二説が行われた。もとより天を球状とする渾天説が、実情に一致した。前漢末の姚裕は、はじめ蓋天説を信じたが、弟子の桓譚に説得されて渾天説を信じるようになった。
後漢の張衡は、『渾天儀』を残した。渾天説に対し、後漢の王充(二七~一一〇年頃)が反対を唱えた。『論衡』に詳しいが、『晋書』天文志にも引用されている。王充は、渾天説をすてて蓋天説を指示したが、古来の蓋天説と一致しているかは疑われ、きわめて幼稚な議論であるが、王充に論駁するのは、容易ではなかった。

『晋書』天文志には、晋の葛洪の説をとりあげている。
その後、『隋書』天文志によると、梁の武帝は、多くの学者を長春殿にあつめ、天地の形状を議論させ、渾天説は排斥されたという。

蓋天・渾天をめぐる論争は、ほぼこの時点で中止され、唐代以降には、無用の議論として無視された。『晋書』天文志には、はじめに後漢の蔡邕の説をひき、「ただ渾天は近くその実情を得る」といい、また「これ則ち渾天の理は、信じて徴あり」と結んでおり、渾天説の優位を支持している。

宣夜説その他

遅れて出てきたのが、宣夜説。『晋書』天文志には、後漢の霊帝の時代に書かれた、蔡邕の文をひき、「宣夜の学は、絶えて師法なし」という。しかし下文に、後漢の秘書郎の郗萌(げきほう)が、先師から受けた宣夜説を記述する。

晋の天文学者の虞喜は、咸康年間(三三五~三四二年)に、宣夜説を基礎として、安天論をつくった。虞喜は、中国ではじめて歳差の現象を発見したひと。
虞喜の一族の虞聳、呉の太常の姚信も説を唱えたが、『晋書』では名前をあげるだけで退けられている。ともあれ、中国における古代の宇宙論は、『晋書』において詳細に述べられており、これ以上に詳しいものはほとんどな。『隋書』天文志に、ややこれを補う文章があるのみである。

渾天儀とそれによる観測

『晋書』天文志には、渾天儀(渾儀ともいう)、それも張衡がつくった自動的に働くものについて記載がある。自動渾天儀は、唐宋時代にも作られた。ケンブリッジ大学のニーダム博士が、一九六〇年に研究を発表した。
『晋書』天文志には、前一世紀ごろから使用され始めた渾天儀の歴史と、それを使った位置天文学の大要を記している。
渾儀による観測に基づく位置天文学の知識は、『後漢書』律暦志に記載されているが、『晋書』では天文志に移されている。

『晋書』天文志には、天球儀、すなわち渾象の記事があることも、また注意をひく。渾象は、後漢の順帝のとき張衡がつくり、それを漏水によって自動的に動かし、天空の状態に一致させた。後漢の陸績、呉の王蕃(二二八~二六六年)もつくった。
天球儀には、星々が散りばめられた。

星座の知識

恒星のことは、経星という。惑星は、緯星・行星という。経星は、一定の位置にあって動かないことで、恒星と同義。
周代の文献には、星座や星の知識は乏しい。北極星、北斗七星、参(オリオン座)、昴(スバル)、大火(アンタレス)などが早くから注意された。月の運行が注意されるようになって、二十八宿が成立した。
二十八宿は、赤道に沿った著名な星座を、恒星月(27.32日)にあわせて、28個選び出したもの。月が毎夜、一つずつ星座に宿るというのが、二十八宿の名のおこり。
太陽、月、惑星などは、赤道(より詳しくは黄道)に沿って動くから、その位置は二十八宿を帰順にして与えられるようになった。二十八宿の成立は、戦国時代か。
戦国時代には占星術が発達し、星座を官署の名で整理したのが漢代。『史記』は、はじめて星座を集録したが、後世の半数ほど。
『晋書』天文志によると、しだいに数を増し、三国呉の太史令(国立天文台長)陳卓のとき、二八三官一四六四星に拡大した。
呉の陳卓は、官署になぞらえた星座を、甘氏・石氏(石申)、巫咸という、古代の天文学者の名によって分類し、星図をつくった。
『晋書』天文志は、陳卓の星座を基礎とし、星座の名称、星数、神格、占星術的な意味を詳述している。星座に関する知識は、ほとんど『晋書』で完成され、その後は、わずかな修正が加えられたに過ぎない。

十二次と分野説

『晋書』天文志の記述は、天漢(銀河)に関する簡単な文ばあり、つぎに十二次についてのべる。戦国時代に行われた者で、赤道にそった天周を十二に等分したもの。黄道十二宮に類似している。
二十八宿が個々の星座であり、星座によって赤道(もしくは黄道)上の広がりがまちまちであるのに対し、十二次は、天周を十二等分し、星座と離れたもの。十二宮が、春分点から始まる三十度ずつによって区切られるのと同じ。
十二次の一つ、星紀は、冬至点(二七〇度)を中心とする、現行にいう三十度の広がりをもっている。

十二次の広がりを、二十八宿の度数で表すことができる。しかも両者の関係は、歳差現象によって少しずつズレていくから、

これは自分で理解しなければならない。

『晋書』天文志には、晋代の値と、それと比較するために後漢の費直や蔡邕の値をも注記している。

十二次。班固取三統曆十二次配十二野,其言最詳。又有費直說周易、蔡邕月令章句,所言頗有先後。魏太史令陳卓更言郡國所入宿度,今附而次之。


ところで十二次は、十二支に対応させられるが、同時に、国名・州名との対応が行われる。戦国時代の『左伝』から行われたもので、地上の国名(もしくは州名)を、天上にも割り当て、天上に起こった天体現象に応じてその位置に該当する国の吉凶を占うことが行われた。これを分野説という。
『左伝』では、歳星(木星)がどの次(じ)にあるかによって、それに応ずる国々の吉凶を判断する事例が見えている。

占星術の対象となった天体・気象現象

以上のように、『晋書』天文志上は、天文学の科学的な部分を記載している。これに対し、中・下は、占星術とそれを立証する天文観測資料を集録している。それも巻中の大部分は、それぞれの天体に対する一般的な予兆を述べたものである。

[七曜]
日月および五つの惑星
[雑星気]
現在の名では表しがたい天体を含み、三世紀の劉叡によって集められた『荊州占』によって書かれている。瑞星・妖星・客星・流星などの星のほか、瑞気・妖気・日月傍気などをあげる。妖星は、彗星であるという。瑞気以下は、おそらく大気中の現象。
[客星]
何であるか明白でない。突如、出現する星。尾を持たない彗星で、孛星(はいせい)ともいい、まれに新星が含まれる。北宋の一〇五四年に現れた客星は、二十世紀の天文学者によって、超新星と同定されている。
[流星]
形状や輝きから、分類されている。
[雲気・十煇・雑気]
大気中の現象であるが、占星術の対象として観測された。

ハローの観測

十煇は、太陽の周囲にできるハローを取り扱っている。
『晋書』天文志を英訳した何丙郁(かへいいく)博士は、十煇その他のハローが、具体的に何を表しているか追求している。気象学は、藪内氏の専門外。

71頁に掲載されている


オーロラの記事

慶松光雄博士により、中国で観測されたオーロラが明らかにされた。『漢書』天文志にみえる建始元年(前三二年)九月戊子を、確実なオーロラの記事とする。
これ以外にも、天狗(てんこう)・蚩尤旗・枉矢(おうし)などは、オーロラを示すのではなかろうかという。『晋書』雑星気中の妖星の条にあげられている蚩尤旗について。
雑星気は、彗星を第一とし、蚩尤旗はその六番目にあたる。

六曰蚩尤旗,類彗而後曲,象旗。或曰,赤雲獨見。或曰,其色黃上白下。或曰,若植雚而長,名曰蚩尤之旗。或曰,如箕,可長二丈,末有星。主伐枉逆,主惑亂,所見之方下有兵,兵大起;不然,有喪。

六に曰ふ、蚩尤旗は,彗に類して後曲し,旗を象る。
……とあり、「旗を象る」まえは『史記』の引用で、それ以下は『晋書』で加わった文。『晋書』の記載は、従前より一段と詳しくなっている。

天変記事

巻十二の終わりの「天変史伝験事」から、巻十三にかけて、年次を折って、実際に観測された天文現象と、それに対応する張状の事験を比較している。
まず巻中には、はじめに「天が裂ける」記事が二つ、「天が鳴る」記事が四つある。それに続いて、三国魏の黄初二(二二一)年から、晋の元熙元(四一九)年まで、およそ二百年間に起こった、七十五回の日食記事を取録する。単に事実を述べるだけのものもいくつかあるが、多くは日食を予兆とみて、それにともなう事件を書いている。

というまとめ方は、課題があると思うので論じます。


日食は凶兆とみて、それに伴う事件を書いている。義熙年間には四回、元熙元年に一回があり、革命の予兆とされている。天文学者が観測し記録した天体現象には、凶兆と見られるものが多い。
何丙郁博士が日食などを除いた他の天体現象215件について、統計的にまとめた結果では、吉兆65、凶兆122となっており、凶兆が2倍。晋の時代がいかに不安定であったかを物語るものである。

日食につづいて、ハローに類する現象が収録される。「白虹、天を貫く」は、幻日環もしくは太陽柱の類い。「日中に黒子あり」という記事には、太陽黒点の観測が含まれるであろう。

「月変」には、月のハローと、二回の月食が記録される。占文によると、月食もまた凶兆で、高貴なひとの亡くなる前兆と考えられている。しかし、この回数からみて、月食がほとんど注目されなかったといえる。
つぎに、「月奄犯五緯」および「五星聚舎」の記事があり、巻中を終える。
「月奄犯五緯」は、月が五緯(五惑星)のいずれかを掩蔽(えんぺい)するか、または極めて接近する現象であって、これも多くの場合、凶兆である。
「五星聚舎」は、惑星の二つもしくはそれ以上が、二十八宿の一つにあつまる現象。かつて漢の高祖が、秦の都の咸陽を攻略する首途にあり、五星が東井(二十八宿の一つ)に集まったのをみて吉兆と喜んだのであるが、『晋書』にみえる「五星聚舎」は、すべて凶兆と見なされている。

巻下に移る。
「月五星犯列舎」「経星変」「妖星・客星」「星流隕」「雲気」の項目に分けて、観測資料とそれに対する占文が見える。
「月五星犯列舎」は、月および惑星が二十八宿のなかの比較的明るい星を「犯す」現象。「犯す」は、星に接近することで、掩蔽現象も含まれると思われる。
この項には、太白(金星)が最大光輝となり、日中にも見える場合が含まれる。太白が日中に見える現象は珍しくないが、べつに「歳星昼見」と、木星が昼に見えた記事もある。
「経星変」は、特別な項目でなく、「月五星犯列舎」のなかに含めて記録される。安帝の隆安元年、「太白昼見」の記事をのせ、同年七月癸亥に、「大角星散揺」とみえる。大角は、アークトルスのことで、その光がひどく瞬いたのだろう。

「月・五星 列舎を犯す」ですね、点を打つと。


「妖星・客星」の条は、突如として天空に出現する天体、すなわち彗星もしくは新星の類いを含むと思われる。このなかから、新星を指摘することは困難である。
中国では、彗星のうち、エンケ彗星のように、尾ないものを「孛星(はいせい)」と区別することがある。しかしそのような厳密な区別は、『晋書』では行われていない。たとえば、明帝の青龍四年十月甲申に、「有星孛于大辰」とあり、これは孛星が、大辰(北極大星か)を犯した記事と思われるが、それに続いて、「長さ三尺」とあって、やはり尾を持った彗星と解されよう。
彗星の大きさや、天体間の距離を示すために、角度のかわりに、丈尺寸の長さを使う。

客星や彗星のほか、とくに妖星の記録が含まれるが、何が含まれるか不明。
最期の「星流隕」は、星気(オーロラのごときもの)、流星、隕星を指すものと思われる。

(藪内氏の)さいごに吉兆の例をあげる。

武帝泰始四年七月,星隕如雨,皆西流 。占曰:「星隕為百姓叛。 西流 ,吳人歸晉之象也。」

とある。「占にいう」は、何かの占星術を書いた虎の巻の類いである。 この年には、呉で反乱がおおき、十二年をへた太康元年、呉は滅びた。しかし、後の時代から理屈をつける段には、どんな解釈でもできる。占いとは、そうしたものであるが、国立天文台の役人が、まじめにこうした仕事をしていたのである。210123

本文の記事の継承は、『史記』への加筆ぐらい。李淳風にとっての先行研究は、わざわざ言及されていることが多く、晋代との比較がなされている、というのが藪内氏の理解。そこは確かに、先行する書物への加筆がみられる。李淳風のオリジナリティをどのくらい言えるか。たとえば『宋書』には、「費直」はヒットしない。蚩尤旗の説明も、『宋書』天文志には見えなさそう。
『宋書』に見える占いを、より精緻に分解して、歴史の出来事と結びつけたことに、李淳風のオリジナリティがありそう。

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『中国古代の天文記録の検証』緒言と凡例

斉藤国治・小沢賢二『中国古代の天文記録の検証』(雄山閣出版、一九九二年)

緒言―天文古記録研究の価値について

斉藤国治氏による。

さいとう くにじ、1913年7月1日 - 2003年

日食や彗星の出現は「天変」といわれた。
天帝が為政者(天子)に示す警告。それは、天井に描かれた天の文(あや)、つまり「天文」であり、陰陽五行説の根拠となった。 『晋書』巻十二 天文志中に「人君有瑕(あやまち)、必露其慝以告示焉」とある。

もとの目的が何であれ、残された天文古記録は、貴重な文化遺産。古代人の意図とはべつに、最新の天文学に役立つ。
1)日食・月食の素朴な記録により、地球の自転速度が永年的に減衰していることが判明した。
2)「客星」と書かれたなかに、今日の「超新星」が含まれる。恒星の爆発現象であって、恒星進化の終末段階を示すめずらしい実見記録。
3)天体の運行は、数理計算によって古代に遡って再現され得る。年代不詳の古代記録(無年号文書)でも、そのなかに天文記事をふくむならば、年代を決定できる。中近東の古代王朝の編年に役立ったことがある。
4)歴史時代の天変記録を検証し、史料全体の信憑性について、科学的な判定をくだすことができる。

初期は年代決定を主目的とし「天文年代学」と称したが、今日では、「古天文学」という呼称を(斉藤国治氏が)つくっている。
二十四史から、天文観測記録をぬきだし、古天文学的な検証をくわえた。記録中の誤記・錯簡が多く指摘され、正しい原文を復元するのに役立った。従来も、「校勘記」と称して、史料を文献学的に比較照合して原文に復元する努力がなされているが、はじめての「科学的な校勘記」となる。

正史の「天文志」に一括され、幾分かは「帝紀(本紀)」にも散見する。日食などは重大な災異とみられ、史書によっては「五行志」に組み入れられている。また、月食を「律暦志」に収める史書もある。
概していえば、天文観測の生のデータは、「天文志」「五行志」に載せ、日月・五星の運行と、その推算の解説は、「律暦志」に載せてあるといえる。

後代の『文献通考(正続)』、

『文献通考』は、上古から南宋の寧宗の開禧3年(1207年)に至る歴代の制度の沿革を記した中国の政書。元の延祐4年(1317年)、馬端臨(1254年 - 1324年)が完成させた。全348巻、考証3巻を付す。

『古今図書集成』、

18世紀、中国・清代の百科事典(類書)。現存する類書としては中国史上最大で、巻数10,000巻。正式名称は『欽定古今図書集成』。

資治通鑑などの編纂物からは、正史にもれた多少の天文記録を補うことができる。

「中華書局本・二十四史」(北京、一九七五年)を底本とした。これは、各巻末に「校勘記」を附して、綿密な文献考証をおこなっている。活字印刷本ゆえに誤植もあるため、「百衲本・二十四史」との比較照合をあわせておこなった。また、「二十四史」本文の他に、各書佚文の収集にも意を用いている。

凡例

(3) 各書にふくまれる天文記事は、これを天象別に分類して9項目に分けてある。①日食、②月食、③月の掩犯(えんはん)、④惑星現象、⑤星昼見、⑥老人星、⑦彗孛(すいはい)(客星をふくむ)、⑦aハレー彗星、⑧流隕(りゅういん)、⑨雑象(日月薄食、赤気・白気、白虹、天鼓・天鳴、日中黒子などをふくむ)
この配列法は、天文志・五行志・律暦志における天文記事の配列法にもとづく。

⑥にある老人星は、竜骨座のα(アルファ)星カノープスのこと。古くは天の南極にあって人の寿命をつかさどるとされた。南極星。南極老人。寿星(じゅせい)。


天文志のなかには、記事を天象別に分類せず、諸種の天文記事を編年式に配列するものもある。たとえば、『旧唐書』は、はじめ天象別に分類しておきながら、「災異編年、至徳後」の欄では、至徳年間以後の天文記事が、天変別の分類をやめて編年式に変更している。いわば、編集方針の中途変更をした例である。

『旧唐書』は、中国五代十国時代の後晋出帝のときに劉昫・張昭遠・賈緯・趙瑩らによって編纂された歴史書。二十四史の1つ。唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)について書かれている。


(5) 天象別に分類した後、さらに年代順に配列・整頓する。なかには、原典の配列がきわめて乱れている史書がある。『魏書』天象志である。「月星の掩犯(えんはん)」と「惑星現象」の項目は、配列の錯乱があるうえに、460~477年の記事がすべて1年ズレている。古天文学検証によってすべて整頓してある。

『魏書』は、中国北斉の魏収が編纂した北魏の正史である。『北魏書』、『後魏書』とも。二十四史の一。構成は、本紀14巻、列伝96巻、志20巻で、全130巻からなる紀伝体。本紀と列伝の部分は、554年(天保5年)に、志の部分は、559年(天保10年)に成立した。


(6)『晋書』天文志は、『三国志』まで遡る。『宋書』天文志は、『三国志』『晋書』さかのぼる。重複して掲載する。記事に違いがあり、後出の書が前出の書の記載(とくに年月日と干支の名)の誤記を訂正しているものも多い。したがって、一書が他書の記事を機械的に転写収容したわけではなさそうである。なかには、後出の書のほうに誤記が証明される記事もある。

(8) 天文記事は、年月日の順に番号(ナンバー)をつけて配列する。古天文学的検証をした結果は、カギ括弧内にかんたんに注記する。これはいわば綱文(こうぶん)である。
しかし、それが記事の内容と異なる場合がある。記事のほうに「水乗輿鬼(よき)」とあるのに(輿鬼=鬼宿、南方の宿)、検証からは、「火星が輿鬼の北にあって」とせねばならない。この場合、記事の「水」は「火」の誤記、または誤認である。ここの綱文は、[火入輿鬼、惑星名誤記]と注記した。
これ以外に、年月日のいずれかに誤記が証明される場合には、[年号、月名、日付誤記]と注記した。天文記事の内容と符合する結果が得られなければ、[不審]とする。

(9) 記事の[綱文]数字は、年月日(陰暦)を、ユリウス暦日(陽暦)に換算した。参考にしたのは、陳垣『二十史朔閏表』(一九五八年)、董作賓『中国年暦簡譜』(一九七五年)、方詩銘・方小芬『中国史暦日和中西暦日対照表』(一九八七年)。
陳垣は、備考欄が整備され、三国や南北朝などで連立する元号濫立を明細に示している。ただし、B.C.年代のユリウス暦の暦日表示を書いている。この不便を補うものが、董作賓であった。

あとがき

小沢賢二氏による。
文献を研究領域とするものには、中華書局本を底本とすることを、いぶかしく思うひとがいるかもしれない。だが、検証してみた結果、天文史料に関しては、精粗いちじるしい(品質にばらつきが大きい)百衲本よりも、ぎゃくに中華書局本のほうが誤記が少ないことがわかった。
とくに、『晋書』佚文については、天文史料が目立ち、清の湯球『晋書輯本』をはじめ、李淳風の『乙巳占』、

中國哲學書電子化計劃で閲覧可能。

薛守真『天地瑞祥志』からも、所引佚文を収録することにした。210123

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歴代正史のなかの天文記録

斉藤国治・小沢賢二『中国古代の天文記録の検証』(雄山閣出版、一九九二年)より。

『史記』(戦国時代)のなかの天文記録

『史記』は、本紀・表・世家(せいか)・十二諸侯年表・六国年表・天官書・列伝があり、紀元前七世紀から紀元前三世紀におよぶ、日食・月食・惑星現象・彗孛・流隕の記録が散見する。
「六国年表」が包括する、紀元前476~紀元前207の天文記録を収容する。「六国年表」は、戦国時代の六国の歴史を並記する。天文記録は、ほとんど秦国関係の欄に集中する。

「秦表」と略記する。


日食記事には「年」を示すだけで月日の記載がない。これは、『春秋』の日食記事の完璧さに比べて簡略な表示である。この簡略化は、年表記載欄のスペースの制限であろうが、「秦本紀」の日食も年号のみなので、戦国時代の原史料の粗末さを示す。

『史記』には月食の掩犯についての具体的な観測記録を欠く。『史記』天官書に、

月蝕歲星,其宿地,饑若亡。熒惑也亂,填星也下犯上,太白也彊國以戰敗,辰星也女亂。(食)〔蝕〕大角,主命者惡之;心,則為內賊亂也;列星,其宿地憂。

とあるから、月による歳星・熒惑ほかの掩犯について認識されており、老人星(カノープス)についても、天官書に記録があるから存在を知られていたことは確か。

直狼。狼比地有大星,曰南極老人。老人見,治安;不見,兵起。常以秋分時候之于南郊。


『史記』の表は、春秋時代を遡る紀元前八四一年から、太初暦が施行された、紀元前一〇一年までのあいだを、一年ごとに罫線をひいて年次を割り当てている。合注本では、その一部に年の干支が記載されているが、これは晋の秘書監であった徐広ら、後人の説を取り入れたもの。
しかし、ハレー彗星の記録によって、表の年次の割り振りに誤りがあることが判明している。

『漢書』のなかの天文記録

紀元前二〇六年から、王莽の地皇四(二三)年およぶ。
天文記事は、巻一~巻十二の帝紀と、巻九十九 王莽伝および列伝のなかにあるもの、また巻二十六 天文志、巻二十七 下の下の五行志にある。同一記事の重出もあり、内容にも精粗がある。
『史記』本紀には、前漢の天文記録を一部ふくむ。

高祖元(前二〇六)年、長安で即位した。王莽は始建国元(九)年に長安を都とした。始建国四(一三)年、洛陽を東都とし、長安を西都とした。前漢を通じて、天文の観測は長安であったと設定する。東経108.9度、北緯34.3度で検算する。

『漢書』の暦日は、太初元年の前年(前一〇五)までは、前年十月を歳初とし、当年九月を歳尾とした。したがって、前一〇五年までは、毎年の十月、十一月、十二月は、前年とみるべきであり、これは天文記事の検証によっても確かめられる。
董作賓『中国年暦簡譜』は、前年十月を正(せい)月、十一月を二月、十二月を三月、当年正(しょう)月を四月としている。混乱をまねく。当時の記事も、歳首を十月とするためで、「十月」と呼んでいる。
ただし、王莽の始建国元(九)年以降は、前年十二月を正月とし、以下はずらしている。

『漢書』の日食記事は、61例である。主として本紀(王莽伝に3例も)と、五行志第七 下の下に重複して現れる。志と紀の一方だけにあらわれるものもある。志だけに載るのは、10例、紀だけに載るのは6例で、残りの45例は両方に共通する。
相違もあり、志では「食」とし、紀では「蝕」とする。また志のほうが記述が詳しいことがある。
五行志下の下に、

凡漢著紀十二世,二百一十二年,日食五十三,朔十四,晦三十六,先晦一日三。

とある。ここで「日食五十三」は、五行志にのる食の数。五行志に載らないものが他に8例あり、合計は61である。これとは別に、『漢書』五行志には、春秋の(漢代以前の)日食37例をのせる。

『後漢書』のなかの天文記録

本紀十巻、列伝八十巻、劉宋の范曄撰、唐の李賢ら注。志は、晋の司馬彪の撰、梁の劉昭注。更始二(二四)年から、建安二十五(二二〇)年まで。
天文史料は、帝紀に点在し、律暦志・天文志・五行志に集中的に収められている。天文志はとくに『続漢志』から取られている。
一〇二二年、北宋の孫爽の建議により、『続漢志』が合綴(がってつ)されることになったという。紀と志とでは、重複する天文記事がおおい。

日食には、月食の3例が混入していた。後漢の首都は洛陽で、東経112.4度、北緯34.8度と設定する。

日食は88例であり、五行志と本紀に重出する。五行志のほうが記述が詳しく、「日在尾13度」のように、太陽の入宿度を示すのが常。日食記事が、暦算にもとづくことを暗示する。しかし、観測の裏づけも行われていたらしく、「史官不見、会稽以聞」などという記録がある。洛陽では見なかったが、郡国から実見報告を受けて記録したということ。このころ、予報と観測を合わせて行っていたらしい。

『三国志』のなかの天文記録

魏では王沈『魏書』、呉では韋昭『呉書』が官修された。私撰の魚豢『魏略』もあった。食は、陳寿が直接資料を採取したという。北宋の一〇〇三年に合綴(がってつ)され、あらためて『三国志』と称されるに至った。

『漢書』『後漢書』におけるような天文志という独立した巻はなく、天文記事は帝紀と列伝に混じる。数量も種類も見劣りがする。
『魏書』の天文記事は47例、『蜀書』は2例、『呉書』は4例で、ほとんど『魏書』に偏っている。共通の記事もあり、独立の記事と考えるなら、信憑性が高い資料である。

魏の明帝の青龍五年三月、景初元年とし、景初暦をもちい、三月をもって四月とし、一ヵ月ずらし、十二月を翌年正(せい)月としている。この制度は、景初三年十二月に廃止された。したがって、景初三年十二月は二回あることになり、あとの十二月は「後十二月」と呼んで区別し、翌年の正始元年正月につづけた。明帝紀に見える。
この一ヵ月のズレは天文記事にも影響する。

月星の掩犯と日食は、観測地点で見え方が異なる。観測地によって、月の視差(しさ)が異なるため。

視差は、二地点での観測地点の位置の違いにより、対象点が見える方向が異なること、または、その角度差。パララックス (英:parallax)ともいう。もっぱら、視差により距離を測定する、視差があることによる問題、という2つの観点から扱われる。視差を使えば、三角測量の原理で、対象点との距離を測定できる。

観測地は、洛陽を設定する。
時刻は、この地における地方平均時で示す。

地方平均時(local mean time)は、特定の経度における視太陽時の時間の変動を補正し、一様な時間間隔を刻むように調整された太陽時の一形態である。地方平均時は、19世紀の初めに時間帯が導入される以前に使用されていた。それ以降でも天文学や航法で使用されることがある

『蜀書』『呉書』に載せる天文記事は、それぞれの都で観測したと思しいが、月星の掩犯と日食の記事はふくまれていないから、月の視差の配慮は無用。

惑星現象については、『魏書』の日付が、『晋書』天文志で改訂されている例がある。唐の李淳風の『乙巳占』から、三国時代におきた三個の「月星の掩犯」をひろいだし、補遺をする。

日食は、すべて『魏書』にふくまれ、なぜか『蜀書』『呉書』に見あたらない。『三国志』の日食の的中率92%である。『春秋』の95%、『史記』の40%、『漢書』の69%、『後漢書』の74%と比較すると、的中率が高い。
『魏書』に載らず、『晋書』天文志にのる日食が7例ある。ところが、7例中6例は、検証の結果、洛陽で不食または地球上どこにも食がおこらない非食である。思うに、『三国志』編者は、日食が暦算により予報されることは知っていたが、実測された日食の記録にとどめ、不食は採用しなかったのだろう。『晋書』の編者は、三国時代の暦書をあさって、不食記事まで取り込んだのである。
『晋書』にのる不食記事のひとつ、太和六年正月朔の日食記事は、「呉暦に見ゆ」との注記があり、当時の呉国では、日食推算が行われていたことを示す。しかし、この日食は非食であり、『三国志』は賢明にもこれを載せていない。この態度は、日食記事にとどまらず、他の天象記事の信憑性を高めている。

『魏書』の日食記事には「食」と「蝕」が混用され、複数の出典を総合編集したことを暗示している。

『晋書』のなかの天文記録

天文志3巻、律暦志3巻、五行志3巻は、李淳風の手による。『三国志』に遡って収集が行われている。後続の『宋書』にもこの方針は受け継がれている。
晋の天文観測地は、西晋(二二一~三一六年)は洛陽、東晋(三一七~四二〇年)は建康と設定する。建康は、東経118.8度、北緯32.0度。時刻はそれぞれの土地の地方平均時(LMT、local mean time)をもちいる。

『晋書』の天文記事は、それ以前の史書に比べて格段に分量が多くなる。観測と記録とが充実し、分類も細分化されている。

日食記事は82例、大部分は「天文志中」の「天変」条にまとめられている。べつに帝紀にも散見する。これは、『漢書』『後漢書』において、日食を五行志に、一部を本紀に収めているのに比べて、分類の方針を異にするようである。

日食を、五行志から外して、天文志のなかに取り込んでいるところが異なる。


東晋の『晋書』にいたって、はじめて老人星の記録が三つ現れる。観測地を建康とすると、老人星は南中時に5.5度の高度となる。華北にくらべ、見やすくなった。

『宋書』のなかの天文記録

『宋書』は巻百巻、内訳は本紀十巻、志三十巻、列伝六十巻からなる。梁の沈約(四四一~五一三年)の撰という。
宋は八代つづき、順帝の昇明三(四七九)年、南斉に滅ぼされた。

『宋書』の天文志4巻、律暦志3巻は、天文家の何承天の編写になるという。

何 承天(か しょうてん、370年 – 447年)は、中国南北朝の思想家・数学者・天文学者。本貫は東海郡郯県。東晋、ついで南朝宋に仕えた。5歳で父を失ったが、母の徐氏は聡明博学で、儒学・史学など諸子百家を学んだ。
439年、南朝宋の文帝の命により、著作佐郎となり南朝宋の歴史書である『国史』の編纂を始めた。ついで太子率更令に転じた。443年(元嘉22年)、従来用いられていた景初暦のズレを指摘し、新たに元嘉暦を編纂した。元嘉暦は445年から509年まで用いられた。1月の長さを計算する方法として調日法 (zh) を創始した。円周率の研究を行い、その値を、 3.14288… とした。
『国史』は未完成のまま死去した。山謙之・蘇宝生・徐爰らによって編纂が進められ、464年完成した。正史『宋書』は、同書を参考に作られた。『宋書』巻64(列伝第24)。

天文志記事は、本紀に散見するが、おもに天文志・五行志に集中して収められている。それらは、三国・晋代にさかのぼる。しかし、天文志四は、四二〇年以降の天文記録を収めており、これは『宋書』独特のもので、『晋書』にない。

天文志三までは、重複するということ。


『宋書』に載る日食記事は83例、そのうち三国・晋代と重複するもは1~66まで。両者のあいだには、文に相違がある。
前半は西晋の記録であるから洛陽での観測であろうが、後半は建康の記録する。それぞれの都城で視たものとして検算すると、日食的中率は72%である。

『魏書』のなかの天文記録

『魏書』は、全130巻、本紀12巻、列伝98巻、志20巻よりなる。北斉の魏収の撰。
西燕は内乱を起こし、拓跋珪は盛楽に徙居して、国号を魏とし、改元して登国元(三八六)年とし、魏の道武帝と称した。…

日中雑象、夜中雑象が他書にくらべて断然におおい。この時代には、日暈(にちうん)などの天変が五行志で重視されたからであろう。

日暈は、太陽を光源としてその周囲に生じる光の輪。太陽の暈(かさ)。ひがさ。
暈(かさ、halo、英語読み:ヘイロー)とは、太陽や月に薄い雲がかかった際にその周囲に光の輪が現れる大気光学現象のことである。特に太陽の周りに現れたものは日暈(ひがさ、にちうん)、月の周りに現れたものは月暈(つきがさ、げつうん)という。虹のようにも見えることから白虹(はっこう、しろにじ)ともいう。

いままでの史書には消極的に記載されていた月食が、『魏書』天象志のなかでは、突然、多量に記載されているのも特徴的である。『魏書』天象志巻二は、月食記事を58例のせるが、これだけ多量の月食記事を一緒に収めた例は、これ以前の史書には内。月食の的中率は93%で、日食の67%にくらべて高い。『魏書』以降は、月食も天変のひとつとして、各書の天文志に載るようになった。210124

『晋書』天文志中は、「月變」の項目がある。「孝懷帝永嘉五年三月壬申丙夜,月蝕,既」の部分。

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古代の天文記録を読むための予備知識

斉藤国治・小沢賢二『中国古代の天文記録の検証』(雄山閣出版、一九九二年)より、序章 本書を読まれる前の予備知識。
正史等に見える天体現象は、今日の天文学でいう、何に対応するか。

天文記事の分類

①日食、②月食、③月星の掩犯(史書によっては、月と惑星との掩犯と、月と恒星との掩犯を区別する)、④惑星現象(惑星の犯合、逆行、停留など。惑星同士の犯合と、惑星と恒星との犯合を区別する場合もある)

月・惑星・恒星が、登場人物。

⑤星昼見(また経天)という。⑥老人星、⑦彗孛(すいはい)(客星をふくむ、ハレー彗星を特に扱う)、⑧流隕(枉矢(おうし)、天狗(てんこう)などをふくむ)、⑨雑象(日中黒子、日月薄食、白虹、日暈・月暈、赤気、天鼓をふくむ)

①日食

『春秋』経伝で、はじめて組織的にみえる。『呂氏春秋』によれば、宋の景公の時代(前480)、すでに、「司星(しせい)」なる司天官がいた。
『漢書』律暦志があり、『春秋』以降に蓄積された、天文観測データを整約し、惑星の運行や、日・月食の推算が行われている。

推算:数量を、推定によって計算すること。推計。「デモの参加者を推算する」


日食に周期があるらしいことは、前4世紀ごろにカルデア人によって発見され、Saros(サロス)(周期の意)と呼ぶ。中国では、サロスとはべつに、3986日の食周期を知っていたという。渡辺敏夫『日本・朝鮮・中国―日食月食宝典』(雄山閣、1979年)がある。

古代中国で日食推算をしたが、誤った。第1の原因は、日月の経度方向の誤差。

日月黄経合の正確な時刻がわからなかった。
合(ごう、英語:conjunction)とは位置天文学や占星術において、二つの天体がある観測点(通常は地球)から見てほぼ同じ位置にある状態を指す言葉である。

予報しても、地球の裏側でおきたりした(夜日食)。
第2の原因は、緯度方向の誤差によるもので、南半球でおきた日食で、中国からみると、視差の関係で日月が離れてしまい、食とならない(不食)。
その他、まったく誤算であり、地球上のどこでも起きない(非食)。
日食理論の初歩的知識からすれば、地球からみた日月の中心間隔が1.5度離れていると、地球上どこにも日食が起きない(非食)。間隔が1.5度以下のとき、個別に計算しないと、食・不食(南半球での日食)の判別が簡単にできない。古代は、その事情が分からなかった。

『漢書』武帝紀に実見したかのような記録があるが(掲載する例は、五行志第七下之下の誤りか)、おおくは、年月日のみ。これは、実測されたか、推算されたか分からない。日食記録のなかには、推算記録がかなり含まれることが、検証によって明らかになった。
歴代の日食は、およそ70%以下の的中率。『春秋』と『三国志』が的中率が高いのは、観測記録であることを示す。

②月食

天文記録が少ない。暦家が熱心に観測し、朔望月の詳細な値をもとめた。

朔(新月)から次の朔(新月)までのように、月の満ち欠け(月の位相)が一周する周期。地球と月の公転が楕円運動であるため。この周期は年間を通してわずかに変化する。そこで、年間を通じた平均を朔望月とする。その長さは29.530589日である。


日食も月食も、発生原理は同じ。中国独特の食周期、135朔望月の発見は、日食よりも現象が簡単な、月食研究からなされたかも知れない。日食は、観測者が地球のどこにいるかによって食の見え方が異なるが、月食は地球上のどこから視ても同じように見える。月食の見え方は、月の視差に関係しないから。

太陽・月・地球が一直線に並んだ場合でも、月の直径は地球の約4分の1しかなく、月が落とす影は地球よりもずっと小さいので、日食は地球上の限られた場所でしか見ることができない。だから日食は非常にめずらしい現象として、大きな話題となるのかもしれません。 月食の場合は月食の起こる時間に月の見える場所であれば、どこでも見ることができます。
https://global.canon/ja/technology/kids/mystery/m_01_10.html

暦算家にとって、月食はすでに「管理可能な天象」であり、漢代において観測データ集ともいえる天文志から、月食の記録は外されて、推算の資料として暦家の手にわたされた。月食は十分に研究され、その結果が律暦志に載った。

月が地平線下にあっておきる月食も、推算のうえで月食と記録されている。「昼月食」といわれる。中国が昼の時間、地球の裏側で見られる月食である。月食は、日食よりも的中率が高い。

③月の掩犯

月は、1恒星月(27.3日)で天球を一周する。

恒星月は、月が恒星天に対して地球の周囲を1周するのに要する時間で,27日7時 43分 12秒
恒星天は、古代ギリシアの天文学者プトレマイオスの想像した宇宙において、地球を中心とした七つの同心円の外側にあり、恒星が固定しているとされた天球。

月は、その途中で、行路にある恒星・惑星を掩い隠すことがあり、これを「星食」または「掩食」という。掩犯の観測記録は、『漢書』天文志に初めてあらわれる。しかし、その知識は、『史記』天官書にみえ、現象の種類に応じ、災害を地上にもたらすという。
星が月の裏側に隠れるのは「掩食」であるが、隠れるのではなく、月のふちのすぐ外側を通過する現象は、接近の度合いに応じて、「犯」「合」と区別して呼ばれる。『漢書』天文志によると、星が月の外縁の外7寸(0.7度)以内に接近すると、「犯」であり、それよりは離れた、ゆるい接近は「合」である。
検算すると、7寸(0.7度)は厳密に守られていない。恒星になると、5度~6度ほどのゆるい接近でも、「犯」とする。これらは、むしろ、「同舎」と呼ぶべきこと。

同舎:同じ建物に住み、または宿泊すること。また、その建物。

1尺は、角度にいう1度。1寸は、0.1度。1分は、0.01度にほぼ等しい。ほかに、「間容一指」が散見するが、成人が片腕をのばして指を視たときの幅。1度に近い。
月星の掩犯は、当時は推算できなかったから、すべて観測されたデータ。的中率が高い。

④惑星現象

木(歳星)、火(熒惑)、土(填(てん)星・鎮(ちん)星)、金(太白)、水(辰星)とよばれ、その運行については、
『淮南子』天文訓にひく「甘氏星経」、『漢書』律暦志の「五歩」の術、『開元占経』にひく「石氏星経」などにみえる。
1781年、天王星が発見され、五行説の根幹がゆらぎ、迷信においやられた。

地球軌道の内側を公転する、水星・金星は「内惑星」とよばれ、外側を公転する、火星・木星・土星は、「外惑星」とよばれる。
内惑星が地球に最接近するとき(内惑星と太陽の黄経値が等しくなる)を、

黄道座標は、天球上の天体の位置を表すための天球座標系の一種で、黄道を基準とする座標系である。黄道座標では、天球上の緯度と経度にあたるものとして黄緯(こうい、ecliptic latitude: β)と黄経(こうけい、ecliptic longitude: λ)を使用する。 要学習。

「内合」とよび、もっとも遠いときを「外合」という。 外惑星が、太陽と黄経差180度になるときを「衝」という。このとき地球にもっとも近い。太陽と黄経が一致するときを「合」という。このとき地球からもっとも遠い。
「合」のとき(内合でも外合でも)、惑星は太陽と重なるから、その前後の数日は、これを見ることが困難になる。これを、「伏」とよんだ。

惑星は、平常時は、天球のうえを順行(東進)しているが、内合または衝の前後には、逆行(西進)して見えるじきがある。順行から逆行へ、逆行から順行にうつるとき、惑星の運動は緩慢となり、停留する。これを、「守」または「留守」という。
地球からみて、外惑星が太陽と直角方向にあるときを「矩」といい…、終夜観望できる。
『晋書』天文志中に、

凡五星見伏、留行、逆順、遲速,應曆度者,為得其行,政合于常;違曆錯度,而失路盈縮者,為亂行。亂行則為天矢彗孛,而有亡國革政,兵饑喪亂之禍云。

凡そ五星の伏・留行・逆順・遲速を見はして、曆度に應ずる者は、其の行を得たりと為し、政 常に合ふ。曆に違ひ度を錯(みだ)し、而して路を盈縮(えいしゅく)に失ふ者は、行を亂すと為す。亂行すれば則ち天矢彗孛を為し、而して亡國の革政有り、兵饑喪亂の禍なると云ふ。

「伏・留行・逆順・遲速」の部分が、ここで得た知識で判明する、惑星の動き。


五歩の術により、一般的な運行は推算できたが、惑星同士の犯合、惑星と恒星の犯合は予知できなかった。したがって、記録にあるのは、すべて観測にもとづくもの。的中率 90%と、高いのはそのため。

⑤星昼見

金星は、日月についで全天で3番目に明るい天体。宵の明星(長庚(ちょうこう))、暁の明星(啓明(けいめい))として知られている。
…終日、昼見した場合は、とくに「経天」といった。五行説によれば、太白昼見は、「兵革の兆」とされる。
星昼見とあるのは、ほとんど金星である。なかには、歳星または熒惑が昼見した記事がわずかにある。星昼見も、推算はできても、的中率が高いことから、観測の裏づけがあった。

⑥老人星

はぶく。

⑦彗孛(客星)

水星は、一方向に尾を出す星のこと。孛星とは、「芒気四出」する星のこと。
『晋書』天文志中に、

孛星、彗之屬也。偏指曰彗,芒氣四出曰孛。……災甚於彗。

孛星は、彗の屬なり。偏指(へんし)なるは彗と曰ひ、芒氣 四出するを孛と曰ふ。……災甚於彗。 とある。水星のほうが、孛星よりも、災害がはなはだしいとされた。
「客星」という用語があり、ある星宿に突然侵入してきたか、そこに出現した見慣れない星のこと。客星とは、彗孛か新星(nova)のどちらか。超新星(supernova)と特記されるものもある。

彗孛には、さまざまな呼称がある。蚩尤旗は、彗星の尾の先端が屈節して、風にはためく軍旗のように見える。

蚩尤は、中国神話に登場する神である。『路史』では姓は姜で炎帝神農氏の子孫であるとされる。 獣身で銅の頭に鉄の額を持つという。

『晋書』天文志中は、妖星を21あげる。

⑧流隕

現代天文学によれば、流星とは、彗星が軌道上にバラまいた比重0.2ほどの氷結微粒子のこと。隕石とは、比重が3~4の小惑星の片割れ、すなわち岩石。どちらも大気に突入して発光する。
流星は、「天使」「貴使」とよばれた。隕石のなかで大きなものは、「天狗(てんこう)」とよばれたが、これは現代にいう火球のこと。

隕石にうちには、空中を飛ぶときに、音響を発するものがあり、「声の雷が如き有り」と記録される。空中で分裂四散するもの、長く流痕を残すものなど、リアルな記述もある。
『春秋』に、「星 雨の如く隕(お)つ」とあり、これは流星雨。微粒子の集団が、相次いで大気に突入して発光したときに見かける。流星雨のなかには、母彗星から放出され、母彗星と同じ軌道をまわる流星軍団がある。こと座流星群など。

⑨雑象

「日月薄蝕」は、黄砂が天空に舞い上がって、昼は日の光をうばい、夜は月を赤黒くみえる現象。日食・月食とことなり、朔望にかぎらないので、区別できる。
「日暈(にちうん)」は、太陽をとりまいてみえる光暈で、半径は22度どほの円形。「日珥(にちじ)」は、日暈に外接する、半欠けの光暈のこと。いずれも、気象光学現象。同様の原因で、夜間に「月暈(げつうん)」がある。
「白虹」は、太陽面を貫くときは、「白虹貫日」といって、もっとも凶兆とされる。『史記』の荊軻(けいか)の話は有名。

暈(かさ、halo、英語読み:ヘイロー)とは、太陽や月に薄い雲がかかった際にその周囲に光の輪が現れる大気光学現象のことである。虹のようにも見えることから白虹(はっこう、しろにじ)ともいう。


「天鼓」は、雷鳴や火山の爆発によるものか。「天狗」(有声隕石)が、白昼に飛翔して音響だけを聞いたものも、かなり含むだろう。
「赤気」「白気」は、極光(オーロラ)の記録を含むとされる。

引用者によるまとめ

正史の記述を実際の天体現象と比較したとき、精度が低いものは、古代において(精度の低い)推算が行われ、その推算が史書に記録されたもの(日食)。古代における推算が十分に管理可能であれば、天文志に記されなかった(月食)。古代において推算できないとされる現象は、観測によって記録され、正史の精度は高い。(惑星の動きと掩犯)。大気圏の現象も、天文記録に含められた(現代の天文学では追検証が困難)。210127

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『晋書』巻十二 天文志中 七曜

『晋書』巻十二 天文志中 七曜

日為太陽之精、主生養・恩德、人君之象也。人君有瑕、必露其慝以告示焉。故日月行有道之國則光明、人君吉昌、百姓安寧。人君乘土而王、其政太平、則日五色無主。日變色、有軍、軍破。無軍、喪侯王。其君無德、其臣亂國、則日赤無光。日失色、所臨之國不昌。日晝昏、行人無影、到暮不止者、上刑急、下不聊生、不出一年有大水。日晝昏、烏鳥羣鳴、國失政。日中烏見、主不明、為政亂。國有白衣會、將軍出、旌旗舉。日中有黑子・黑氣・黑雲、乍三乍五、臣廢其主。日蝕、陰侵陽、臣掩君之象、有亡國。

日は太陽の精為(な)り、生養・恩德を主り、人君の象なり。人君 瑕有らば、必ず其の慝を露(あらは)して以て告示す。故に日月 有道の國に行くときは則ち光明なり、人君は吉昌にして、百姓は安寧なり。人君 土に乘じて王たり、其の政は太平ならば、則ち日は五色にして無主なり。日 色を變ずれば、軍有れば、軍 破る。軍無ければ、侯王を喪ふ。其の君 無德ならば、其の臣 國を亂し、則ち日 赤にして光無し。日 色を失へば、臨む所の國 昌ならず。日 晝に昏ければ、行人 影無く、暮に到りて止まらざる者は、上の刑は急にして、下は生を聊(やすん)ぜず、一年を出でず大水有り。日 晝に昏く、烏鳥 羣鳴すれば、國 政を失ふ。日中に烏 見(あらは)るれば、主 明ならず、政亂と為る。國に白衣の會有らば、將軍 出で、旌旗 舉ぐ。日中に黑子・黑氣・黑雲有らば、乍三乍五なるは、臣 其の主を廢す。日蝕は、陰 陽を侵し、臣 君を掩ふの象、亡國有り。

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