読書 > 柿沼陽平『中国古代貨幣経済の持続と転換』を読む

全章
開閉

後漢末の戸調制p150-154より

後漢末に布帛租税化計画が実行に移された論拠に、先学は三史料をあげる。

◆史料A 『陳志』武帝紀 建安九年

九月,令曰:「河北罹袁氏之難,其令無出今年租賦!」重豪彊兼并之法,百姓喜悅。

九月、令に曰く、「河北は袁氏の難に罹れば、其れ令して今年の租賦を出だす無し」と。豪彊兼并の法を重んじ、百姓 喜悅す。

引用者メモ:河北は袁氏の被害があるため、今年の「租賦」が免除された。


◆史料B 同注引『魏書』に引く公令

有國、有家者,不患寡而患不均,不患貧而患不安。袁氏之治也,使豪彊擅恣,親戚兼并;下民貧弱,代出租賦,衒鬻家財,不足應命;審配宗族,至乃藏匿罪人,為逋逃主。欲望百姓親附,甲兵彊盛,豈可得邪!其收田租畝四升,戶出絹二匹、綿二斤而已,他不得擅興發。

國を有ち、家を有つ者は、寡なきを患えずして均しからざるを患い、貧しきを患えずして安からざるを患う。袁氏の治たるや、豪彊をして擅恣し、親戚をして兼并せしむ。下民は貧弱にして、代わりて租賦を出だし、家財を衒鬻(売却)するも、命に應(こた)うるに足らず。審配の宗族は,乃ち罪人を藏匿し,逋逃の主と為るに至る。百姓の親附し、甲兵の彊盛たるを欲望するも、豈に得べけんや。其れ田租を收むること畝ごとに四升とし、戶ごちに絹二匹・綿(きぬわた)二斤を出さしむるのみ。他は擅(ほしいまま)に興發するを得ず。

引用者メモ:袁紹は、豪強に財産が集中するのを放任した。下民は貧窮し、豪強の代わりに租賦を負担させられ、納税のために家財を売却したが、なお支払うべき租賦には足りなかった。負担する者を、均等にして、下民の家も安泰となるようにした。


◆史料C 『晋書』食貨志

及初平袁氏,以定鄴都,令收田租畝粟四升,戶絹二匹而綿二斤,餘皆不得擅興,藏強賦弱。

初めて袁氏を平らげ、以て鄴都を定むるに及び、令して田租を收むること畝ごとに粟四升、戶ごとに絹二匹・綿二斤、餘は皆な擅に興し、強に藏し弱に賦するを得ざらしむ。

引用者メモ:豪強が蓄財し、弱民にだけ課税することを不可能とした。


A・B・Cは、絹織物を収取する税制の成立を示す。先学が詳論するように、絹・布・縑の産地には違いがある。全地域に一律に「絹二匹・綿二斤」を課せない。現実的には、麻織物の産地には、所定の絹織物と同額相当の麻織物を課税(折納)していた。

佐藤武敏『中国古代絹織物史研究』

絹織物に限らず、布帛全般を対象とした税制。

Aは、建安九年。Bは、文中に審配が見え、彼を滅ぼした建安九年と見てよい。Cも、袁氏党閥直後のもの。すべて同一年度の命令。
内容を見ると、相互に異なる。史料Aは、租賦をまったく課さないという。B・Cは、「田租 畝ごとに四升(斗)、戸ごとに絹二匹・綿二斤を出す」とあって、課している。
佐藤氏は、Bが最初に出され、のちに河北(もと袁紹領)に限って、Aで無課税にしたと推測している。けだし整合的。
建安九年、すでに河北で、絹・綿を対象とした税制があった。

先学は、つぎの三つにも言及する。
吉田虎雄『魏晋南北朝租税の研究』

◆史料D『三国志』何夔伝

是時太祖始制新科下州郡,又收租稅綿絹。夔……乃上言曰:「……所領六縣,疆域初定,加以饑饉,若一切齊以科禁,恐或有不從教者。……愚以為此郡宜依遠域新邦之典,其民間小事,使長吏臨時隨宜,……比及三年,民安其業,然後齊之以法,則無所不至矣。」太祖從其言。

是の時、太祖 始めて新科を制して州郡に下し、又 租を收め綿絹を稅す。[何]夔……乃ち上言して曰く、「……領する所の六縣[長広郡の長広県など]の疆域は初めて定まり,加ふるに饑饉を以てす。若し一切 齊(ととの)ふるに科禁を以てせば、恐らく或いは教に從はざる者有らん。……愚 以為へらく、此の郡、宜しく遠域・新邦の典に依らしむべし。其の民間の小事は、長吏をして時に臨みて宜しきに隨はしめ……、三年に及ぶ比(ころあ)い、民、其の業に安ぜん。然る後に之を齊ふるに法を以てせば、則ち至らざる所無からん」と。太祖 其の言に從ふ。

何夔は、長広郡の六県に、通常の「租を収め綿絹を税す」とは異なり、「遠域・新邦」の特例を三年間、適用してもらえるように請願した。


◆史料E『三国志』趙儼伝

時袁紹舉兵南侵,遣使招誘豫州諸郡,諸郡多受其命。惟陽安郡不動,而都尉李通急錄戶調。儼見通曰:「方今天下未集,諸郡並叛,懷附者復收其綿絹,……小緩調。

時に袁紹、兵を舉げて南侵し、使を遣はして豫州の諸郡を招誘せしめ、諸郡は多く其の命を受く。惟だ陽安郡のみ動かず。而るに都尉李通、急ぎて戶調を錄す。[趙]儼、通に見えて曰く、「方今、天下 未だ集(やす)んぜず、諸郡 並びに叛し、懷附する者 復た其の綿絹を收む。……小(すこ)しく調を緩むべし」と。

◆史料F『三国志』曹洪伝 注引『魏略』

初,太祖為司空時,以己率下,每歲發調,使本縣(平)〔評〕貲。

初め、太祖 司空と為るの時、己を以て下を率ゐ、歳ごとに調を發し、本縣をして貲を評せしむ。

いずれも、曹操による布帛課税に関するもの。
史料Dは、建安三~四年。史料Eは袁紹が南下した建安二年頃、史料Fは建安元年ごろ。渡邊信一郎氏は、建安元年頃から税制が再編され、田租・更賦を中心とする漢代税役体系が、「公令=戸調制」に統一化されたとする。

渡邊信一郎「戸調制の成立-賦斂から戸調へ」(『中国古代の財政と国家』)。西晋戸調制について、県段階における直接的収取と、それら収取物を基礎として郡国単位に中央へと貢納する二層があるとする。県段階では、農民各戸の家産評価額に基づく九等級の累進課税がなされ、そのなかから中央政府財源が委輸されたとする。


曹魏の織物課税は、「戸調」だけと限らない。
『後漢紀』質帝紀 本初元年条によれば、後漢にはすでに「調」があった。加えて、「熟田」には穀物とともに布(田租としての布、つまり租布)も課された。よって、後漢末の曹操政権にも、「戸調」以外に、「租布」があった可能性がある。
とはいえ、ささいな修正点に過ぎない。

先学は「公令=戸調」とし、史料D・史料Fにみえる絹織物収取をすべて「公令」(史料B)によるものとする。だが、史料D・E・Fによると「税綿絹」は遅くとも建安初年にあったが、曹操は、「それを占領地などに一律に課すべきでない」という何夔の案に従っている。
その結果、制定されたのが史料B「公令」で、さらに改めたのが史料A「令」である。
よって占領地(旧袁紹領)の鄴で、建安九年に発布された史料A・Bは、占領地向けの臨時の令と解され、基本的布帛税制は、史料A・Bと別の可能性が高い。
史料Dによると、「遠域・新邦の典」による臨時の令は、基本的税制より軽減すべきものなので、基本的布帛税制は、建安九年の「公令」「令」より重かったと推測される。

袁紹勢力を駆逐した同年から、同地に「公令」を適用している以上、以前から袁紹勢力下でも、布帛納税制が布かれていた可能性がたか。さもないと、戦災被害が癒える間もなく、納税手段が銭から布帛に急遽変更されたことになり、現実的でないから。
戸調制を開始したのが、必ずしも曹操とは限らぬ。

唐長孺「魏晋戸調制及其演変」によると、名詞「調」は、本来「調度・調発」の意味で、漢代に遡る。賦銭(軍事費支出のための徴収)や田租・塩鉄業収入などを含意する。
「調」の額面や徴収対象は本来定まらず、後漢明帝期には毎年徴収される形になった。しっかも算賦を綿絹で折納する例も、後漢に遡る。
あらためて「調」を固定化・普遍化し、綿・絹を軸にすえたのが曹操である。類似の税制が、袁紹の勢力下で起きていたとしても、不思議ではない。

ともあれ、布帛税制は、後漢末に定制化。
西晋武帝が制定した戸調制(原則として戸ごとに絹三匹・綿三斤を収取する西晋戸調制)に継受された。なぜ魏晋期に布帛税制が主軸となりえたか。漢代から晋代にかけて、布帛の生産増加が背景にあったから。180603

「戸」単位課税の立案意図は、
①戦乱により、人民流亡・田土荒廃し、人口調査・土地調査が困難となったため、把握しやすい戸を対象とした。
②国家が豪族の台頭を防ぎ、農民を吸収するため、比較的緩やかな戸単位の把握をした。
③布帛は細かく裁断して収められない(から、戸単位にまとめる)
④郷里社会が階層化し、戸ごとに不均等の課税制とし、格差に対応した
⑤農戸の男耕女織を前提とし、それを課税対象とした
+戸単位の生産基盤の再建をはかった。

戸調を銭でなく布帛で納付させる立案意図は、
①貨幣流通の衰退、現物経済の進展にあわせるため
②小農民の非生産物(銭)でなく、生産物(布帛)に課税し、布帛の通貨的機能を推進し、金属貨幣を廃止することで、小農民の没落にはどめをかけ、商人階層の市場における優位性を抑止しようとした。藤元光彦「『戸調』の成立をめぐって-特に貨幣経済との関連を中心に-」(『立正史学』第六一号、一九八七)
③地着勧農政策のもと、戦乱で流亡した民を地着させて生産の場を再建すべく、桑などの栽培を強制して民を土地に縛りつけた_180603

閉じる

曹魏における五銖銭の流通p155-160

曹魏のとき、漢代以来の五銖銭がどうなったのか。前漢においては、布帛の租税化は、「交易は銭を待ち、布帛は尺寸に分裂すべからず」との理由で棄却された。しかし後漢末は、布帛の重要性が高まり、銭は急速に信用を失ったごとく。

『太平御覧』巻八一七 所引「魏文帝詔」(『全三国文』の校訂に従う)には、
今、孫驃騎[孫権]と和通し、商旅は当に日月[じつげつ、毎日・毎月]にして至るべし。而るに百賈は利を偸み、賎(やす)きを喜び、其の物の平価には又た其の絹を与ふ。故に官は逆(あらかじ)め平准を為すのみ。官は豈に此の物の輩を少なくせんや。

「驃騎」の呼称から、黄初元年~黄初二年十一月の詔。
曹魏と孫呉との国家和平に伴い、商賈の往来が盛んとなった。彼らが、絹織物を両国の経済的流通手段としていたことを物語る。
絹織物が、民間で貨幣として広く受領されていた実態をしめす。

一方、後漢末の中原地方は、戦乱にあい、五銖銭の流通に支障がでていた。ただし、一部地域をのぞき、五銖銭の民間市場における流通が完全停止していたとは考えにくい。
董卓は洛陽・長安で、小銭を発行した。『後漢書』董卓伝。これが、全国の群雄(袁紹・袁術・曹操など)に、広範かつ円滑に行き渡ったとは思えない。

後漢末には、布帛の租税化がすすむ一方、銭の信頼性は低下。
文帝は、黄初二年三月、五銖銭を「復」した。胡三省注は、「董卓が五銖銭を壊し、曹丕がこれを復した」と解説している。
『史記』六国年表 秦始皇二十六年の乱の「復た銭を行す」と同じ用法。

これ以前も、曹魏領内で五銖銭を用いた例がある。五銖銭の流通停止状態からの復活ではない。既存の五銖銭の、流通強化!である。
『後漢書』献帝紀 興平元年条に、長安で穀が一斛ごとに五十万、豆麦は一斛ごとに二十万とあるように、銭による価値表示がされている。
『古文苑』巻十 所引「与太尉楊彪書」に、曹操から楊彪に、銭六十万などを贈ったときの文が見える。これは、二一九年に楊脩を処刑した曹操が、遺憾の意を示したもの。後漢末の銭の流通を示す。柿沼p172

『晋書』食貨志に、曹操が五銖銭を鋳造したが少なかったので、穀物が安かった(銭が高かった)とある。柿沼p172に訓読あり。
『通典』食貨志八 銭幣上にも、曹操が五銖銭を復活させたかのような記述がある。
曹操五銖課題組は、曹操が丞相就任時、五銖銭を復活させたと理解する。蜀漢の直百体制・孫呉の大泉体制と対比している。
だが考古学的には、漢代五銖銭と曹魏銭は弁別が不可能。蜀漢の直百五銖銭は、五銖銭の存在を前提とし、孫呉も五銖銭は流通していた。
西嶋定生『晋書食貨志訳注』にあるように、曹操の丞相就任時に五銖銭が「復」されたら、『三国志』文帝紀 黄初二年の「初めて復す」と矛盾する。
『晋書』食貨志・『通典』食貨八は誤りだろう。
五銖銭は、後漢末以来、流通し続けていたけれども、丞相就任時、新たに鋳造されたり、国家的決済手段として復活したと見られない。

しかし(文帝の鋳造に拘わらず)銭は信用を取り戻さず、穀価の高騰を招来し、黄初二年十月に「罷」められている。

穀物の価格高騰は、銭の信用が足りなかったからと言えるのか。曹丕の増鋳以前、五銖銭があった。さらに鋳造したことで、銭の流通量が増えて、穀物価格が上がっただけではないのか。


『三国志』文帝紀 黄初二年十月に、穀物が高いから、五銖銭を罷めたとある。『通鑑』は、同年八月~十月に、同じ文を置く。胡三省注は、「復すこと幾何(いくばく)もなくして罷む」とある。
『晋書』食貨志は、黄初二年、「始めて五銖銭を罷む」とし、百姓に穀帛を以て市(あきな)いをさせた、明帝期、銭が廃せられて穀を用いること、既に久しとある。

文帝が五銖銭を罷めた理由はなにか。西嶋定生氏の論ずるとおり、穀物価格の騰貴。全漢昇は、①戦乱による経済混乱、②人口激減、③青銅供給量の減少、④仏像建立による青銅消費量の増加をあげる。
これに加え、五銖銭反対派(後掲『申鑑』時事)が、当時の朝廷で優越していた可能性がある。

五銖銭は、明帝の太和元年四月、再び「行」銭化される。
明帝紀 太和元年四月。この鋳銭を疑う説もあり、鋳造分量を少なく見積もる説もあるが、のちに西晋の魯褒『銭神論』があるように、明帝から西晋まで、相当量が鋳造されたと見るのが穏当である。

なぜ明帝は再び「行」したか。まず確認すべきは、五銖銭復活後も、主たる納税手段とならず、布帛納の戸調制が維持されたこと。
これは、漢代五銖銭が、国家的決済手段として機能し、それゆえに国家に流通を後押しされ、民間の信頼を得ていたことと異なる。
魏晋五銖銭は、まったく別の存在意義(非国家的決済手段)を有していたことを意味する。
これは、五銖銭復活を上奏した司馬芝が、その一方で戸調制の基礎たる男耕女織を重視した大司農であったことから窺える。『三国志』司馬芝伝、『宋書』孔琳之伝。すなわち司馬芝は、戸調制継続と五銖銭復活を、矛盾すると捉えておらず、布帛と五銖銭が、別個に併存しうるとみていた。

布帛と五銖銭の違いは何か。『宋書』孔琳之伝に、東晋末、桓玄が提案した廃銭案に対し、孔琳之が反論した経緯を記している。
魏晋期の布帛・穀物は、民間の経済的流通手段として機能しており、それが(布帛・穀物の)偽造者の増加を招き、「毀敗の費」「運置の苦」を招来し、「民に不便」と判断され、かくして五銖銭が魏明帝に復活されたという。
これは、漢代五銖銭が国家的決済手段としての存在意義を主軸としたのに対して、魏晋五銖銭が、経済的流通手段としての利便性に基づき、民間の意向をくんで再建された幣制であったこと。したがって、両者には質的変化があったことを示している。
孔琳之が、銭の流通を主張するための政治的言説であったかも知れないが、五銖銭と布帛が、機能的差異を有していたことは確か。

荀悦『申鑑』時事は、献帝奉戴後の曹操政権で、五銖銭に関する質疑応答が見える。周囲の疑問に対し、荀悦が回答するという形をとった架空の問答集。
初平元年以後、『申鑑』成立の建安十年までの上京。これを踏まえ、五銖銭の鋳造再開に着手した。黄啓治『申鑑注校補』。
荀悦は鋳造再開を主張。①反対者は、①銭不足の地方に吸収されて滞留し、中央に還元されない。②遠方の者が中央の有益な商品を買いあさり、中原の物資不足を招くと。
賛成派の荀悦は、穀物と牛馬を確保したうえで、ほかの商品は遠方と貿易させるがままとし、適宜、銭の増鋳を行うべきとする。
五銖銭の鋳造自体も、市場で自由に流通させ、銭の名目重量によけいな改変は加えるべきでないとする。そのなかで、荀悦は五銖銭を「実(まこと)に事用に便」で「民の楽しむ所」とする点は、五銖銭が、すでに利便性の高い民間の経済的流通手段として定着しつつあった実情を裏付ける。180603

読みながら考えたこと

魏文帝の黄初二年、五銖銭の鋳造を再開したが、穀物が高くなったので中止したと、史料にあります。五銖銭=ゼニ(使用価値がない)、布帛・穀物=モノ(使用価値があり、衣食につかえる)と区別して考えると、ぼくらは、イメージを作り損ねます。
後漢~三国において、五銖銭・穀物・布帛がいずれも通貨です。これを、ゼニとモノで区別して認識すると、ぼくら混乱します。じゃあ、ドルと円のように、複数のゼニの種類に準えたら、理解しやすいのではないか。

後漢の五銖銭=日本円の万札とする。
日本国は万札を発行し、万札が市場で流通、納税も万札で受け入れていた。つまり、後漢が五銖銭を発行し、五銖銭が市場で流通し、納税も五銖銭で受け入れていた。うん、ここまではシンプルな話。
あるとき、日本の国土がトラブり、蓄えられた万札が燃え、発行する機関が壊れ、万札が不足したとする。臨時で片面印刷の万札を発行した(董卓の小銭)が、その万札を「信用できない」といって、受けとる人が少ない。
すると為替市場で、日本円の価値が暴落した。現在の1ドル100円から、1ドル300円になったとする。海外旅行客は、従来の3分の1で買い物ができるので、ドルを落としていった。国内には、海外旅行客が落としていった、ドル紙幣があふれた。

日本政府は、流通枚数が不足して国際的に信用の落ちた日本円でなく、ドルで納税せよと定めた。今まで納税額が、30,000円のひとだったら、「30,000円」を払うのではなくて、「100ドル」を払いなさいと。「30,000円」を持ってきても、政府は受けとらないよ、両替して「100ドル」にして納税しなさいよと。
国民は、観光客が落としていったドル紙幣のほうを多く持っていた。
哀しいかな日本国の政府は、ドルで徴税したほうが財政が安定する。「100ドル」を持っておけば、それは、「100ドル」の価値がある。当たり前。
かりに今後、さらに日本円が暴落し、1ドルが300円→600円になってしまった場合、政府が「30,000円」で受けとった税金は、100ドル→50ドルの価値になってしまい、財政が悪化する。
こうして、国家的決済手段は、円からドルに変わった。
(後漢末、袁紹・曹操は、銭納から布帛納に切り替えたという)

しかし日本円の万札(後漢の五銖銭の比喩)は絶滅したのではない。ドル札だけが、カネになったのではない。古い万札は、閉じた経済圏=商店街では流通した。勲章の副賞で万札が与えられることもあった(曹操が楊彪に与えたように)。
納税には、定められたとおりドル札を使うが、紙面の英語表記が読みにくいから、日本国民は日本円の復活を望んだ。決済には、使い慣れた日本円の万札がいいと、主張する識者もいた(荀悦)。

やがて、治安が小康状態になると、日本政府(文帝曹丕)は、万札(五銖銭)の発行を再開した。
ただ発行して、街でバラ撒くわけにもいかない。日本政府が万札を発行し、その万札を使ってドルを買うと、円安・ドル高となる。これを為替介入という。

日銀のホームページによると、正式名称は「外国為替平衡操作」だそうです。

本題に置き換えると、文帝曹丕が五銖銭を発行し、穀物を買うことを通じて、市場に五銖銭を流し込むと、五銖銭安・穀物高となった。効果は為替介入と同じだが、通貨のように使っている穀物は、食用でもあるから、魏は混乱したと。
あわてて、文帝曹丕は、万札(五銖銭)の再発行を停止しましたとさ。

曹丕が穀物を購入した……というのは、想像で補ってしまいましたが。ただ発行して、街でバラ撒いたとしても、同じことでしょう。
日本円の流通量が増えると、増えたものは、需給のバランス曲線によって、価格が下がる。1ドル300円あたりまで円安が進んでいたが、辛うじて低空飛行だった日本円が、1ドル450円まで円安になってしまったかも知れない。
これは、50%の「円安ドル高」である。
ドルを直接、海外観光客から受けとっていたひとは、おいしい展開かも知れない。しかし、例えば、製品6個を売って6ドルを手に入れていれ、定額をドル納税していた人がいたとする。為替が変わると、製品6個を売っても4ドルしか手に入れられなくなる。しかし、税額がドルで固定されていると、製品9個を売って6ドルを手に入れなければならない。製品3つ分、ただ働きになる。ただ働きする余力があればよいが、ない場合は、収入が6ドル→4ドルに減って、泣き寝入り。
いまは定額のドル納税に例えたが、固定された額面を供出しなければならないものとして、穀物・布帛がある。どのような相場になっても、食べる量・着る量は減らない。ほかの価値測定の指標(日本円・五銖銭)に暴落され、定額での供出・消費が定められたもの(ドル・穀物や布帛)の価値が相対的に押し上げられると、とたんに苦しくなる。

など、曹丕・曹叡の五銖銭の政策を考えました。180604

閉じる

孫呉貨幣経済の構造と特質p289-334

曹魏では、後漢以来の五銖銭が国家的決済手段としての役割を失い、民間での利便性の高い経済的流通手段となった。一方、布帛が新たに国家的決済手段として役目を果たす。貨幣史上の大転換は、曹魏に留まったが、蜀漢と孫呉の吸収により、全体を方向づけた。柿沼p289
蜀漢は、計画的軍事都市の漢中を拠点として遠征・拉致・屯田をし、兵力増強・周辺鎮撫・国威宣揚を行った。本経済体制は、布帛を主たる国家的決済手段、銭を民間の経済的流通手段とする貨幣経済を潤滑油とした。弱小国として曹魏を意識し、臨戦的特徴が濃厚であった。柿沼p290

孫呉は283年に至るまで割拠した。江南地域は後漢時代にも東晋時代にも、銭・布帛忠臣の貨幣経済が展開していたことになる。とすれば、孫呉も、前後の時代とほぼ同様の貨幣経済が継続的に展開していた可能性が高い。伝世文献の銭・布帛の史料は少ない。柿沼p292

…283年って何の年でしたっけ。


嘉禾五(二三六)年に「一当五百」、赤烏元年に「当千大銭」が鋳造され、両者は赤烏九(二四六)年に公的に廃止され、大銭の返却者に同価値の財物が与えられた。大銭は器物に改鋳された。
返却者に同じ額面の小銭を与えれば、官有青銅原料が減少し、器物が作れぬはずなので、銭以外を与えた。柿沼p293

呉簡によると、王国~大帝期、銭と布が納税手段とされたことは確実。
呉簡の「嘉禾吏民田家別(別は草冠)」をみると、田租とともに麻布と銭を徴収。「田家別」は、徴税側の郷が作成し、郷と県で分有した納税台帳。熟田所有者全員が田種や栽培種目を問わず、戸単位で銭・布を納付したと示す。柿沼p295
税制は曹魏戸調制と類似するが、両者の税率は異なり、呉簡には別途「調」も散見するので、「田家別」の穀物・銭・布は、対田課税(=呉簡の租税)の一部と解される。柿沼p295

読みながら思ったこと

皇帝を奉戴することは、命令に強制力を帯びさせられる、攻撃者を逆賊認定できる、というメリットがあるほかに、
ライバルの群雄から、地方から中央への賦税上供分を差し出させたり、郡国の貢献物を持って来させたりできる。それを拒否した者がいたら、合法的に、「皇帝を自称する野心がある」とレッテルを貼れる。
曹操が、劉表を締め上げたときに、使ったやり口。

「国家的決済手段」という言葉を柿沼先生がよく使うけど、これは国家がその形態の貨幣での納税を定め、使われているということ。漢代は銭がこれにあたったが、後漢末になると形骸化され、魏では織物がこれに変わった。呉では、銭が残ったらしい。

高敏氏によると、三国時代は漢代賦税制から戸調制への移行期であり、曹魏は漢制改革、蜀漢は漢制維持を志向し、孫呉は両者を折衷したという。柿沼p334
これは、貨幣・税制もまた、国家の正統性主張と同じであったと結論を導きたい(もしくは先入観に影響された)ように見える。
(呉の正統性は頼りないが)魏とちがって戦乱で国土が荒れなかったから、漢代の経済が比較的保存された。魏は(禅譲の理論を備えたが)国土が荒廃し、漢代から変更せざるを得なかった。蜀は(理念は明解だが)魏と戦うためにバランスを欠いた。経済・貨幣を、正統性主張より現実から解いている柿沼説。

荀悦『申鑑』時事は、曹操政権期に五銖銭の鋳造再開を提言。曹操は、建安十年に鋳造した。中央・地方とも五銖銭が不足していると。反対者は、①銭不足の地方に吸収されて滞留し、中央に還元されない。②遠方の者が中央の有益な商品を買いあさり、中原の物資不足を招く。柿沼p160

ぼくは思う。魯粛の小説で、曹操に「貿易戦争」を仕掛け、為替をあやつって中原の富を吸い上げるならば、この五銖銭の鋳造再開は、絶好の好機ですよね。一兵も動かすことなく、曹操の領土をジリ貧に追いこもうとする魯粛。小説に入れよう。


後漢末、納税手段が銭から布帛に変わった。銭納をやめて、物納(布帛)にするとき、何らかのレートを決めて、換算したはずです。税率設定以後も、布帛の値動きはあるはず。というか、価格変動は、止めることができない。
布帛が値上がりすれば(銭の価値が下がれば)、国家の収入は増える。布帛が値下がりすれば(銭の価値が上がれば)、国家の収入は減る。国家は、銭の価値を下げたい。五銖銭を増鋳すれば、財政が好転する!うま!

布帛と銭の「相場」でも、大切なのは流動性です。これは、商品先物・株取引でも言われることです。売り手・買い手がコンスタントに出現してくれないと、「布帛が値上がりしても売れない」みたいになる。
後漢末は、布帛の生産減、銭の鋳つぶれなど、両方とも市場で流通量が不足する可能性がある。今日のわれわれの相場とは、別の難しさがある。これは、やりようによっては、利殖のチャンス!180603

魯粛の小説は、こういう場面も描きたい。


銭納から布帛納に変わるというインサイダー情報をつかめれば、布帛を買い占める(銭を放出する)と儲かる。納税形態(国家的決済手段)の変更は、利殖のチャンス。リークがなくても、先読みで買い占めよう。
むしろ、「銭納から布帛納にすべきです」を、もっともな理由で進言しておきながら、プライベートでは、布帛を買い占めておくこともできる。

自国で納税形態(国家的決済手段)が変わるときだけでなく、他国で納税形態が変わるときこそ、後腐れなく(同輩からの、批判を回避しながら)利殖できる。あわよくば、敵国の財富を吸い上げる!という、戦略的な効果もある。
財政に発言を持ちそうな、敵国の人材の思想傾向を把握しておき、彼が発言力を持ったなと思ったタイミングで、こっそり売買を発動する。魯粛さん、やってそう。
「こっそり」なのは、自分の売買によって、政策が変更・中止されるのを防ぐため。
曹操の税制改革につけこみ、孫呉が利殖に励むとか、いいね!

占領地で布帛の税率が下がれば、布帛がダブつくから、布帛を売って銭を持っておきたい。すると、「ある地域の群雄の滅亡」というのは、絶好の稼ぎどきか。曹操が袁紹の旧領で、税を軽くしたように。
当然、袁術の没後も、利殖のチャンスがあっただろう。
とか、儲けるための方法は、いろいろある。

つねにバクチだし、再帰性にも配慮が必要だが。再帰性は、自分の行動によって、相場が動いてしまうというデメリットのこと。


袁譚・袁尚を破った後、曹操は河北の税制を整理し、期間限定の減税をしたりしている。ある勢力の滅亡は、その地域経済が大きく変動する要因になる。
曹操のような政権主催者は、定型的な政策しか打てない。「読みやすい」展開が訪れる。為政者は、定型的な政策により、地域の混乱を防ぐのがやっと。
これは、相場師にとって稼ぎのタネかも。袁術の病死、劉勲vs孫策あたりで、魯粛がひと儲けしてそう。寿春から財宝が放出されたときとか。180603

閉じる